2012年6月30日土曜日

少しの無理をさせる

「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」
例の如く、野口芳宏氏の言葉である。
とても好きな言葉で、指導の本質がここにあると思う。

極端なことを言うと、普通にできることは指導する意味がない。
導かなくてもできることである。
下のレベルに合わせると、ほとんどの子どもにとって意味のない指導になる。
上のレベルを基本にして、下まで含めて全体を引っ張り上げるのが指導である。

例えば、日直のスピーチ。
自分の普段通りのしゃべり方で話していては、よく聞こえない。
教室で全体に向かって話すのだから、無理が必要である。
(野口氏はこれを「公的話法」という言葉で教えている。)
「不自然でよい」のである。
自然ではいけない。
無理をするから、伸びるのである。

応援での声がよく出ない子どもは、無理できてないのである。
普通に出そうとしている。
応援などは「パフォーマンス」なのだから、演技が必要だ。
これは意外と難しい。
教師が前に立ってオーバーに演技することで、殻が破れることもある。
相手に無理を強いるのだから、自分も、少し無理をするのである。

無理のしすぎは良くないが、無理をしないのでは成長はない。
持久走が速くなりたいなら、きついペースで練習する必要がある。
無理ないジョギングは、現状維持が目的である。
子どもは、現状維持ではいけない。
日々向上させるべく、少しの無理を互いにするよう心がけたい。
(その上で、初めてリラックスの時間が生きてくるように思う。)

2012年6月28日木曜日

叱る時も呼称をつける

前回の続きで、呼称について。

あだ名や呼び捨ての良さは、親しみにある。
一方、呼称をつけると、ていねいさや一定の距離をとることができる。
使い分けが大切だと思うが、私は基本的に呼称をつける。

特に叱る時。
子どもを呼び捨てにすると、続く言葉が荒くなる。
語尾が「~しろ」というような命令口調が続きやすい(ように思う)。
「○○さん(君)」とすると、語尾が「~でしょう?」と丁寧になる(ように思う)。
自分自身、冷静に対応しやすくなるのである。
相手を大事にしている感じが出るのもいい。
威嚇したいのであれば呼び捨ての方が効果がある。
しかし、教育の場において威嚇する必要があることは、ほぼ無い。

同僚と子どもについて話す時も同様で、子どもの名前には呼称をつけるよう意識する。
普段の呼び方が自然に出てしまうので、呼び捨ては避けるようにしている。

教師のキャラクターにもよると思うが、私はその方が合うように思う。
呼称一つだが、効果を考えてこだわりたい。

2012年6月26日火曜日

呼び捨て、「○○ちゃん」の効果を考える

呼称は大切である。
呼び捨て、「さん」付け、「君」付け、「ちゃん」付け、それぞれ効果が異なる。

私は、基本的に女子は「さん」、男子は「君」としている。
男女を差別化している。
日本語には男言葉と女言葉があるから、私はこれで良いと思っている。
(どちらが上とか下とか言う話とは次元が別である。)

ところで「○○ちゃん」とみんなに呼ばれている子どもがいるとする。
男女に関係なく、高学年なのに、その子どもだけ教師みんなから「ちゃん」付けである。
どういう子どもか。
大抵は、幼くて可愛らしく、かつ少し「手のかかる」子どもである。
つまり、少し当該学年より幼く見られている子どもであることが多い。
(私の経験則だが、今までのどの学校でもそうである。)

親愛の情を込めてきっと呼んでいるのだと思う。
それ自体はいい。
しかし、子どもをそう呼ぶことで、子どもの成長を阻害していないかとも考える。
「○○ちゃん」と呼ばれることで、自分はまだ幼くていいんだと思ってしまう。
周りの同学年のみんなとは違うんだと無意識に刷り込んでしまう。

だから、周りの人がどう呼ぼうと、私は必ず他の子どもと同様の呼称を付けて接してきた。
そうすると、面白いことに、自然と「きちんと」してくるのである。
別にそれが必ずしも正しいことだとは思わないが、効果があることは事実。
だから、私は毎年そういう子どもを見つけると、意図的に大人扱いする。

呼称一つでも教育効果はある。
教師の全ての行為が子どもを変える「教育」である。
(次号に続く)

