「第3回学校教育のリアルな本音を語る会」は、「聞く」をテーマに開催した。
「聞く」というありふれた行為に対し、改めて問い直すことで、認識の違いがはっきりと出た。
「聞く」に関する学校のリアルな悩みは何か。
それは、多くの場合、態度面である。
しかしながら、態度が本当にその人間の内面を映し出しているとは言い切れない。
そんなことについて参加者と共に話し合っていった。
やはり、画面上であっても、顔を突き合わせての議論というのは、意義がある。
毎月のオンライン学習会もそうだが、前向きな議論からは、何かしら新たに生まれるものがある。
聞くという行為は、読むという行為と同じで、インプット作業である。
同時に、インプットしながら、頭の中で自分との対話が起き、アウトプット作業がなされる。
聞くや読む、見るという行為も、話すや書くという行為と同様に、主体的な行為といえる。
逆に言えば、頭の中で対話が起きないようでは、本質的に聞いた(あるいは読んだ、見た)とは言えない。
ただ聴覚的あるいは視覚的な刺激に脳が反応しただけである。
それでは「馬耳東風」「馬の耳に念仏」である。
(ここでなぜ「馬」ばかりがそんな扱いを、という疑問が湧く。
これは、決して馬を見下している訳ではなく、馬が他の何よりも人間の生活に密着した動物だったからだという。
永六輔さんが、「子ども電話相談室」で答えてくれている内容である。
なるほど納得である。
https://www.tbs.co.jp/kodomotel/etc/20020728.html)
そう考えると、子どもがやたらと「何で?」を連発してくることには深い意味がある。
子どもの脳内で知的作業が為されている証拠である。
成長するにつれて、だんだん「何で?」と思わなくなってくる。
大人の社会で「何で?」を連発していると、仕事が進まないし、不適応扱いされる可能性もある。
だから、言わない。
これは、知的退廃である。
見たこと、聞いたこと、読んだことに「何で?」「変だな?」「どうしてだろう?」と思わなくなる。
子どもは、その点、遠慮なくぐいぐい来る。
低学年の子どもなど、かなり根本的な問いかけをしょっちゅうしてくる。
ごく日常的に使っている用語にも「それって何?」が出てくる。
先日は、「ゲームって何ですか」と問われた。
あまりにわかっていると思いこんでいたことへの質問に、改めて問われて戸惑う。
わかった気がしているだけで、よくわかっていないことに気付ける。
(ちなみにゲームの定義としては「遊び」「勝敗」がキーワードである。)
全ての学習は、主体性が命である。
受動的と思われている行為にも、主体性が内在する。
真に聞く行為は、極めて主体的である。
「聞く」をテーマに深堀りしていき、自分自身の理解が深まったのが何よりの収穫である。
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