ここ数回「聞く」がテーマだが、まとめに入る。
前回は子どもが「聞かない」ということの必然性について書いた。
今回は教師が「聞かない」ということについて考える。
子どもが話し手になる状態を考える。
聞くのがこちらという立場である。
優れた聞き手は、優れた話し手を育てられる。
聞く力を磨く必要があるのは、教師の側にも同様である。
ところで、教師の「聞く力」あるいは聞く技能というのを、どう捉えるか。
理解力があるとか、よく話を聞いてくれるとか、色々あるだろう。
それらを一言で言えば、「物分かりがいい教師」である。
いつも話をよく聞いてくれる。
わがままを聞いてくれる。
愚痴も聞いてくれる。
分かりにくい話も理解して、更に噛み砕いて説明してくれる。
子どもにとっては、ありがたい存在である。
しかし、それが子どもの将来にとってプラスになっているかは、疑う余地がある。
先のような存在は、「ガス抜き」として必要である。
癒しである。
つまりは、本来的には家庭の担う部分である。
(実際はそれがままならないから、学校のスクールカウンセラーのような仕事に需要がある。)
物分かりが良く、自分のことをわかってくれて、だめなことでも何でも話せる居心地のよい聞き手。
親友のような関係である。
あるいは、理想のパートナーのような関係である。
ただこれは本来、学校の教師や、会社の同僚や上司など、自身の属する公の社会に求めるべき存在ではない。
公的ではない、私的な関係である。
もしこれを公的な社会に求める場合は、聞いてもらいたい側が時間単位でお金を払う仕組みになっている。
医師やカウンセラー、占い師等のプロの提供する時間は、無料ではないからである。
教師があまりに物分かりが良いと、不都合が生じる。
自分勝手なタイミングで話していいという認識となる。
あるいは、分かりにくい話でも分かってくれるとなると、分かりやすく話そうという必然性がなくなる。
すると、分かりやすく話すための努力や工夫も生じない。
結果、身勝手で冗長で私的で分かりにくい話し方になる。
相手のことを考えて、短くズバリと言う「公的話法」(師の野口芳宏先生の言葉)は身に付かない。
最も良くないのが、「オウム返しスピーカー教師」である。
子どもがどんなに小さい声で話しても、分かりにくい説明をしても大丈夫。
教師が全て「翻訳」「拡大」して全員に話してくれる。(しかも長々と。)
子どももそれを学ぶため、子ども同士の発言は一切聞かず、教師の話す内容にのみ集中すればよい。
分かりにくい説明をしたら、それは全て翻訳下手の教師のせいなのだから、そこを責めればよい。
これは、必ず教育実習生に教える話である。
ついつい、良心的サービスでやってしまうのだが、子どもの成長を大きく阻害する。
一方、(一見)物分かりの悪い教師が担任だと、子どもの側に苦労がかかる。
算数の解き方の説明一つとっても、話し方に工夫と努力がいる。
下手に説明しても、担任教師を含めみんな「?」であるから、発言者の子どもへ「もう1回お願いします。」となる。
子ども同士も、教師が何も言ってくれないものだから、発言者の子ども自身の方を見て真剣に聞くようになる。
話す側も本気になって話す。
結果、子どもたちには、話す力も聞く姿勢も同時に身に付く。
至極単純化すると、そういうことである。
これが、日常生活の全てにおいて行われるのだから、当然子どもの成長の度合いが変わる。
子どもが主体となって進行する理想的な「クラス会議」で行われていることは、まさにこの状態である。
物事は表裏一体であり、「聞かない」という否定的に見える現象にも利がある。
「聞かない」の肯定的な面も、見直す必要がある。
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