2012年6月24日日曜日

歴史は「解釈」

6年生担任は、歴史の授業をする。
歴史が好きな教師なら、色々な知識を駆使して話すことができる。
そうでない教師には、なかなか荷が重いところである。
「自分で色々調べてみよう」といったところで、そもそもの興味づけができないと調べない。
だから、教える立場の者は歴史についての解釈を持っている必要がある。

新聞で、尖閣諸島についての記事があった。
尖閣諸島は当然日本の領土であると。
これも、一つの解釈である。
それは事実か解釈かという論議は、ただの水掛け論である。
事実は解釈によって作られる。
特に、歴史に関しては完全に解釈である。
自分がそう解釈しているのだから、そう教えればよい。
ただ、教える場合は色々な考え方を知った上での解釈が必要である。

教科書の記述は、外国の目を気にしすぎて、自虐的に書かれている面が多いという批判もある。
教える側は常に「これは他の解釈があるのでは?」と考える必要がある。

歴史の授業で最近盛り上がったのは「大仏作りは当時の人々にとって良かったといえるか?」というもの。
知識を色々与えた上で討論させると面白い。
歴史の授業作りで困っている人は、そういうテーマを考えると、一方的に教える授業から脱却できるかもしれない。

2012年6月22日金曜日

我以外皆我師

教師に最も大切なのは、謙虚さ。
私の考えた言葉でなく、野口芳宏氏の言葉である。
(誰が言ったかによって、同じ活字でも急激に価値が変動する。)

先日、氏は酒席で次のように話されていた。
「今までやってきて、私のものなんてのは一つもない。
全て、人様からいただいたものです。」

あれほど多くの実践を世に出している人でさえ、このように言うのである。
いわんや若輩者の凡人である自分に、真にオリジナルな実践などあろうはずがない。
人様から学んだものを、解釈して自分なりの形にして外に出しているだけである。
(そもそも今回のこのネタさえ、そうである。)

謙虚に学び続けること。
「我以外皆我師」
故吉川英治氏の言で、自分以外の全ての人が我が師である、という意味である。
10年以上も教師をやっていると、時に自分ができているような錯覚を覚えることもある。
しかし、100歳になっても学ぶ人は誰からでも学ぶ。
常に謙虚な心を持ち続けたい。

2012年6月20日水曜日

自信がないからこそ

自信があるから、発表する。
まあ、教室ではそうかもしれない。
しかし、自信がないと発表してはいけないのか。
逆に、自信がないからこそ、挑戦していくということもある。

何の話かというと、このメルマガとブログのことである。
以前友人に「控えめな奴がメルマガとかブログなんか書くか」と揶揄されたことがある。
確かに、そういう見方もあるかもしれない。

しかし、実際は逆である。
自分の実践に不安があったり、自信がないからこそ、書いているという面もある。
(もちろん、有益な情報を、という思いで書いている。いい加減なネタは使わないようにしている。)
自分の実践はこれで正しいのか、常に不安があるというのが実情である。

不安は、行動によって解消される。
やるかやらないか、ただそれだけだと信じている。

例えば、何かの研究集会で発表する人。
自信があるから出てきたのかというと、ほとんどはそうでないと思う。
自信はないが、やらせていただけるなら、という謙虚な姿勢の方が大多数だと思う。

元々、日記の延長のような感じで始めたこのメルマガとブログ。
自分のパソコン内にためておくより、発表した方が少しはためになるかと思ったのがきっかけである。
疑問や話題にして欲しいネタがあれば、言っていただきたい。
今後も謙虚に学んでいきたい、と考えている。

2012年6月18日月曜日

見直しの時期

以前紹介した「3・7・30」の法則によると、30日目をとうにこえた頃である。
もう一度、学級経営を見直す時期が来たと考える。

最初に作ったシステムは上手く機能しているか。
問題があるなら、改善はできるか。
または、それをなくしたらどうなるか。
ない方がいいなら、なくした方がいいかもしれない。

そういうことをチェックし直す時期である。
最初のやり方に固執していると、苦しくなることもある。
以前上手くいった方法でも、上手くいかないこともある。
子どもが違うのだから、ある意味当然である。

