2014年2月28日金曜日

積小為大

道徳の研究会の学びのシェアの続き。

「積小為大」とは、二宮尊徳の造語であるという。
小さいことを積み重ねることで、大きなことを為すということ。
小とは身の丈にあったことであり、平凡なこと。
それを集めることで、大きなことになる。
二宮尊徳の生き方そのものである。

結構、誰でもわかっていることだと思う。
わかっているのに普通はやらないことをやるのが、偉人である。

日々続けられることは、小さいことである。
大きなことは、物理的に考えて毎日はできない。
「一夜城」という話があるが、それも用意周到な準備あってこそである。
一夜でいきなり大きな城ができるはずがない。

今年度の終わりが近くなってきた。
学年が終わった時に、「この力だけはついた」といえるものを一つは持ちたい。

2014年2月26日水曜日

角を矯めて牛を殺す

先日参加した道徳の研究会での学び。

「角を矯(た)めて牛を殺す」
という諺がある。
意味を辞書で引く。
「少しの欠点を直そうとして、
その手段が度を過ぎ、
かえって物事全体をだめにしてしまう。」
と広辞苑にある。

元々の意味は、牛の角が少し曲がっているのを矯正しようとして、
無理に叩いたりひっぱたりして、弱らせて殺してしまうということから派生している。

教育にありがちな失敗を戒めた諺であると解釈した。

角が真っ直ぐな方が格好がいい。
しかし、牛を構成する要素は角だけではない。
角が真っ直ぐでも、痩せていては、役割を果たせないかもしれない。
角が曲がっていても、他が優れているなら、価値があるだろう。
(ひたすら「角の真っ直ぐさコンテスト」に出るだけなら話は別だが。)

ちなみにこの諺は、「日本人の良さをもっと誇るべし」という話の中で引用されていた。
例えば、日本人は、自己主張が弱いと認識されている。
だからといって自己主張のはっきりした外国人を目指すのはいかがなものか。
「話すのが得意」より「聞くのが得意」な子どもの方が、将来的には伸びているように思う。
日本人としての良さをもっと誇り、伸ばす方に目を向けても良いのではないかということだった。

「かくあるべし」という理想の姿を持つことは大切である。
しかし、一つの要素に拘りすぎて、他の良さを見逃すことは避けたい。

2014年2月24日月曜日

価値が集まって価値観になる

先日、道徳の研究会に出たので、そこでの学びのシェア。
例の如くとても書き切れないので、印象的なことを一つ。

会の最後に、元教育長の先生のお話がった。
次は、その先生からのお言葉である。

「価値と価値観は違う。
価値が集まって価値観になる。」

意外と意識していなかったが、確かにそうである。
その先生は、家族に悪性腫瘍ができた時の例を挙げて説明された。

「正直」「誠実」ということを重視するなら、悪性腫瘍だと伝える。
しかし「思いやり」を考えると、どうすべきか。
それぞれは道徳の「価値」ではあるが、どう伝えるかは「価値観」による。

「価値」は教えることができる。
しかし、どんな「価値観」を形成するかは、本人次第。
教える私達にとってもこれは同様である。

そして、「価値」は「価値観」の材料である。
材料がなければ、できるものもできない。
「価値」はきちんと教える必要がある。

例えば先月は成人式があったが、どんな価値観を持って新成人は臨んだのか。
「幼心をうちすてて」という心境に至るのも、その価値を知ってこそである。

2014年2月22日土曜日

大縄・8の字跳び 「記録が伸びない」について

大縄や8の字跳びに取り組む先生に多い悩みの一つは「記録が伸びない」ことである。
途中までは順調に記録が上昇するのに、ある日を境に突然伸び率が悪くなる。
今まで通り練習しているのに、なぜ伸びないのだろうと悩む。

これは、実は何も問題ない。

最初の内順調に伸びるのは、そこまではやり方がめちゃくちゃだったからである。
どう縄を回すかさっぱりわからなかったのが、やがて一応のやり方に落ち着く。
どう跳べがよいのか、どう並べばよいのか、どう声を出せばよいのか。
そういう基本的な部分の方法を覚えて、型通りになるまでは伸びる。

つまり、伸びなくなったところが、今持っているとりあえずの実力といえる。
「地力」といってもいい。
それぐらいの能力はもともとその学級の子どもたちに備わっていたといえる。
通知票の成績と同じで、1学期から3学期で多少の上下はするが、自分の実力に近い評定がもらえる。

