2011年9月30日金曜日

大縄の回し手のパワーバランス

大縄を回す時、「相手の引っぱる力が強い」と感じたとする。
どうするか。
もっと強い力でこっちも引っ張ろうとする。
どうなるか。
相手ももっと強い力で引く。
すると、こちらももっと強く・・・となり、結局ものすごく疲れることになる。
回していて疲れるというのは、この辺りに原因があることが多い。
お互い、譲らないからである。

1000回楽に回すには、二人の引き具合がちょうどよくないといけない。
二人の力の入れ具合のバランスがとれていると、縄がきれいな円を描く。
びよびよと揺れていたり、円の形が崩れている時は、バランスが悪い証拠である。

人間関係に似ている気がする。
相手が言うことをきかないから、より強く言う。
すると、相手はもっと頑なになって、きかない。
もっと強く言う。
きかない。
・・・・・・

何事も、ちょうどよい折り合いをつけるのが大切である。

2011年9月29日木曜日

回し手の最初の育て方

大縄や8の字とびを行う際に、回し手は重要である。
ここを誰にするかによって、結果は大きく変わる。

誰が適しているかは、なかなか決めにくい。
大縄に関していうと、最初の頃は、普通に回すことすらままならない。
とりあえず回したい子どもにやらせる。
中に人は入れず、ただ回させる。

これだけだと、永遠に上手くならないので、指導を入れる。
教師は後ろにつき、二人羽織のような形で一緒に回す。
身体的に「張って回す」という感覚を身につけさせる。
順番に何人か教えていくと、子ども達だけでも回せるようになる。

「守破離」の原則で、最初は教師がしっかり教えてあげることが大切である。

2011年9月28日水曜日

理念と技術、どちらが先か

本屋の教育コーナーに行くと、教育技術に関する本が書店に並んでいる。
教育関係の出版業界では、教育技術に関する本は売れ、教育理念や教育観を書いたものは、なかなか売れないそうである。
理念や観を学ぶよりも、即効性がある技術やネタが求められるからである。

しかし、理念や観のない技術は、薄っぺらである。
どうやるのかは分かるが、なぜかと問われると説明できない。
この状態は、何かに似ている。

算数である。
塾に行っている子どもに多い。
すらすら正解を導くことができるが、なぜそうなるかはさっぱり説明できない。
台形の面積を求める公式や、分数の割り算などで顕著である。

教師の姿勢に似るのである。
教える時に、小手先の技術ばかりに頼ると、そういう子どもが育つ。
先に紹介した速さの「木の下の・・・」という図だって、それだけ教えては本末転倒。
あくまで、補助的に使うのである。
それを分かった上で、多いに活用していただきたい。

大縄の指導も同様。
技術を早く知りたいと思うだろうが、それよりもなぜ何のためにやるのか、何を目指すのかを固めるのが先決である。
何度も繰り返すが、運動のできない子どもが排除されるようなことがあるのなら、即刻止めた方が良い。
最下位をとる方が100倍マシである。

そういう理念を固めた上で、優勝するために必要な技術の身につけ方についても伝えていきたい。

2011年9月27日火曜日

大縄大会の目的は?

スポーツには「大会」がつきものである。
練習の成果を発揮して、最終的に完結する場が必要だからである。
大縄や8の字跳びも同様である。

指導者は、大会への目的を意識することが大切である。
「絶対優勝!」は目標にはなり得るが目的ではない。
教育として見た時のスポーツの目的は「よりよい人格の完成」を目指すものでなくてはならない。
ここを取り違えた指導者が、幅をきかせるようでは本末転倒である。
(残念ながら、殴る蹴るを日常的に行う指導者でも、毎年全国大会出場となれば、もてはやされる現状がある。)

そう考えた時、目的は「強い心と体作り」や「学級の絆を深める」「道徳心を高める」等のものになる。
「隣の学級に勝つ」というのも、ここに沿っているかどうかが、正負のポイントである。
極端な話、校内で一番になっても、それだけでは何も変わらない。
地域で一番でも同様である。
全国一番となればまた違うだろうが、そのレベルなら確実に正しい目的が達せられている集団のはずである。

これは普段の学習にもいえることで、例えば算数で速さの計算ができることは、単元の目標にはなるが目的にはならない。
結局、そこから子どもの人生にどんな影響を及ぼせるかである。

