私の著書の中に
『「あれもこれもできない!」から…「捨てる」仕事術』というのがある。
この本のせいか、あるいは雑誌に仕事術系の記事を何度も書いたせいか、私は外部の人に、仕事の処理がものすごく速いと思われている。
完全に誤解である。
一緒に働いている人は知っていると思うが、どちらかというと、平均的に見ても、作業は遅い方である。
どの教室でも、支度がやたら遅くて、移動教室だといつも遅れて後ろから来る子どもがいると思う。
実際、子ども時代の私であり、それは今もあまり変わらない。
初任の一年目は、どんなに早くても8時より前に帰れる日はなかった。
夜10時過ぎなどざらである。
二年目も三年目も、常に「初めての学年」であり、それは数年続いた。
何年本気でやっても、帰る時刻が一向に早くならないので、ある日はたと気付いた。
自分は仕事のスピード自体を、これよりも上げることはできない。
速く手を動かせば、多少早く終わるものの、それだけ早く疲れる。
疲れればミスが増え、仕事の能率が格段に落ちる。
結局、平均すれば、何も変わらないどころか、マイナスである。
要は、作業量自体が多すぎるというのが、根本的な原因である。
手放し、捨てる必要があると気付いたのである。
これは一つの正解だった。
拙著にも書いたように、代わりに、もっと大切で、もっと時間を割きたいことに時間を使えるようになった。
ただし「必須の作業量」が多いと、早く帰ることは不可能。
よくよく考えれば、当然のことである。
だから、「〇〇主任」というような、やたら提案や作業量の多い仕事がある場合、早く帰るのは実質不可能である。
また、生徒指導で問題が頻発する場合も、早く帰るのは不可能である。
研究校で、研究主任が早く帰るというのもまず無理だろう。
学校全体の重要な仕事や、子どもの人権や命に係わる仕事を放って帰るわけにはいかないからである。
それらは、どう考えても「捨てられない仕事」である。
今、学校現場は、GIGAスクール構想や感染症対策などで、仕事がどんどん上積みされている。
社会も子どもも変わってきており、それに伴う家庭の学校への要望も高まる一方である。
それに対応すべく、当然人員も増えるのが筋だが、そこは一切変わらない。
「現場の努力」頼みである。
「働き方改革」他は、どれも見栄えのいい美しい言葉で飾られている。
しかしその中身の実際は、個人の労働量の増加で何とかせよということである。
これだけ無理な仕事を上積みしているのに、残業するのは本人の仕事が遅いせいだから定刻までに終わらせて帰れという完全に矛盾した論理である。
具体的に業務自体をなくすか、予算と人員を大幅に増やすかしか実際の救いの道はない。
実は私自身、今年度スタートしてから2週間は、一日も19時前に帰れた日がなく、ほとんどが20時から22時の間である。
もともと仕事が遅い上にやることが増え、学級開きまでが3日しかないという事態。
さらに全国的に、昨年度の日数の遅れを少しでも取り戻すべく、始業が早い。
単純な作業量的に見て、当然といえば当然である。
ただ早く帰ること自体が目的ではない。
きけば働き方改革が現場を圧迫している現状もある。
「早く帰れ」には予算と人員がセットというのが然るべき形である。
また、従来に上乗せしたのに早く帰れというのは、論理的にどう考えても無理である。
(それができるのなら、とっくに全国の学校で定刻退勤が日常化しているはずである。)
今この状況では、腹を括って残業しまくるしか、方法はない。
私は早く帰るための本を書いているが、これは学校現場の本音であり、真実である。
仕事の捨てようがないので、当然帰れない。
だからこそ、本にもあるように、すべてを完璧にこなそうとは決してしないことである。
それは、自分に余裕がある時にすべきことであり、倒れてしまっては本末転倒である。
学級担任として、業務を正常化するために必須のことがある。
それは、自分の仕事とそうでないものを明確に区分することである。
他人を助けないという意味では、決してない。
自分がやる必要がない、むしろ、自分がやることでマイナスになる仕事を作らないということである。
具体的には、子ども(会社であれば新卒社員)を自立に導くようにすることが正解である。
おんぶに抱っこでないと学べないような子どもにしないことである。
その教育を必要としない状態にまで相手を高めるのが教育である。
例えば小学校教育の修了の本質は、子どもたちを小学校教育を必要としない状態にすることである。
小学校で教える教科や教育内容を身に付けた子どもにすることである。
もっとミクロに見ていくと、子どもが自分の支度を自分でできるようにすることである。
自分の学習を自分でできるようにしていくことである。
自分の出した汚れやごみを自分できれいにすること同様、すべての後始末をつけられるようにすることである。
そう考えると、業務量が増えるマイナスの教育は、このたとえの場合だと、以下のようになる。
子どもの支度をいつもすべてやってあげてしまう。
子どもが見ているだけで楽しませるような受動型エンターテインメントの授業を毎日行う。
子どもに掃除も後始末もさせない、やったことや失敗の後始末も、大人が全部代行してあげる。
どれも、善意でよかれと思ってやっていることだが、これらこそが捨てるべき部分である。
これらにより、子どもは確実に自立しないので成長もせず、業務量も一向に減らない。
よかれと努力するだけ、子どもがどんどん成長の機会を奪われるともいえる。
ただし、子どもの自立への教育の初期コストは、非常に高い。
かなりの労力と忍耐力を要する。
自分がやったら簡単にできてしまうことを、辛抱強く見守る必要も出る。
時間も数倍かかる。
だから、日々の業務量も必然的に多くなる。
長期的な投資である。
短期で安易に大きく勝って儲けようとしないで、今は損をしているようでも耐えて、長期で見て勝ちにいく。
学級経営の基本戦略である。
4月早々、仕事が終わらなくて凹んでいた人もいるかもしれない。
それは決してあなたの業務能力が低いからではない。
全国各地、同じ思いの人だらけである。
4月から5月、季節は春から夏になるところだが、仕事的にはまだまだ冬の時期である。
しんどいことも後で花が咲くため、根を張るがんばり時だと思って、地道にやっていきたい。