2019年5月31日金曜日

昭和の「べき・ねば」を捨てる

学校には「べき・ねば」が多い、ということについては、これまでも再三述べてきた。
考え方が硬直してベキベキだったり、しつこくてネバネバしている類のものである。

この「べきねば」が、あらゆる苦しみ・問題の根源になっている可能性がある。

例えば、子どもが席について座っていられない「問題」。
座っているべきという前提が、座らせねばならない、座っていないのはいけないという「問題」を生む。
自らわざわざ問題をこしらえ、生み出して、それに悩み苦しんでいるといえる。
まあ、言うなれば「ドM」である。

そもそも、子どもは黙ってじっと座っている生き物ではない。
嫌でも黙って座っていられる子どもが存在するのは、そうしないと「不利益を被る」と学習しているからである。
(ある意味、それも主体的な選択である。服従を選択する、というのはあり得る。自己防衛手段である。)

座る「べき・ねば」を捨てて、立ち歩いて動けるタイプの学習スタイルにすればいい話である。
近年は、社会人のセミナー等でもそのスタイルが普通にある。

例えば、食事中に立ち歩くのはマナー違反である。
好きなものばかりを選んで食べるのも、よろしくない。

しかし、立食パーティーというのもある。
立ち歩いても、好きなものだけ食べても、全く問題ない。
なぜなら、立食パーティーは、多くは「交流」が主たるねらいだからである。

学校は、何がねらいなのか。
どの国でも、その国にとってその時代に必要な方針に沿って学校教育がなされる。

例えば、戦時中。
規律正しく動き、上の命令に逆らわず、忠実に従える国民が大量に必要である。
戦闘においては、そこに命がかかっているからである。
列からはみ出すのも、行進が揃わないのも、返事が小さいのも、号令に従わないのも、全部×である。
特にこの時代において、運動会は富国強兵の一環の大切な行事である。

例えば、高度経済成長期以降。
「24時間働けますか。」に「もちろん、喜んで!」が大切な時代である。
作れば作るほど、売れた時代である。
決められた作業を正確に行い、働き続けられる人材が必要である。
そういう教育が必要であり、学校のテストでも決められた正解を素早く答える能力を求める。

今、令和という新たな時代を迎えようとしている。
この時代に必要な教育とは何なのか。
少なくとも、戦時中や戦後の高度経済成長期と同じではないはずである。

昭和、平成までの「べきねば」を捨てられるか。
いや、もっというと、学校教育においては、平成になっても昭和のままだったという部分がかなりある。
元号が変わるこの年度は、多くの人にとって変革へのチャレンジの一年になるはずである。

2019年5月29日水曜日

守りに入ったら終わり

今年度最初のメルマガで書いた、大切だと思うことを一つ。

学級経営に限らずだが、実感していることがある。
それは、
「守りに入ったら、終わり。」
ということ。

昨年度、ぼちぼちやれたとする。
まあまあの成果が出たとする。
そうすると、やり方を変えにくくなる。
変えなければ危険がないからである。
そうすると、年を経るごとに、ずるずる後退する。

子どもは時代のスピードで成長するのに、同じでいい訳がない。
もう平成から令和へ時代が変わったというのに、下手すると、昭和のままである。
恐ろしいほどの「後退」である。

昨年度、失敗したと思うとする。
そうすると、攻めるのが怖くなる。
やり方を変えないとまた同じ轍を踏むのだが、怖くて変えられない。
代わりに、規制を厳しくしたり、言うべきことを言わずに黙ったりするようになる。
こうすると、また同じ失敗をする。
やはり、「後退」である。

自分を守りに入ったら、もうダメなのである。
特に学級経営では、子どもにおもねったら終わりである。
管理職や保護者に及び腰になっても、ダメ。

子どもにどうなって欲しいか。
主体的・対話的で、深い学びをして欲しいはずである。
これはかなり「攻め」の学び姿勢である。

だったら、こちらもそうでないといけない。
自分は及び腰で全く動かず、安全地帯から命令を出すような人の言うことを聞きたい訳がない。

どんな人が相手なら、人は掛け値なしに動くのか。
歴史上の教育者に学ぶのがいい。

歴史上の教育者といえば、吉田松陰。
命令をしない。
差別もしない。
教えないで教える。
言うべきことは言う。
優しくて厳しい。
ここに学んだ志士たちは、日本を動かす人物になっていった。
自身は死罪になっても、教育者としては、確実に「成功」である。

基本が「攻め」である。
攻めすぎて何度も捕まっているが、それも潔い。
「やむにやまれぬ大和魂」である。

自分の先生が攻めていると、教え子たちも真似したくなる。
多分、吉田松陰に教わっていたら、学ぶという行為も、主体以外に有りえなくなる。

「勉強は忍耐」とか「将来の受験のため」と心の奥底ででも思っているのなら、それは確実に子どもにも伝わる。
実につまらない学びである。
子どもが勉強嫌いになること必至である。

「嫌い」は、「怖い」とは違う。
子どもも大人も同じで、嫌悪感を抱くのは、人として尊敬できない、信用できない人物である。
「言ってることとやってることが違う」というのは、その点において致命的である。
いつも自分の立場の守りに入っている大人を見て、子どもの憧れや目標になれるはずがない。

今年度、何がしたいのか。
攻めの姿勢こそが我が身を助けることを肝に銘じて実践していきたい。

2019年5月27日月曜日

道徳の3階層

鍵山教師塾での学び。

道徳を、3つに分けて考える。

最下層は、法律。
次が、躾。
最上層は、求道。

これら全てを合わせて、人として生きる道、「道徳」である。

法律すら守れないという状態は、基本的な欲求が充足されていない状態である。
逆に法律を守れる人とは、幼少時に親や目上の人の愛をよく与えられ、受け取れた者だけだという。