そしてその状態に達した後に、やり方を少し工夫していくと、今度は伸びないどころか記録が落ち始める。
これも何も問題ない。
今の殻を破るために新しいやり方をすれば、一時的には確実に記録が落ちる。
新しいやり方が技能として定着してくれば、今度は嘘のように一気に記録が上昇する。

記録が伸びないと悩んでいる時に問題があるとすれば、
「現在のレベルに適切なやり方を教えないまま、記録だけを目標に取り組んでいる」
という状況である。
それは指導不足である。
見極めないといけない。

自分のやっている方法に自信を持って指導し、それを続けていくこと。
それを時々人に見てもらえば、不備・不足・不十分も分かってなお良い。
見た目には結果がすぐに出なくても、信念を持って取り組み続ける。
冬の桜と同じで、春の開花に向けて根を伸ばしていると思えばよい。

焦らず、諦めず、そして何より「楽しんで」取り組みたい。

2014年2月20日木曜日

8の字跳び 縄に入れないで悩む子どもへの手立て

今回は需要の高い8の字跳びの話。

縄にタイミング良く入れない子どもがいる。
必ずいる。
いない方が珍しい。いなかったら異常事態ぐらいに思ってよい。
それぐらいに当たり前に何人もいるのが普通である。
というより、うまく入れないのが普通だと思った方が良い。

タイミングがわからないといった知識や技能的な問題もなくはないが、一番の原因は恐怖感。
恐怖感も大きく二つ。
1.身体的苦痛への恐怖
2.精神的苦痛への恐怖

低学年から高学年になるほど1から2に移っていく。
低学年の内は縄無しで跳んだり「へび」などの遊びをしたりして、動きの基礎作りを「痛くない状況」から始める。
縄も大きく回すことで空間的・時間的余裕を作り、体に当たる確率を減らす。
ついでに、体育館より外の方が縄が地面に当たる音がしないので、精神的恐怖感も減る。
とにかくわかっていなくて技能的な面が未熟なので、まずはそちらを重視する。

高学年では、縄が当たる痛み自体は大した恐怖でもない。
問題は、精神的苦痛を受けることへの恐怖。
「ミスはいけないこと」
「自分だけができない」
「自分が足をひっぱっている」
「みんなはどう思っているのだろう」
・・・・・・
真面目な子どもほど深く悩む。

これを取り除けるのは、クラスの仲間の力しかない。
本人の努力だけでは無理である。
(そもそも真面目に努力するタイプだから悩むのである。)

苦戦している人の前後に割と得意な人ではさみ、後ろの人が軽く押してあげる。
これは主に技能的なサポート。ここも必要。

より大切なのは、他の全員の仲間からの声かけ。
ひっかかっても、縄に飛び込んだこと自体をO.K.とする。
全肯定する。
跳べたかひっかかったかということすらどうでもいい。
飛び込んだ時点で勇気を発揮したのだから、そこに価値がある。
全て「トライ&エラー」の繰り返しであり、トライするごとに成長すると考える。
ゲームでいう「経験値」の獲得である。
エラーも成功へのステップでしかない。
そういう視点を、担任が率先垂範して声かけしながら、クラス全員に共有させる。

そもそも縄に入れない前提に「ひっかかってはいけない」という「思い込み」がある。
全ての失敗恐怖症の原因は、失敗してはいけないという前提。(=挑戦しないのが安全。)
ひっかかっていい。
そこはどうでもいい。
そうじゃなくて、飛び込む勇気のみにまずは価値を見出す。
ひっかからないようにするにはどうするかは、飛び込めるようになった後にみんなで考えればよい。

具体的には「ドンマイ!」よりも「オッケー!」「ナイストライ!」である。
「いいね!」や「やった!」でも、肯定語なら何でもいい。
(「ドンマイ!」は主にうっかりなミスをした時の励ましに用いる。)
ひっかかっても、本当に喜べるようにしていく。
担任なら、子どもの勇気ある行動に心から称賛をおくれる。
そこについてきてくれる子どもが必ずいる。
それが、インフルエンザよりはるかに強い感染力で、どんどん広がる。

8の字跳びは学級経営そのもの。
みんなが「楽しい」と思える取り組みにしていきたい。

2014年2月18日火曜日

「大変」で大きく変わる

運動会や縄跳び大会等、各種行事や集会などがあると、準備に時間がかかる。
正直、大変である。
特に勝負事になると、負けられないと思う人が多い。
自分が負けるのは構わないが、クラスの子どもが負けるのは忍びない思いにかられる。
だから、勝負事は結構嫌がられる。

