先日のみどりの日に書いた記事。
みどりの日は
「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなむ名がふさわしい」
とする大勢の意見により定められた。
とある。
(参照:Wikipedia)
私はかつて皇居内を散策した時、初めて昭和天皇が植物などの自然学に造詣が深いことを知った。
天皇という立場であっても、生涯を通して学問の研究をしていたということに大変驚いた記憶がある。
私の学生時代を思い返すと、「大人になったら勉強をしなくていいように」ということで受験勉強をがんばっている人が周りに結構いた。
現実は、大人になってからが勉強のスタートである。
まして、学問と呼べるようなものは、通常は基礎を身に付けた後、大学以降である。
参考記事:Share Study 「学問って何?」という疑問にズバリ回答!-高校と大学の決定的な学びの違い
https://share-study.net/what_is_academic_study/
学問をするというのは、人間の根源的な欲求なのだと思う。
真理の探究である。
それは、高度な遊びといっていい。
小学生でも学問をしている子どもはいる。
夏休みにカブトムシの研究をしていた日本の小学生が、世界的な学術誌で紹介されたそうだが、まさに学問的研究である。
また、小1からダンゴムシだけを12年間観察し続けてきたという例も新聞で見た。
夏休みの自由研究も、ここまでくれば天晴である。
学ぶ楽しさそのもの。
授業でのゲームが楽しいとか笑わせてくれるとかいうようなものではなく、本質的な学びの楽しさ。
これを感じられるようであれば、学校教育としては、大成功である。
ただし、楽しさの前には、壁がある。
壁を乗り越えるからこそ楽しいという面がある。
先の小学生たちの研究の例では、相当な壁を乗り越えている。
夜中の1時に森に出かけて虫を観察をするとか、それを欠かさず何カ月も、あるいは何年もやり続けるとかいうのは、誰にでもできることではない。
(ただし本人がそれを「苦」としていたか否かは全く別問題である。)
いくらでもやる人には、いくらでもやらせればよい。
逆に、本人がやりたくないことを無理やりやらせても、たかが知れている。
そこが個性の尊重である。
「潰しても潰しても潰れないのが個性」である。
ちょっとやそっとではへこたれない、変わらない部分が個性である。
性格や趣味嗜好などを考えればわかるが、周囲がどんなに変えようとしても変わらない。
だから、個性を尊重しようと変な意識を働かせすぎないことである。
学問の追求をする人は、止めてようとしてもする。
運動が好きな人は運動しまくるし、ピアノが好きな子どもはピアノを弾きまくる。
本が好きな子どもは本を読みまくるし、絵を描くのが好きな子どもは授業中でもノートに描き続ける。
好きなことを追求すること。
これは本能として止められない。
下手に個性を伸ばすとかどうこう拘らずに、自分なりに育てようとした上で、植物のようにそれぞれの種が自然にどう伸びるのかを観察していきたい。
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