よって、法律を破っている人間に対しては、「道徳論」で説いても無駄だという。
例えば、ひどい生活をしていて、盗んでまで食べ物を欲する子どもたちに、道徳心が欠けいる訳ではないのは自明である。
あるいは、愛情不足の子どもが暴力行為に及んでしまうのも、道徳心の問題ではない。
根本は愛の不足であり、ここを理解して与えるしかない。

だから、もし学校の「有名人」を担任することになったら、無条件に愛を与える以外に方法はない。
教えて何とかなるなんて思わないことである。
拙著『切り返しの技術』でも書いたように、100回裏切られる前提と覚悟が必須である。

躾とは、社会性そのものである。
中国の「礼」である。
これは「おしつけ」でよい。
こちらも説教は無駄。
そういうものだと身に付けさせるべきものである。

例えば、その文化における独自の作法なぞは、「おしつけ」以外に知る由もない。
説教ではなく、しっかりと教える。
反復させ、型にする。

ちなみに、躾のなされていない部分は、本人の「悩み」として表出するという。
躾をされていないと悩みが増える、不幸になるということである。
そう考えると、躾は教育において必須である。

最上級の「求道」とは、高みを目指して生きる「道」のこと。
これこそが本物の道徳、徳の道である。
「道」とは正解がなく、常に続くものを指す。
書道でも武道でも同じである。

これらは、自分で究めていくもので、正解もゴールもない世界である。
よって、「型」を越えた時点から教えることが不可能な領域である。
また、口にして教えた時点で、もうそれが入らなくなるというので、要注意である。

では、最上級の道徳である求道を、どうやって教えるのか。
これは、背中で示すしかない。
むしろ、本人が勝手に選んで、勝手に真似されるものである。
よって、教えること自体が不可能と考えてよい。
自分を鍛える「修養」以外に道はないということである。

「道徳を教える」ということへの違和感が、すっきりと溶けた。
なるほど、道理で教えらないはずである。
この考えに則れば、教科書のある道徳科の担保できるのは、「法律」と「躾」までである。

あくまで捉え方の一つではあるが、自分の中ですっきりしたので、シェアしてみた。

2019年5月25日土曜日

悲観的に最悪を想定して、最高の準備をし、楽観的に臨む

タイトルの言は、5年ほど前に東京教師塾というところで、塾頭の原田隆史先生に学んだ言葉。

「悲観的に最悪を想定して、最高の準備をし、楽観的に臨む」

これがどこか一つでも違うと、望まない結果になる。

例えば
「楽観的に最悪を想定しない」する。
そうすると「予想外の事態」が増える。
対応が遅れる。

天気予報もみないで「空が青いから大丈夫」と出かけたら後で大雨、というパターンである。
教師の場合だと、通知表のミスで大きな手間をとったり、家庭への連絡不備で連絡網を使用、というようなパターンである。
どれも注意深く事前チェックをしていれば、防げるミスである。

例えば
「最高の準備」をしないとする。
想定通り最悪が起きた時に、手が打てない。
「ほら、やっぱり起きた」と嘆くだけになる。

先の例だと、雨が降りそうだけど傘を持たないで出たら大雨、というパターンである。
教師の場合だと「やっぱり授業がうまくいかなかった」というパターンである。
(準備していないのだから、それはそうである。)
具体的に準備の行動を起こしていれば、防げるミスである。

例えば「悲観的に臨む」とする。
そうすると、見方がマイナスになり、固くなる。
最悪を想定して準備はよくしているので、失敗しまい、予定通りにいかせようと、「必死」になる。
楽しくないのである。

先の例だと、ばっちり準備はしているのに、常に雨が降ることを不安に思っている状態である。
教師の場合だと、授業研で常に「指導案通り」を目指して、脱線を恐れながら授業している状態である。
(この場合、本当は価値のあるかもしれない、子どものユニークな言動は黙殺される。)
最悪も想定して十分に準備もしたのだから、後は流れに身を任せて楽しむのが正解である。

経験が浅い状態ほど、「楽観的に臨む」の部分が難しい。
それでも何か想定外が起きる気がするからである。
それを潰すには、準備しかない。
「後は神頼みぐらいしかできない」という状態まで万全にしておく。

少し慣れてくると「悲観的に最悪を想定」が難しくなる。
これまでの経験値から、「これぐらいで大丈夫」と考えるようになるからである。
「一時停止」とかかれていても「いつも誰も来ないから」と突っ込むようなものである。
慣れてきた時がケガをする時である。

かなり経験を積んでくると「最高の準備」が難しくなる。
どれも何となくできてしまうからである。
「変化なし」「例年通り」という、一番恐ろしい慢性病にかかる。
どんなに年齢を重ねても、死ぬまで学び続ける人との違いである。

自分はどのフェーズにいるか、客観的に把握すること。
その上で最高の準備をして、変化を起こすこと。

昨年度と同じことは、極力しない。
この職業の場合、過去の成功パターンにしがみつくのが一番危険である。
なぜなら、毎年違う子どもを相手にする上に、子どもは成長スピードが大人とは桁違いだからである。

常に学び続けること。
これこそが、不安をなくす唯一無二の方法であると考える。

2019年5月23日木曜日

高学年担任に不安を覚えたら

ある会合で「どの学校も高学年を希望する人が少ない」という話になった。
現役の教諭から教務主任、教頭、校長、退職した方、委員会関連まで、あらゆる立場の人がいた。
全員違う地区、違う職場、違う年齢層である。
その人たちが口を揃えて言った話なので、そうなのかもしれない。

