2021年5月10日月曜日

学級経営の共通言語を示すなら

 先日、都内の学校の自主研修会にて、オンライン講師として学級づくりのお話をさせていただいた。


「学級経営の基礎」というテーマで、「学級経営における校内の共通言語が欲しい」との依頼だった。


私が学級経営における共通言語として提示したのが

「真面目な人に損をさせない」

である。


とにかく、意識しないと、問題行動の方に目がいきやすい。

そこには半強制的に労力もかかるし、当然である。


しかしながら、本質はそちらではない。

教育においては、真面目にやろうとしている子どもたちにこそ、最大に恩恵がいくべきである。

これは、うまくできているかどうかは関係なく、きちんとやろう、がんばろうとしている子どもたちのことである。


着眼点を真面目な子ども中心にすること。

「美点凝視」という言葉もあるが、これである。


素直によいと思う行動をとる子ども。

誰の話も、真剣に聞いている子ども。

時間を守っている子ども。

周りに親切に、優しく接する子ども。


ここに注目し、認めていき、さらなる課題を与え、指導をしていく。

そうでなければ、真面目にやった子どもが報われない。


決まった型を進んで身に付けるからこそ、必要に応じてそこから抜けることもできる。

芸事の「守破離」である。

求める型がある場での「我流」「俺流」は、わがままな出鱈目にすぎない。

(それをするのが目的なら、習いにくる必要がない。)


「自由」「楽」という単語は、快楽に属すので受け入れらやすい。

「規則」「我慢」「努力」「忍耐」は、しんどいので拒絶されやすい。


どちらに価値があるかである。

少なくとも、今を単に自由に気楽に過ごしたいだけなら、確かに学校に行く必要なぞない。

学校は、楽しく過ごせればそれに越したことはないだろうが、本質的には何かと大変さがあるところなのである。

(多くの大人が十分に知っている事実のはずである。「可愛い子には旅をさせよ」である。)


自然を自然のままにしておかず、人の手を入れるのが、教育である。

学校は、あくまでも学びの場であり、遊園地やテーマパークとは一線を画す場である。

たとえ単なる遊びの中にも、学びのある場である。


きちんとやっている、真面目な子どもを優先的に評価する。

なぜそれが学級経営の肝となるのか。

経営という言葉から、会社だと思って考えればすぐわかる。


求められる仕事に対し、誠実に真面目に働く社員と、規則も守らず勝手気ままで不真面目な社員がいるとする。

高評価を与えるのと、処罰のどちらを優先すべきか。

あるべき逆をいったら、集団全体はどうなっていくか。

答えは明白である。


特に最悪なのは、不真面目が「面白い」と気に入られて評価される(相手される)というパターンである。

このあり得ないと思われるパターンは、学級経営だと意外とよく見られる。

これこそが不当な差別、ひいきである。

(正しく働いている者が高評価を受けるのをひいきだと騒ぐ人もいるが、それはひいきではなく正当な評価という。)


つまり「何が高く評価されるのか」を明確にすることである。

目指すべきものがはっきりする。


そうなると、着目され、高く評価される子どもを真似て行動する子どもが増える。

当然、その子どもたちも高く評価されるようになる。

それがどんどん増える。

全体として向上していく。


またそうなれば、励まし合い助け合う集団になる。

結果的に、しんどい立場にいる子どもたちへもケアが行き届くようになる。

その恩恵が集団全体に行き渡る。


なぜなのか。


例えば「他人を助ける」という人として当然の行為をした子どもが、高い評価を受ける。

そうなると、周りの仲間を助ける子どもが増える。

「できない」と困っている子どもにも「助けるよ」という子どもが周囲に常にいる状態になる。

ごく自然で、当たり前の話である。


逆に「人よりできた」「勝った」「速い」ということを高く評価する風潮があるとする。

そうすると、子どもたちは、他人を助けなくなる。

助ければ、人よりできる、人に勝てる、人より速く終わらせる、すべてができなくなるからである。

「できない」と困っている仲間に対し、蔑み見下し差別する風潮ができる。

ごく自然で、当たり前の話である。


「真面目」の中には、学校の求めるある種の正しさが含まれる。

その中には、他人を助けることも含まれる。

特別活動における当番活動や係活動も、他者貢献が軸である。


学級では、見過ごせない事態も起きる。

どこかで、妙に拗ねたりひねくれたりしてしまっている場合もある。


ただし、ここに気をつかいすぎて主軸を合わせ続けると、着目すべき点が変わってしまう。

問題行動や不満へのケア自体は必要なことだが、その時にも真面目な人に損をさせないことが肝である。


個々の自由の尊重自体はいいことなのだが、他者の権利を侵害しないことが前提条件である。

学校は、集団で学ぶ場であり、集団を学ぶ場でもある。

違いを学ぶ場である。

自分とは違う価値観を学ぶ場である。


真面目な人に損をさせない。

学級経営の共通言語として、引き続き提案したい。

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