規律面も含め、改めてこの時期、もう一度点検したい。

2012年6月16日土曜日

応援団指導のステップ その2

前号の続きを。

3.基本の型を一つ徹底する
様々な応援を考える前に、まず一つを徹底する。
いわゆる「フレフレ」である。
大声を出せて、基本的な動き(腕から指先までピンと伸ばす)等が指導しやすい。
この基本がきちんとできるようなら、他の応援は自然にできるようになる。
だから、基礎をきちんと固める。
間の取り方や声の出し方、スピード等を指導する。
表情や立ち方もここで統一する。
ここで教えたことを、応援係は後で全校児童に指導することになる。

4.応援歌を作る
応援歌は、歌いやすくてみんなが知っている曲を選ぶ。
その場で考えろだと出てこないので、宿題にして一人一案持ってこさせる。
その中から、良いものを選べばよい。
原案の歌詞がうたいにくい、内容が不適切な場合は、相談して改めて決定する。
時間の節約の為に、教師が一時預かりして選別してきてもよい。

5.他の応援を作る
これも一人一案、宿題にする方がよい。
選ぶコツは「声が出しやすい」「やってて楽しい、またはかっこいい」こと。
CMや流行モノをちょっと取り入れるのもいい。(お笑いは人気である。)
オリジナリティを存分に発揮させたい。
どうしても出ない場合のみ、教師から提示することもありえる。(基本的に必要ない。)

6.組み立てを考える
いくつか作ったものを、どの順番で組み立てるのか。
制限時間内におさまるよう、速さの調節も必要である。
応援と応援の「つなぎ」もここまでに考える。
「つなぎ」は隊形移動の時間かせぎでもあるので、短すぎても長すぎてもいけない。

7.応援係の動きを考える
ここまでの応援の動きは、全て「全校児童の動き」である。
まずそこを作れば、安心である。
各学級で練習してくれる。
逆に、ここを変更するとなると、伝達にかなりの手間がかかる。
応援係自体の動きは、前日に変更しても大丈夫。
それぐらいフレキシブルなものであるので、本当に後回しでよい。
派手にやりたいようにやらせればよい。(安全面にだけは留意。)


以上。
ちなみに、「宿題」が多いのだが、応援をその場で考える時間はない。
全体の場は、あくまで「合わせ」の場である。
個人でじっくり考えるのは、家で一人の時の方が良い。
私はよく、朝の日直のスピーチでも「みんなの前に立つ1秒は30秒の価値」などと教える。
応援係が集まる貴重な時間に、個人活動は無駄である。(学校での各種会議も同様である。)
まして、全校児童の前に立つ時には、1秒の価値が100倍以上になる。
「気合いを入れて立て」と指導する。

なお、今年度作った応援については、ビデオにとるなどして記録しておいた方がよい。
(私は文書化して保存している。)
必ずまた指導する機会が来るからである。
(そして、数年経過しているので忘れているのが常である。)

少しでも参考になれば幸いである。

2012年6月14日木曜日

応援係指導のステップ

応援係指導のやり方が、人によってかなりまちまちであることに気付いた。
教科書がないのだから仕方ないが、ある程度マニュアル化されていると、工夫もしやすいのではないかと思う。
よって、自分なりの指導ステップを公開してみる。
(ちなみに、多分大したことはない。分かっている人には当たり前のことばかりである。)

1.心構えの指導
まずは心構えの指導。
応援係とは何なのか。
間違っているのは、自分が目立ちたいという思い。
それは別のところへ行ってやってもらう。
応援係とは全校児童に応援を教えるのが第一の仕事である。
その上で、自分達の動きを考えればよい。
放っておくと、自分達の派手な動きばかり考え、全体の動きが忘れられがちである。

さらに「だらしない奴には教えられたくない」ということも指導しておく。
リーダーとして前に立つからには、生活態度から改める必要がある。
普段人の話も聞けない人間が、「話を聞け」と言っても誰も聞く訳がない。
「声を出して」と言っている本人が出ていないでは、話にならない。
ルールを守るといったことについても同様である。
言行一致が求められる。(これは、教師にも当てはまることである。)