なぜ、高学年の担任希望者が少ないのか。
一言で表すと「大変だから」である。
何が。
学級づくりそのものがである。

低学年は、やたらと教師についてくる。
低学年の大変さは、基本的に「幼さ」に端を発するものであり、大人なら対応できる。
中学年もほぼ同様である。
しかし、高学年は違う。

高学年は、集団の関係性が出来上がっていることが多い。
前年度までに、集団内に強い上下関係ができてしまっている場合もある。
加えて、第二次性徴の平均的始まりの時期であり、猛烈な反抗期の入り口である。

私は、今でこそ低学年の担任だが、それまで高学年担任ばかりしてきた。
希望した訳ではないが、そうなってきた。
(基本、管理職に「お任せ」である。置かれた場所で枯れるかもしれない覚悟である。)

十数年に渡る高学年担任の経験から、困難の一定のパターンが見えてきた。

例えば、高学年女子の「言いつけ」や「相談」は、多くの場合いじめの種を含む。
「正義」の皮を被って、対立する女子に向けて発せられていることが多い。
予め見る目があればわかるが、ないと言いくるめられる。
対応の術を知っているかどうかに成否がかかっている。

また高学年担任の基本姿勢は「子どもの力の信頼」である。
あらゆることに、自力解決を促す。
手を離すのはもちろん、敢えて目も少し離す時期である。

こういったことは、どれも「経験知」である。
汎用性のあるものにすれば、世の中の役に立つと思い、次の本にした。

『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-140623-3
https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237

高学年担任に不安のある方、あるいは周りにそういう方がいるなら、ご一読してはどうか。

学年に関わる本は、共有するのもおすすめである。
1冊あれば、みんなで読めるし、共通理解もしやすい。

高学年担任は、対応がわかれば一番やりがいのある、面白い部分である。

2019年5月21日火曜日

8の字跳びが苦手な子どもへの指導をどうするか

前号の続き。
8の字跳びが苦手な子どもへの指導をどうするか。

当たり前だが、集団には跳ぶのが苦手な子どもが含まれる。
いや、苦手な子どもが生まれる、といった方が正しい。

なぜかというと、回数が上がるにつれて、それぞれのレベルで「ついていけない」という事態が生じるからである。
最初は苦手だと思っていた子どもが、練習を重ねるにしたがって克服して上手くなることもある。
一方で、最初の頃の、ゆっくり入って、止まって、ジャンプして、の時は出来たのに、レベルアップしてくるとできなくなる子どももいる。
さらにもう一方で、終始一貫、得意という子どもも、苦手という子どももいる。

これら能力と育ちが異なる個が集まってできた集団が学ぶ。
この点は、算数等の普段の学習と同じである。

何が必要か。
助け合いである。
サポート、励まし、課題解決である。

ただ算数の場合は、最終的には個人の問題で終わる。
集団跳びでは、それが集団の記録に反映する。
だから、どうしても気楽にはできないという短所と、いつも以上に必然的に努力を促すという長所がある。

具体的には、毎回の短いミーティングが肝になる。
跳んでみて、円座して話し合って、修正。
この繰り返しである。

基本はクラス会議と同じである。
全員が円になって平等な立場で、話し合う。
この時大切なのは、他人の批判をしないこと。

「〇〇さん、ここを直して」ではなく、
「ここが自分は困っている」
「ここをこうするために、私にこれができる」ということを互いに出し合う。

具体的な例を出すと、「縄にタイミングよく入れない」という困り感のある仲間がいたとする。
それに対して「〇〇さん、がんばって入って!」ではなく、
「縄に入るタイミングでみんなで声を出していきましょう。」
「私が後ろで、入るタイミングを教えます。」
「その時だけ縄の回し方を少しゆっくりにしてみます。」
といったことを発表する。

あくまで、自分のできることを伝える。
周りのために、自分のできることに全力を尽くす、という姿勢を学ぶ。
「他責」の姿勢を排して「自助努力」の姿勢にシフトしていくのがコツである。

担任が気合いを入れすぎていてはダメ。
一方で、放置していてもダメ。
話合いの方向修正が、担任の仕事になる。
それをしないと、うまくいかない時、話合いがどんどんネガティブに流れるからである。
あらゆるリーダーの仕事は、指針を示すことである。

昨年度の私の一年生の学級は、後日談がある。

やはり、大会当日でも、まだ跳ぶのがなかなかうまくならない子どもたちもいた。
そこまでバシバシ鍛えようとした訳ではないのだから、当たり前である。
今できることを全力でがんばればよいと、子どもたちも考えて臨んだ。

さて、大会が終わった。
その日の昼休みに「先生、8の字跳びやろう」と誘われた。
中に、かなり苦手だけど、がんばっていた子どももいる。
そうしたら、上手に入って跳べた。
次も、跳べた。
みんなで「やった!!」と大喜びである。
本人も、ニコニコである。

