2022年5月21日土曜日

物分かりがいい教師は良い教師といえるか

 ここ数回「聞く」がテーマだが、まとめに入る。


前回は子どもが「聞かない」ということの必然性について書いた。

今回は教師が「聞かない」ということについて考える。


子どもが話し手になる状態を考える。

聞くのがこちらという立場である。


優れた聞き手は、優れた話し手を育てられる。

聞く力を磨く必要があるのは、教師の側にも同様である。


ところで、教師の「聞く力」あるいは聞く技能というのを、どう捉えるか。

理解力があるとか、よく話を聞いてくれるとか、色々あるだろう。


それらを一言で言えば、「物分かりがいい教師」である。

いつも話をよく聞いてくれる。

わがままを聞いてくれる。

愚痴も聞いてくれる。

分かりにくい話も理解して、更に噛み砕いて説明してくれる。


子どもにとっては、ありがたい存在である。

しかし、それが子どもの将来にとってプラスになっているかは、疑う余地がある。


先のような存在は、「ガス抜き」として必要である。

癒しである。

つまりは、本来的には家庭の担う部分である。

(実際はそれがままならないから、学校のスクールカウンセラーのような仕事に需要がある。)


物分かりが良く、自分のことをわかってくれて、だめなことでも何でも話せる居心地のよい聞き手。

親友のような関係である。

あるいは、理想のパートナーのような関係である。


ただこれは本来、学校の教師や、会社の同僚や上司など、自身の属する公の社会に求めるべき存在ではない。

公的ではない、私的な関係である。

もしこれを公的な社会に求める場合は、聞いてもらいたい側が時間単位でお金を払う仕組みになっている。

医師やカウンセラー、占い師等のプロの提供する時間は、無料ではないからである。


教師があまりに物分かりが良いと、不都合が生じる。

自分勝手なタイミングで話していいという認識となる。

あるいは、分かりにくい話でも分かってくれるとなると、分かりやすく話そうという必然性がなくなる。


すると、分かりやすく話すための努力や工夫も生じない。

結果、身勝手で冗長で私的で分かりにくい話し方になる。

相手のことを考えて、短くズバリと言う「公的話法」(師の野口芳宏先生の言葉)は身に付かない。


最も良くないのが、「オウム返しスピーカー教師」である。

子どもがどんなに小さい声で話しても、分かりにくい説明をしても大丈夫。

教師が全て「翻訳」「拡大」して全員に話してくれる。(しかも長々と。)

子どももそれを学ぶため、子ども同士の発言は一切聞かず、教師の話す内容にのみ集中すればよい。

分かりにくい説明をしたら、それは全て翻訳下手の教師のせいなのだから、そこを責めればよい。


これは、必ず教育実習生に教える話である。

ついつい、良心的サービスでやってしまうのだが、子どもの成長を大きく阻害する。


一方、(一見)物分かりの悪い教師が担任だと、子どもの側に苦労がかかる。

算数の解き方の説明一つとっても、話し方に工夫と努力がいる。

下手に説明しても、担任教師を含めみんな「?」であるから、発言者の子どもへ「もう1回お願いします。」となる。

子ども同士も、教師が何も言ってくれないものだから、発言者の子ども自身の方を見て真剣に聞くようになる。

話す側も本気になって話す。

結果、子どもたちには、話す力も聞く姿勢も同時に身に付く。


至極単純化すると、そういうことである。

これが、日常生活の全てにおいて行われるのだから、当然子どもの成長の度合いが変わる。

子どもが主体となって進行する理想的な「クラス会議」で行われていることは、まさにこの状態である。


物事は表裏一体であり、「聞かない」という否定的に見える現象にも利がある。

「聞かない」の肯定的な面も、見直す必要がある。

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