もし、その行事がないとどうなるのか。
「楽」である。
しかし、「楽しい」かどうかは別問題。

やはり、困難があってこその感動がある。
少し面倒でも、何か行事があれば全力を尽くしたい。
「ピンチはチャンス」「トラブルはチャンス」「困難が人を育てる」・・・
とにかく、「大変」なことは、「大きく変わる」チャンスととらえた方が良い。

行事に時間をかけすぎて、本業の勉強がおざなりになっては絶対にいけない。
本業にも力を入れつつ、行事をうまく活用したい。

2014年2月16日日曜日

「クラス会議」導入

冬休みに影響を受けた本の内の一つを紹介。
「クラス会議で学級は変わる!」諸富祥彦 監修 森重裕二 著 明治図書 

友人に教えてもらった本である。
割と素直な質なので、勧められたらとりあえずすぐ買う。
それで失敗したことがない。
友人や知人にダメなものをすすめるはずがないからである。

「クラス会議」そのものの実施方法も、これを読むとすごく分かりやすい。
ちなみに「クラス会議」とは簡単に言うと、
「毎日決まった短い時間を確保して、議題についてみんなで解決策を考える」というような手法。
3学期から実際に導入している。
理由は、ここを支える哲学に共感したからである。

「守られた失敗しない安全な環境よりも、
失敗しても大丈夫な試行錯誤していける安全な環境へ」

「『問題』ときいてイメージするものを、『罰』『叱責』から『解決』『責任』へ」

「みんなで解決策を考えることで、みんなが考えてくれる体験ができる」

こういった言葉が随所にあり、共感できた。

「クラス会議」自体は一つの手法だが、なぜその手法をとるのかが明確にわかる。
冒頭の文と矛盾するようだが、
「いい結果が出るらしいからやる」のではなく、
「なぜそれをやるべきか明確だからやる」というのが大切だと思っている。
もしかしたら、様々な実態に合っていなくて、いい結果が出ないかもしれない。
それでも、明確なねらいがあってやるなら納得がいく。

3学期、やるべきことに追われるのではなく、やりたいことを追いかけていきたい。

2014年2月11日火曜日

休み明け、自分のやる気スイッチオン

長期の休み明け、学校や仕事に行きたくないと思う人が多いようである。
大人も子どもも同じである。
休み期間中はとにかく「楽」なので、そう思うのが普通である。

しかしどうせなら、楽しみに、ワクワクして仕事を始めたい。
自分自身を振り返って、どうやってやる気スイッチが入っていたのか考えてみた。

やる気が出なかった時がある。
やる気十分だった時もある。
何が違うのか。
クラスの状況か?
一緒に働く同僚か?
単に寒いからとか?
そういう環境的な要素も0ではないかもしれない。
しかしながら、例えば尊敬する先生と同学年を組んだ年であっても、やる気が出ない時もある。

あくまで私の場合ではあるが、ポイントは「勉強」。
休み期間中、何かを学んだりして、学級で試したいと思った時。
こういう時は、次の勤務に向けてもやる気が出る。
刺激になる本を読むことでも、セミナーを受けることでもいい。
旅行先等で面白いネタを見つけて、授業に使いたいと思うことでもいい。
とにかく、楽しみを自分で作ることである。

そんなことで、私の担任する子どもたちは、そこに付き合わされることになる。
3学期にしてクラスのシステムが一部変わったりする。
うまく機能しきらないこともあるが、3学期なのでそれでも何とかなる。
(ちなみに、ここに関してはおすすめはしない。システムは変えない方が、本当は安定する。)

それなら来年度の新しいクラスを持ってから始めればいいという考えもある。
しかし、今自分が「良い」と思ったことは、今目の前にいる子どもにしてあげたい。
今いる子どもたちを二度と担任できないと思うと、そう思う。
いつやるのってきかれたら、年がら年中いつでも「今」である。
流行語大賞になる前からこれから先まで、いつでも「今」。

そんな訳で、まだまだ新たにやりたい実践がいっぱいある。
もしやる気が出ないという場合、この楽しみを自分で設置するのも手であると思う。

2014年2月8日土曜日

目標を明確にする

あと約1ヶ月で、3学期が終わる。
学級の完成と終結である。

私はよく、これを食べ物に例えて子どもに話す。
ケーキに例えることが多い。
1学期はスポンジ作り(土台作り)
2学期はフルーツをはさむ、生クリームを塗る(基本的事項の完成)
3学期は苺などの飾り付け(仕上げ)