この子どもと、周りの子どもの性質がいいから、といえばそれまでかもしれない。
しかし、こういったことは、集団で跳んだ回数そのものよりも、よっぽど大切である。

ドラマは、困難やうまくいかないことの中にあり。
子どもの自助努力と周りの温かいサポートで、高い壁を乗り越える体験ができれば、大成功である。

2019年5月19日日曜日

8の字跳び等の集団指導に要注意

昨年度、1年生の長縄大会があった。
3分間の8の字跳びである。

さて、こういうだけで、よく聞かれる。
「何回跳べたのですか?」

まあ、ネットで「8の字跳び10の基本技術」とか書いて発表しているぐらいだから、その質問が来るのも当然である。

はっきり言う。
どの人のどの学級の実践であっても、跳んだ回数自体は、どうでもいい。
大切なのは、その回数に至るまでの「文脈」である。

冷静に考えて、大人になるにあたり、8の字跳びをすることはない。
やる機会もきっとないし、必要もない。

では、なぜやるのか。

子ども集団が、それを通して成長するからである。
その中で、個が成長するからである。
子どもの育ちがすべてである。

さて、この集団縄跳び系は、かなり注意して指導しないと、この点で相当なマイナスになる。
子どもの集団に対する所属感の減退や、学校教育への不信感を強める可能性が出る。
こうなると、本来のねらいと効果が真逆である。

なぜなのか。
特に幼いほど、他人が「できない」ことに対して責める姿勢が出るからである。
逆に高学年は、「できない」ことに対して、必要以上の自責の念が出るからである。

ここに配慮していかないと、相当失敗する。
ものすごい記録が出て大会でも一位だけど、大失敗という事態も考えられる。
終わってから「これでもうやらなくていいんだ!」という声が出るようでは、まあ失敗と考えてよい。
あるいは、自分が成功したから周りを見下すようでは、最悪の大失敗である。

これは、あらゆる集団指導や部活動、勉強等にもいえる、共通指標である。
成功した自分は偉いんだとか、大学に入ったらもう勉強しなくていいなどと、思わせるようでは、教育の大失敗の極みである。

この辺りの配慮なくして取り組むと、実はマイナスの教育になっている可能性がある。

では、跳ぶのが苦手な子どもに対してはどうするのか。
長くなったので、次号で紹介する。

2019年5月17日金曜日

学校の「当たり前」は変えられるか

前号の、楽しい学校とは何かについてという話題と関連。
次の本を読んだ。

『学校の「当たり前」をやめた。
生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』
工藤 勇一 著 時事通信社
https://bookpub.jiji.com/book/b383104.html

著者の校長先生は、いわゆる「民間校長」ではない。
宿題や定期テストの全廃や、固定担任制の廃止など、かなり大胆な改革をしている。
「何のために」という視点から、学校にはびこるあらゆる「当たり前」を見直している。

ただ派手なことをしようというのではない。
学校で学んだ子どもたちがより良い社会をつくる、という目的に絞っての改革である。

読んでいて、わくわくするし、胸がぐっと熱くなる本である。

しかし、セミナーと一緒である。
どんなに感動しようと、行動に移さないと変わらない。

そして、これを読んだだけでは、そう簡単には変わらない。
いや、変わろうとしない。

なぜか。

人間の本能は、変わらないことに努力をするようにできている。
これを「ホメオスタシス」(生体恒常性)という。
元の基準に常に戻ろうとする機能である。
生きる上で必要な機能である。

0度の極寒でも40度越えの外気にさらされても、体温が一定に保てる。
食べ物が足りなくても食べすぎても、血糖値を一定に保てる。
すべてホメオスタシスである。

これは提唱者のアメリカの生理学者 W.キャノンが著書に名付けた通り「人体の知恵」なのである。

あらゆることに対し、「基準値」の通りに元通りになろうとする。
考え方もそうだし、行動もそうである。
基準から外れたり、普段と違うと、気持ち悪く感じる。

それが個人の「習慣」であり、集団の「慣習」である。
習慣を変えるというのは、個人の革命である。
慣習を変えるというのは、集団の革命である。

これだけでも、慣習を変える方が圧倒的に難しいのがわかる。
習慣だって難しいのに、である。

しかし、宗教や人種が混ざっていても、どんどん変化できる集団もある。
色々理由はあるが、集団が「快適でない」レベルではなく「危険」レベルだからともいえる。
必要に迫られる訳である。

一方で、学校はどうか。
快適でないにしても、危険ではない。
つまり「変えなくても今とりあえず何とかやっていける」状態がほとんどである。
つまり、変えるのは、相当難しい。

教師レベルで考えてもわかる。
学級づくりを本やセミナー等で勉強し出したのはいつか、と問うと、新任3年目ぐらいまでが多い。

なぜか。
それぐらいの時期に、学級が荒れ果てて困ったからである。
脱出したいという強い願いがきっかけ、という人が多い。

逆に、十年ぐらい経つと、勉強しようというモチベーションが落ちる。
これまでのやり方で、何とか形が保てるからである。
下手に変えて、崩れる方がよっぽど怖くなる。

「ホメオってる」状態になる。
変われなくなる。

しかし、時代は変化している。
何十年も前に「正攻法」として通用していた方法が、根本的に間違っている可能性もある。

学校で、誰が変わるエネルギーをもっているのか。
一番若いのは誰か?