2.立ち方や表情の指導
「声が出る」などというのは、当たり前のことである。
応援係に立候補した時点でクリアしている項目である。
(そうでないなら、子ども嫌いの人が教師になったのと同じである。)
「より良い声」を出すための指導を最初にする。

まずは立ち方。
肩幅の2倍程度に開く。
腰骨は立てる。
声を出す時にはひざを深く曲げる。

動きの指導。
静と動にメリハリをつける。
流れるような動きにしない。
止まるところは止まる、動かす時は素早く動かす。
そして、指先までピンと張り、目一杯動きを大きく見せる。

表情の指導。
「応援係は顔が命」と教える。
別にイケメン、美女軍団になれという訳ではない。
顔を引き締めろということである。
口元をきゅっと結び、目は一点を「ギン」と見つめる。
特に大切なのは「目力」である。

とかく応援は「声」と勘違いしがちだが、合唱等と同様に、全身のパフォーマンスであることを確認する。

長くなったので、3から次回。

2012年6月12日火曜日

応援係への指導

メルマガではタイムリーに出していたのだが、ちょっと遅れて運動会の話題を。

応援係への指導について。

応援係は、応援を自分達で考える。
応援歌を作ったりもする。
振り付けを考えたりもする。

ここで考えるべきなのは、どこまで任せてどこまで指導するかである。
応援係だけの動きや声だしであれば、本人達のやりたいようにやらせればよい。
本人達が考え、そうしようと決めたのだから、複雑だろうが、歌いにくい歌詞だろうが、放っておいてもよい。

しかしながら、応援係は、全校児童に応援を教える係である。
そこが、係の仕事としての重要なポイントである。
その場合、複雑だったり歌いにくかったりするのは、よくない。
ここは、指導を入れるべきである。
応援練習は短い時間で仕上げる必要がある。
応援係の児童の自主性も大切だが、この場合、圧倒的多数である全校児童の方を優先せねばならない。

こういう失敗をしない為には、予めポイントだけを指導しておくことである。
たとえば応援歌であれば、高学年だと人気アイドルの歌や流行の歌に走りがちである。
しかし、低学年の児童は、そういうものに興味ないことが多く、知らない児童が多数である。
だから、応援歌などは、低学年の児童でも知っているような歌を選ぶのがよい。
ロングヒットのアニメの主題歌などであれば、確実である。
大きな声を出しやすいものを選ぶのもポイントである。
低音のものや、やたらな高音部のあるものは歌いにくい。

応援係が「自分達で作った」ことを自覚しつつ、きちんと全校児童に伝わるもの。
そういう方向で指導していきたい。

2012年6月8日金曜日

教師と子どもは平等です?

「教師も子どもも、同じ人間です。」
全く、その通りで反論はない。

「だから、平等です。」
そこは、違う。

教師と子どもは同じではない。
明らかに、教師の方が立場が上である。

国や県から給料をもらっている以上、子どもも親もはいわば「顧客」である。
しかし、顧客とサービス提供者の間に、上下関係はない。
よりよいサービスを提供し、両方が得をすることが健全な関係である。

子どもにとって、教育的により良いサービスとは何か。
それは、子どもに生きていく上で本当に必要な力をつけることである。

例えば、上下関係を教えることである。
社会に出たら、上下関係がある。
年上を敬うなどというのは、当たり前すぎることだが、意外にこれが分かっていない社会人も多い。
(特に、若くて勢いのある人に顕著である。若気の至りで終わりにしたい。)
子どもの中にも、教師を教師と思っていないような者がいる。
(しかも、相手によってがらりと態度を変える。)

どうしてこうなったのか。
一つに、一時期流行った「指導より支援」のいきすぎた考え方があるように思う。
指導を怖れて、子どもにおもねる傾向が確かにあったと思う。
支援の考え方は大切だが、それもきちんとした指導がベースである。
教えないでいきなりできるなら、教師はいらない。
正しいことは正しいと堂々と教えるのが教師である。

あいさつをまともにできない子どもは、社会で苦労する。
あいさつを教師より先にするのは、至極当然である。
そういう基本をおさえないで、他を指導しても通らない。

それには当然、教師の側も、自然にあいさつをしたくなるような人格が望まれる。
自らを高めつつ、上の立場の者として、子どもに堂々と指導したい。
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