3学期初めはもう、ほぼ出来上がっている状態である。
ケーキとしてとりあえず食べられる状態。
最低限の点検は必要だが、時間の都合上、あれこれやり直す時ではない。
私の学年の場合、学校に来る日数を数えたらあと30日足らず。

「規律」(=土台)などは、できている前提で進める。
子どもの力を最大値にまで高め、手放すための準備期間である。

2学期にある程度できている場合、3学期、何も準備しなくても、特に問題は起きない。
時が来れば、普通に終わることはできる。
しかし、それではあまりに味気ない。

3学期はいかに「余計なこと」をできるか。
「一手間」といってもいい。
何かしかけたい。

その前提となるのが、「目標を明確にする」こと。
今年度の最終着地点のイメージを、具体的行為像として明確に描きたい。

学力面はどうなのか。
技能・体力面はどうなのか。
学級目標に合致した姿になっていけそうか。
どんなイベントをやりたいか。
どんな卒業式を迎えたいか。

以前紹介した「未来学級通信」を書く手法でもいい。
人に見せなくてもいい。
ただし、学級の子どもたちと話し合って、イメージの共有はしておきたい。

目標さえ定まっていれば、行く方向は決まる。
目標設定だけは、確実に行っておきたい。

2014年2月6日木曜日

艱難汝を玉にす

「反省はするが後悔はしない。」
そんなことを、行事の後や、子どもを叱った後などにも話す。
一年を振り返ってみても、そうでありたい。

「艱難(かんなん)汝を玉にす」という中国の諺がある。
苦労や困難が人を成長させるという意味の諺である。

振り返ると、誰しも一年で様々な困難があったことと思う。
困難を経験してここにいる自分。
困難を避けてここにいる自分。
どちらが成長しているかは、明白である。

「若い内時の苦労は買ってでもせよ」ともいう。
正直その時に買いたくはないが、振り返ると良かったといえる。
成長の度合いは、どれだけ挑戦したかということと同義である。

2014年2月3日月曜日

一生勉強

8の字・大縄のレポート希望を山ほどいただいた。
メルマガ発行は基本的に一方通行である。
なのでこの機会に本当に読んでくれている人がいると実感できて、とても嬉しい。

面白いことに、全く8の字や大縄の大会が無い学校の方からも結構希望があった。
それらの方々の共通点は「学びたい」というただ一点。

私がいつも教えていただく野口芳宏先生。
野口先生は、いつも学ばれている。
喜寿を迎え、尚も勉強中。
「一生勉強」を地でいっている。
喜寿の方が学んでいるのに、現職で「もう十分」ということは有り得ない。
(20代後半ぐらいで、「もう十分」の考えが頭をよぎったことがある。
学級経営等が少しばかりうまくいくようになった故の傲慢さ。
恥ずかしい限りである。)

最近読んだ本に、次のようなことが書いてあった。

人生には、四季がある。
二十代は春とかよく言われるが、あれは違う。
二十代は、冬。
様々な厳しさに耐えながら学ぶ時期。
三十代以降に春が訪れる。
(「栄光へのポールポジション」落合信彦著 小学館 より要約)

三十代で花開く人もいれば、四十代、五十代の人もいる。
いや、伊能忠敬のように六十代か七十代かもしれない。
いつ花開くかは、わからないが、種を蒔かねば花は咲かないと思う。

知れば知るほど、無知であることを知らされる。
だから、色んな人に「教えてください」と言える。
そういう人に、私もなりたい。

2014年2月1日土曜日

決断力は、スピード

ちょうど一ヶ月前、8の字跳びと大縄のレポートプレゼントを告知した。
告知早々数分でたくさんの方から御連絡を頂いた。
初めて登録された方だけでなく、元々の読者の皆様からも多く御連絡を頂いた。

一つわかったことは、読者の方々の決断のスピードの速さ。
読んで即決してメールされた方がかなりいたようである。
「いつかとおばけは見たことがない」という言葉がある。
もらったからといって報告義務等は全くないので、まだ欲しい方がいたら資料請求して欲しい。
どうせならたくさんの方々に見てもらって役立てていただけた方が、苦労が報われる。

「成功の女神はスピードを好む」という言葉もきいたことがある。
決断力とは、スピードそのものである。
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