新卒の教師、と答えそうなところだが、惜しい。
これは、二番手である。
ナンバーワンはもちろん、子どもである。
子どもは、もっとこうしたい、という思いをもっている。

ここを引き出していくのが、すべての教師の仕事になる。
その意味で、若い教師というのは、改革の大きな推進力である。

これからの学校が変わっていくか。
それには、指導する教師の考え方自体に「革命」が必要である。

革命に必要なのは、志。
志をもって自らの「志事」にあたりたい。

2019年5月15日水曜日

楽しい学校とは

楽しい学校とは何か。

勘違いしやすいのが、テーマパークや高級旅館のような楽しさ。
サービスを受ける楽しさである。
全てが完璧にお膳立てされていて、魔法にかけられたような気分になる。
お姫様、王様気分になれる。
リラクゼーションやマッサージも方向性は同じである。
自分を労わるという点に価値があるが、学校教育のもつ役割とは違う。

これらの楽しさは、サービスする側にほぼ全てがかかっている。
生産者と消費者の関係である。

学校とは、子どもをサービスの受給者、単なる消費者にする場ではない。
よき消費者であると同時に、よき生産者になる場である。
意欲的・主体的に学ぶとは、生み出す側、提供する側の楽しさを学ぶことである。

子どもに、どんどん問題を出す。
子どもはそれを解く。
○か×かを判定してもらう。
もっと面白い問題を要望する。
これは子どもにとって楽しいのだが、常に受け身である。

本当は、自分がその側にも立てたら、もっと面白い。
自分で問題を作る、出す。
教える。
解き方を一緒に考える。
○や×をつける。
相手の喜ぶ顔を見る。

教師は、その一番おいしいところを、独り占めしている可能性を考える。
事実、大抵の教室の一番の「おしゃべり」で「でしゃばり」で「仕切りたがり」の「目立ちたがり」は、教師である。
(私自身も御多分に漏れないため、はっきりと言える。)

楽しい学校。
それには、野山や海のような学校を想像してみる。
材料も場も豊富にある。
しかし、何もやるべきことは用意されていない。

とりあえず火を起こすとして、そのための薪でも集めるか。
キノコや木の実、海の中の貝や魚をとるのもいい。
暇なら、ブランコでも作ろうか。

あまりに自由度が高すぎるなら、方向性の課題だけを与える。
「おいしい料理を作ろう」とか、「みんなで遊べるアスレチックを作ろう」とか。

実際に野山に行くのではない。
あくまで比喩である。
教室で、授業で、こんなことがやれたら素敵だと妄想してみる。
現実的かどうかは一旦脇におく。

子どもの本当にやりたいことを実現できる場になったら、学校は本当に楽しい場になるはずである。

勉強が、楽しい。
学校が、楽しい。
それには、学校が
「自分が自分らしく在ることができる場」
「役割をもって力を発揮できる場」
であることが大切である。
自分が学校に行く意味を見出せなくなったら、意欲が下がるのは当然である。

楽しい学校は、自分たちで作る。
大人も子どもも、同じ方向を向いていけたら、きっと実現できるのではいかと思う。

2019年5月13日月曜日

虫は花の大切なお友達

学級で、チューリップを育てていた時の話。

ある朝、子どもが「ハチがいた!」と興奮気味に報告しにきた。
ハチが、怖かったようである。
「危ないよね!危ないよね!」と言いたかったようである。

そんな日にした朝の話。

「虫は、花のお友達です。
虫のおかげでおいしい実がなったり種ができたりという植物がたくさんあります。」

ここで子どもから「あ。花粉がつくから?」というつぶやきの声が上がった。
よく知っているものである。

「そう。
例えばハチもそうですが、花の真ん中にとまると、花粉というものが脚につきます。」

黒板に花の絵(というより図形)を描き、黄色の色チョークを塗った。
となりに別の色で花をかく。
そして、手を虫にみたて、掌で花から花へ移る。
色チョークの粉が移る。

「こうすると、花粉が別の花に移ります。
すると、実や種ができるのです。
だから、花にとって虫はとても大切なお友達です。
そっとしておいてあげてくださいね。」

さらに、大抵のハチは刺すと自分が死んでしまうため、手を出さなければ滅多に刺さないことも話した。
(以前、自分がいたずらで小さなハチを手で捕まえてみて、手の中で刺されてえらい目にあった話もした。
むしろ、こういう話の方を子どもは好む。)

さて、理科的な話をした訳だが、実は真意はそこではない。
大切なのは、ハチはハチのままで、生きてるだけで花の役に立っているということである。
しかも、花の役に立とうなんて微塵も思っていないことである。
一生懸命生きているだけで、結果的に役に立っているということである。

刺したりなんだり悪い面ばかり見てしまうが、それは人間であるこっちの勝手な解釈である。

すべての命は、全力で生きることで、誰かの役に立っている。
むしろ、自然と役に立ってしまう、という方が正確かもしれない。

自分らしく生きること。
同時に、他を幸せにすること。
それは、人に役立とうと自己犠牲をしたり、他に不自然を強要されたりするのではなく、ごく自然に生きることではないかと思う。

2019年5月11日土曜日

育ちを待つ

自分で、つくづく嫌になる性質がある。
どうやら、「待つ」のが苦手なようなのである。

子どもに何か教える。
さっと動ける、改善できると、安心する。

一方で、動かない、改善されないと、焦る。
焦るので、ますます手をいれる。
全然改善されない。
ますます焦り、苛立つ。

人生におけるほとんどの失敗は、このパターンに集約されている。
これは、教えるという行為に限らない。

溺れている時にもがいているのと同じである。
やればやるほど、悪い結果になる。
一旦波にのまれてしまったら「自然に浮くのを待つ」のが正解である。

花が咲かない、と嘆いているのも同じである。
花は、自然に、来るべき時がこないと、咲かない。
しかも、同じ時に植えた同じ種類の種や球根であっても一斉には咲かない。
早咲きも遅咲きもある。

これを「揃えたい」というエゴが働く。
なぜか。
都合が悪いからである。
誰に?
自分にとってである。
たとえ植物でさえ、相手には、相手の都合がある。

子どもが、本当にやりたい、できるようになりたい、と願っているなら、手出しのしようもある。
しかし、本当にそうか。
こちらの都合、大人の都合で求めていないか。
それは、もしかして、悪い方向に働くのではないか。