そういう視点で、大縄や8の字跳びの指導を見てみると、何か変わって見えるものがある。
「井の中の蛙」にならないことが、大切である。

2011年9月26日月曜日

大縄は「対戦型」か「自己記録達成型」か

今回はニーズの多い大縄について書く。

まずは、大縄のスポーツ的な位置付けについて。
スポーツを大きく二種類に分ける。
例えば、個人競技と団体競技。
球技とその他。
演技による審査型(体操やフィギュア)と記録型。
色々ある。

その中で、対戦型と、自己記録達成型という分け方もできる。
対戦型とは、野球やサッカーのように相手と戦うスポーツ。
相手の力量や対応に結果が大きく左右される。
自己記録達成型とは、陸上競技やゴルフのようなものである。
記録を競うという面では対戦とも言えるが、要は自分自身との戦いである。

大縄指導についてまず、ここを考える。
「優勝」を目標とするなら、対戦型の発想になる。
「1000回達成」を目標とするなら、自己記録達成型の発想になる。
優勝を目指したら1000回達成するかもしれないし、1000回達成したら優勝がついてくるかもしれない。
逆もまた然りで、優勝しなかったけど1000回達成、または1000回達成しないけど優勝、かもしれない。
結果だけ考えるとどちらを目標にしても一緒のようだが、実際の意味は全く異なる。
私は、やはり自己記録達成型とするのが妥当だと考える。
以下のような理由からである。

「優勝する」「○組に勝つ」というような目標も、時に悪くはない。
しかし、その発想だと、大会当日まで周りの記録を気にすることになる。
また、○組を高めたり賞賛したりする余裕がなくなる。
せっかく○組がいい方法を発見した時に、教えてもらったり学んだりできなくなる。
互いに高め合うという発想が、持ちにくいのである。

だから、自分達の記録として「○回達成」の方がいい。
そうすれば、他の学級が良い記録を出した時には素直に驚嘆し、そこに学ぼうという姿勢になりやすい。
競争心を煽るのが目的ではないはずである。
教育行為として行う以上、全ての学級の児童が高まるという発想で、大縄指導にあたりたい。
その辺りが、「スポーツ」と「体育」の違いにもつながる。

2011年9月25日日曜日

ニーズに応えたい

9月に入って、ブログのページビューが急激に増えている。
原因は、大縄である。
大縄の指導法のページにアクセスが集中している。
どうやら、9月から大縄練習を始めた人が多いらしい。
お役に立てれば幸いである。

今回は、読者の皆様にお願いを。
「こういうことについて知りたい」ということを、具体的に教えて欲しい。
今は大縄ニーズが多いので、例を挙げると
「大縄練習で一向に記録が伸びない」とか、
「最初の10回の壁を越えられない」とか、
「子どもがやる気を出さない」等々。
他のことでももちろん構わない。
ニーズに合った情報をお伝えしたい。
今すぐ役に立たない情報は、忘れ去られてしまう。
多分、聞かれたら、答えられることも多いと思う。
いや、知らないことだったら、なおさら勉強する気が起きる。
やる気はあるのだが、しかし、今何を必要とされているのか、全然分からないのである。

何か質問がある方は、コメント欄にて質問していただきたい。
応援のメールを時々いただくので、それと同様に気軽にお願いしたい。
もちろん、匿名性は100%保証する。
ぜひご要望を。

2011年9月24日土曜日

速さは「木の下のはげたじいさん」

A 速さ=距離÷時間 
で求められる。
変形すると
B 距離=速さ×時間
もう1回変形すると
C 時間=距離÷速さ
である。
一つ覚えれば変形させることで求められる。
結論、Aの意味さえ覚えていれば、BとCは覚えなくてもよい。

しかし、「公式」として覚えれば、便利でもある。
Tの字をかいて「はじき」とかいう形で教えると思う。
(図に表せないが、分かる人が多いはず。)
この「は」「じ」「き」の位置がごちゃごちゃになる。

そこで「木の下のはげたじいさん」という覚え方を自分はしていた。
「き」の下に「は」と「じ」がある。
位置も覚えられる。
「はじき」を教えるなら、そういう風に教えると、覚えやすいと思うので紹介した。

2011年9月19日月曜日

嘘か夢か

夜回り先生こと、水谷修。
氏の紹介する話の中に「夢ふき」というのがある。
「ホラふき」、つまり嘘つきのことである。
この子は嘘をついているのではなく、夢を語っているのだと。

素晴らしい見方だと思う。
「嘘も方便」というが、嘘を「こうありたい」という願望として見てあげると、見方が変わる。

子どもが嘘をついたら、その背景を考えてあげたい。

2011年9月18日日曜日

価値ある不自然

前号と逆の話になる。
教えて欲しくもないものに、教えねばならないのが、小学校や中学校の教師である。
相手が食べたがらない餌を、何とかして食べさせて消化吸収させねばならない。
自然にしていれば、食べないものを食べさせる。
いうなれば、「不自然」である。