植物で考えると、遅いのには、生長促進剤である。
悪い虫には、農薬である。
それでも咲かないといって、焦ってあれこれ手を出す、口を出す。
不自然そのものである。

本当は、それぞれに育ちたい方向やペースがある。
個々に違うのに、学年や年齢なんて不自然な枠の中で揃うはずがない。
ヒノキのような大木もチューリップも何も、一緒くたに同じサイズのプランターに入れて育てようとしているのである。
子どもをそんな不自然な枠、システムに放り込んでいる以上、「大人にとっての不都合」が起きるのは当然である。

待つ。
気長に待つ。

子どもは、大人の自己実現の道具ではない。
例え幼児であっても、人格をもった一人の人間である。

当たり前すぎるが、私だけではなく、世にかなり見落とされている点ではないかと思い、書いた。

2019年5月9日木曜日

勉強を好きな子どもはどう育つか

前号の続き。
勉強が好きな子どもに育つにはどうするか。
「勉強しなさい」が最悪であることは述べた。

では、具体的にどうするのか。
環境を整えることである。
それは、分厚い数十冊の図鑑や、高価な実験器具を与えるとかいうことではない。
もっと自然なことである。

本人が好きなことを徹底的にさせる。
これに尽きるのではないかと思っている。

これは、多くの大人にとっては非常に怖いことである。
なぜなら、大人は「自分の好きなことをする」=「わがまま」「悪いこと」とみなしているからである。
つまり、好きなばかりをやっていると、子どもが自堕落でダメになるのではないかと危惧するからである。
「好きなことばっかりやってたらダメ」という言葉に集約される。

全てのことは、勉強できるのだから、
「好きなことを勉強できる」=「勉強が好き」になるのは至極当然である。
逆もまた鉄板法則なのだが、そっちを進んでとっている結果、勉強嫌いの子どもが世に溢れているように思われる。

大人ができるのは、そのための、環境づくり。
好きなことを発見できる、触れさせる機会の提供ぐらいしかできない。

これには、色々試すしかない。
どこかに連れ出したり、何かに触れさせたりする機会を多く設けるしかない。
子どもによって、ヒットするポイントが全く違う。

そこで次が「超」重要ポイントにして、ほとんどの悩みの根本的原因である。
それは「親の願うこと」と、「子どものヒットポイント・長所」が、ほぼ確実に一致しないということである。
この事実を受け容れないと、親子双方不幸になる。

食べ物の好みと同じで、自分の好むものを子どもが好むように仕向けることはできない。
嗜好性というのは、極めて個人的なものであり、規制やコントロールは不可能である。
(これは、性の多様性の問題にもつながる。許容できない人には、どうしても許容できないようである。)

「それもいいね・素敵だね」と言えるかどうか。
ここがポイントである。

保護者と長年面談をしていて、気付くことがある。
どうも、読書というと小難しい文学作品を読ませたがる。
本人の苦手な運動をさせたがり、スポーツの得意な○○さんみたいにさせたがる。
漫画もゲームも「ダメ」なものの部類。(またはスマホノベル等にも否定的。)

勉強ができれば安心、やがて「いい大学」「いい職場」にいけば安心と思っている。
友達のグループに入っていれば安心と思っている。
とにかく、自分の人生を基盤にした既成概念に凝り固まってしまうのである。
(教師も同様である。)

例えば大人から見たらゴミにしか見えないものも、子どもにとっては宝物である。
拾った「きれいな」石、形の変わった石が机の引き出しに溢れているのも、ある意味健全である。
それよりも、それを隠さないといけない状況を打破すべきである。

「隠す」ということは、それを周りが駄目とみなしている、そう認識しているからである。
周りが「それもいいね」と言ってくれれば、安心して自分らしくいられるのである。

子どもの興味のあることを、否定しない。
大人の「善」「こうあるべき」を押し付けない。
子どもの個性や嗜好性を尊重する。

これなくして、勉強が好きという子どもは育たないと考える次第である。

2019年5月7日火曜日

勉強を進んでする子どもの育て方

次の本を紹介する。

『子どもをのばすアドラーの言葉 子育ての勇気』
岸見一郎著 幻冬舎
https://www.gentosha.co.jp/book/b10347.html

『嫌われる勇気』の著者といえばわかる人が多いかもしれない。
子育ての本であるが、職場を含めた人間関係全般に広く使える本である。
特に、社員や部下の育成が必要な経営者や上司の立場にある方には、ためになる内容である。

この中の一文を引用する。
===============
(引用開始)
「あなたのためにいっている」というようなことを親はいったりしますが、
多くの場合、愛情という名に隠された支配でしかありません。
(引用終了)
===============

この一文だけでも、強烈である。
「愛情という名に隠された支配」。

これは、教師にも当てはまる。

「子どものため」という言葉が、あらゆることの免罪符になっていないか。
「あなたのため」という言葉を使って、行動を支配しようとしていないか。

そして「愛情という名の支配」が成功した結果、親はずっと面倒を見るはめになる。
支配されている以上、自分で決められないからである。
「親はどう思うか」という顔色をうかがうことが、行動の価値判断基準になるからである。
「主体的」「自立」とは真逆の方向に育つ。

例えば、漢字練習を全くやらない子どもがいるとする。
どうするか。

多くの心ある親や教師は、「やりなさい」という。
しかし、アドラー心理学の立場では、ほとんどの場合、これは間違った行動に分類される。

なぜならば、それは「子どもの課題」だからである。

大人は、自分の課題に首を突っ込んで欲しくない。
例えば家庭のことに、職場の上司からあれこれ指示を出されたらどうか。
あなたの身体の問題に、あれこれ言われたらどう思うか。
あるいは、あなたは問題があるから〇〇の勉強をしなさいと言われて、やる気が起きるか。

成人した人であっても、親に首をつっこまれることは多い。
例えば親から自分の結婚しようとする相手に対し、「この人はいい」「この人はダメ」とあれこれジャッジされたらどうか。
友人の方がまだ的確な見方をするかもしれないが、これも「参考」程度にすべきである。
そして、周りの指示に従って結婚した相手との生活が「最悪」だったらどう思うのか。
「私はこういったのに」と、恨みがましいことを言い出す可能性もある。

どれも、自分の課題に他人が首を突っ込んで、それを受け入れ、託してしまった結果である。

先の漢字の話に戻ると、勉強とは明確に子ども自身の課題である。
断じて、親の課題ではない。
もしそれも親の課題だとかいうなら、将来的に子どもを支配しようとしている可能性がある。
そして、一生勉強で面倒を見る覚悟がいる。
勉強は、学生時代だけでなく、死ぬまで一生続くものである。

この本の中では、このことについてさらに強く警告している。
勉強を親の課題にすり替えることで、子どもがより勉強しなくなるというのである。

つまり、口出しすることで、子どもにとって
「勉強ができない」=「親が悪い」or「教え方が悪い」
という、他人の課題になる。
そして、より勉強しなくなるという悪循環に陥る。

なぜか。
「勉強しない」ということで、「可能性の中」で生きることができるからだという。
この場合「あなたはやればできるのに」は、負の行動強化の言葉がけになる。
子どもは「やってもできない可能性」を潰す方向に行く。
つまり、勉強をずっとやらなければ、できない自分が証明されないのである。
行動しない方が「安全・安心」が保証される訳である。

失敗を恐れて行動しない、ということにもつながる。
失敗しない人間より、試行錯誤する人間になる方が大切である。
そこを学ぶには、自分でチャレンジするしかない。
何でも周りのせいにする人間では、どうにもしようがない。

他人の課題に首を突っ込まない。
親は「勉強しなさい」と一切言わない。

これは、教師も同じである。
教師の側の努力は、子どもに勉強を強要することではない。
勉強が楽しい、やりたいと思えるような環境を整え、授業をすることである。

これは、子どもに阿る(おもねる)のとは全く違う。
受動的な「楽しさ」をサービスして媚びるのとは全く違う。
新しいことを知る喜び、学ぶ喜びに触れさせることである。
自分を含めた誰もが「無知」であることに「ハッ」と気付かせることである。
もっと学びたい、もっと自分を磨いて役立てたいと、人間を謙虚にすることである。

勉強は、楽しい。
それを、腹の底から実感すること。
そうすれば「勉強しなさい」という言葉は出ない。
「もっと勉強させてほしい」と言ってくる日を求めるなら、一切こちらからは言わないことである。

これは、保険のトップセールスマンと同じである。
うちの保険に入りなさいなどと決して言わない。
お客さんの方から入らせてほしいとお願いされるという。
「売らないこと」が極意だと読んだことがあるのを思い出した。

ともあれ、そう言わないで勉強する子どもに育てたいと願うのが親である。
その手法が気になる方は、この本を一読することをおすすめする。

2019年5月5日日曜日

自己中心的利他を考える

端午の節句、こどもの日である。

子どもの健やかな成長と幸せを願う日である。
そして「母に感謝する日」ということも明記されている。

今回は目先を変えて、この後者に着目する。
大人である自分自身の健やかな成長を願っているか、ということについて考える。

面白い言葉を知った。
「自己中心的利他」という。
ネットで調べると、書籍でも書かれているようである。
(なので、誰が最初に言い出した言葉かはよくわからない。)

平たく言うと、自分がやりたいことをして、周りの人に喜んでもらうということ。
相手のためというより、単に自分がやりたくてやっている、という状態である。

ただし、押しつけがましさはなし。
やって「あげてる」感もなし。
自然な、いわゆる「Win-Win」の関係である。

子どもに幸せになって欲しいと願う。
親でも教師でも、子どもに関わる誰もが願うことである。

子どもに成長して欲しいと願う。
やがて立派な大人になって欲しいと願う。

ところで、そう願う大人自身は、幸せか。
子どもは、言葉ではなく、背中を見て育つ。
幸せそうに生きている、働いている大人を見て、「大人って楽しそう!」と憧れをもつ。

教え子にも我が子にも「大人はいいよ~」と語っているか。
なぜなら、子どもの側は思考は自由だが、行動範囲は不自由極まりない。
親をはじめとした周りの大人の様々な状況に、そのほとんどを規定されるのである。

大人は、自分の「自由」に生きられる。
そんなことないと言われれても、そうである。
行動範囲や意思決定、お金の使い方の裁量の広さも、子どもとは全く違う。

それでも「不自由」だというなら、現状に対抗することもできる。
現状に甘んじて我慢するというのも、一つの選択である。
現状を打破すべく、敢えて困難を選ぶというのも選択である。

やりたい仕事も自分で選べるし、一見不自由だと思っていることもどれも選択の結果である。
子どもにも、それを示したい。
大人である自分が、自由に生きていることを示さない限り、子どもは子どものままでいたいと思うに違いない。

まず、自分が幸せになること。
自己犠牲もほどほどに。

大人自身も、健やかに成長をする。
健康に気遣う。
勉強もして、向上的変容を目指す。

子どもの幸せと成長を親は願う。
それならば、自分自身の幸せや成長をないがしろにしない。

何度か紹介している、山口県の「子育て四訓」を引用してしめる。

1.乳児はしっかり 肌を離すな
2.幼児は肌を離せ 手を離すな
3.少年は手を離せ 目を離すな
4.青年は目を離せ 心を離すな

要は、子どもの幸せを願うのも、発達に応じた距離感が大切である。
べったり「あなたのため」に尽くすのは、乳幼児まででいい。
自己中心的利他の精神で、子どもも大人も、ともに幸せに成長したい。

2019年5月3日金曜日

「待つ」の修行

自分で、つくづく嫌になる性質がある。
どうやら、「待つ」のが苦手なようなのである。

子どもに何か教える。
さっと動ける、改善できると、安心する。

一方で、動かない、改善されないと、焦る。
焦るので、ますます手をいれる。
全然改善されない。
ますます焦り、苛立つ。

人生におけるほとんどの失敗は、このパターンに集約されている。
これは、教えるという行為に限らない。

溺れている時にもがいているのと同じである。
やればやるほど、悪い結果になる。
一旦波にのまれてしまったら「自然に浮くのを待つ」のが正解である。

花が咲かない、と嘆いているのも同じである。
花は、自然に、来るべき時がこないと、咲かない。
しかも、同じ時に植えた同じ種類の種や球根であっても一斉には咲かない。
早咲きも遅咲きもある。

これを「揃えたい」というエゴが働く。
なぜか。
都合が悪いからである。
誰に。
自分である。
たとえ植物でさえ、相手には、相手の都合がある。

子どもが、本当にやりたい、できるようになりたい、と願っているなら、手出しもある。
しかし、本当にそうか。
こちらの都合、大人の都合で求めていないか。
それは、もしかして、悪い方向に働くのではないか。

植物で考えると、遅いのには、生長促進剤である。
悪い虫には、農薬である。
それでも咲かないといって、焦ってあれこれ手を出す、口を出す。
不自然そのものである。

本当は、それぞれに育ちたい方向やペースがある。
個々に違うのに、学年や年齢なんて不自然な枠の中で揃うはずがない。
ヒノキのような大木もチューリップ何も、一緒くたに同じサイズのプランターに入れて育てようとしているのである。
子どもをそんな不自然な枠、システムに放り込んでいる以上、「大人にとっての不都合」が起きるのは当然である。

待つ。
気長に待つ。
これは、大人にとっての修行である。

子どもは、大人の自己実現の道具ではない。
例え幼児であっても、人格をもった一人の人間である。

当たり前すぎるが、私だけではなく、世にかなり見落とされている点ではないかと思い、書いた。

2019年5月1日水曜日

勉強を好きな子どもはどう育つか

前号の続き。
勉強が好きな子どもに育つにはどうするか。
「勉強しなさい」が最悪であることは述べた。

では、具体的にどうするのか。
環境を整えることである。
それは、分厚い数十冊の図鑑や、高価な実験器具を与えるとかいうことではない。
もっと自然なことである。

本人が好きなことを徹底的にさせる。
これに尽きるのではないかと思っている。

これは、多くの大人にとっては非常に怖いことである。
なぜなら、大人は「自分の好きなことをする」=「わがまま」「悪いこと」とみなしているからである。
つまり、好きなばかりをやっていると、子どもが自堕落でダメになるのではないかと危惧するからである。
「好きなことばっかりやってたらダメ」という言葉に集約される。

全てのことは、勉強できるのだから、
「好きなことを勉強できる」=「勉強が好き」になるのは至極当然である。
逆もまた鉄板法則なのだが、そっちを進んでとっている結果、勉強嫌いの子どもが世に溢れているように思われる。

大人ができるのは、そのための、環境づくり。
好きなことを発見できる、触れさせる機会の提供ぐらいしかできない。

これには、色々試すしかない。
どこかに連れ出したり、何かに触れさせたりする機会を多く設けるしかない。
子どもによって、ヒットするポイントが全く違う。

そこで次が「超」重要ポイントにして、ほとんどの悩みの根本的原因である。
それは「親の願うこと」と、「子どものヒットポイント・長所」が、ほぼ確実に一致しないということである。
この事実を受け容れないと、親子双方不幸になる。

食べ物の好みと同じで、自分の好むものを子どもが好むように仕向けることはできない。
嗜好性というのは、極めて個人的なものであり、規制やコントロールは不可能である。
(これは、性の多様性の問題にもつながる。許容できない人には、どうしても許容できないようである。)

「それもいいね・素敵だね」と言えるかどうか。
ここがポイントである。

保護者と長年面談をしていて、気付くことがある。
どうも、読書というと小難しい文学作品を読ませたがる。
本人の苦手な運動をさせたがり、スポーツの得意な○○さんみたいにさせたがる。
漫画もゲームも「ダメ」なものの部類。(またはスマホノベル等にも否定的。)
勉強ができれば安心、やがて「いい大学」「いい職場」にいけば安心と思っている。
友達のグループに入っていれば安心と思っている。
とにかく、自分の人生を基盤にした既成概念に凝り固まってしまうのである。(教師も同様である。)

例えば大人から見たらゴミにしか見えないものも、子どもにとっては宝物である。
拾った「きれいな」石、形の変わった石が机の引き出しに溢れているのも、ある意味健全である。
それよりも、それを隠さないといけない状況を打破すべきである。

「隠す」ということは、それを周りが駄目とみなしている、そう認識しているからである。
周りが「それもいいね」と言ってくれれば、安心して自分らしくいられるのである。

子どもの興味のあることを、否定しない。
大人の「善」「こうあるべき」を押し付けない。
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