またまた野口氏の言葉だが「価値ある不自然」ということを話されていた。
「公」と「私」を使い分けるのである。
家の中では「私」全開でもいい。
しかし、大人になってひとたび社会に出たら「公」としての姿が求められるのである。
多少、無理が必要である。
あいさつが苦手でも、せねばならない。
無愛想な顔つきをして、接客をしたり、子どもの前に立ったりしてはならない。
辛いことや嫌なことがあっても、「公」の場では、笑顔である。
笑顔のプロといえば、スチュワーデス。
笑顔を、いつも練習している。
ある意味、無理をしている。
別人になっているのである。
「私はこうだから」と個性を主張するのはいい。
しかし、無愛想な教師やスチュワーデスは、やはり職業人として失格である。
最低限のラインである。

子どもはやがて大人になって社会に出るのだから、「公」の自分作りが大切である。
その時、個性うんぬん言ってあいさつもしない、不機嫌な顔つきでいるというのは、ダメだと教える必要がある。
「私」は放っておいても勝手に成長するが、「公」は矯正しないと身に付かないのである。

「価値ある不自然」を、堂々と教えよう。

2011年9月17日土曜日

「教えてください」

採用試験。
懐かしい響きである。
私の学校でも、現在採用試験に通るべく努力している先生が数人いる。
本当に受かって欲しいと心から思っている。
だから、「教えてください」と言ってくれば、他に仕事があろうが何だろうが快く引き受けている。
採用試験対策は、やはり現役の教師や校長等にきくのが一番である。

この「教えて下さい」が、すごく大切だと思う。
放っておいても教えてくれるという状態は、義務教育段階で終了している。
なぜなら、学びたいと思っている人間しか、教えても入らないからである。
成鳥になったのに、雛状態で餌を待っていても、餓死するだけである。
自分から動いて教えを請う必要がある。
免許更新や悉皆研修に実りがないのも、至極当然である。
(免許更新は、選び方次第らしいが。しかし人気があるところはすぐ埋まるという。)

常に謙虚に学び続ける者だけが、人に教える資格あり。
子どもに求める部分は、教師も努力せねばならない。

2011年9月16日金曜日

学級作りの教科書

個性を育てる、ということに関して、参考になる書籍を紹介する。

「学級作りの教科書」有田和正著 さくら社

今年読んだ教育書の中でもNo.1ヒットの良書である。
やはりこの本の中でも「あいさつ指導」「返事」という項目が取り上げられている。
いくつか内容を紹介する。

「返事の大切さを、再確認してほしい。(中略)
きちんと指導すればできる。
できないのは、指導をしていないか、指導のしかたが悪いかである。」

あいさつの「おあしす」
おはよう
ありがとう
しつれいしました
すみません

大らかになる「かきくけこ」
かっかするな
きにするな
くよくよするな
けんかするな
こせこせするな

「自分のクラスはいいクラスだと思わせる」

巻末には、以前このメルマガで紹介した「有田国憲法」の内容も採録されている。

個性を伸ばすために、やるべきことは徹底する。
野口氏の主張と共通する部分が多い。

とにかく買っておいて損はない一冊である。
読んでいただきたい。

2011年9月15日木曜日

なぜ日本の子どもは教師を尊敬できないのか

他国を見れば、「先生を尊敬していますか」という質問自体、当たり前すぎるレベルである。

日本の教師が、世界的に見て、怠惰で劣悪だから、というのなら分かる。
多分、逆だと思う。
世界的に見ても相当優秀で、真面目で努力家、本気でやってる人が多い(と思う)。
教師に精神疾患が多いあたりからも、相当真面目に悩んでる姿がうかがえる。

では、何が問題なのか。
「行きすぎた個性尊重」が原因だと考える。
野口氏は「行きすぎた子どもの人権保障」という話をされていた。
野口氏曰く「好きなようにさせていては、ろくなものにならない」。

以前「善意の強制」という話を紹介したが、あれである。
人間、放っておけば、易きに流れる。
自然の、そのままでいいならば、教育はいらない。
宝石の原石と一緒である。
ぶつけあって削り合って、研磨していかねばならない。
宝石になるはずの石を、「そのままでいい」と放っておかないことが教育の役割である。

例えば、言葉遣い。(はい、ありがとう、ごめんなさい)
例えば、姿勢。(立腰)
ここが変わると、態度も変わる。

子どもは、教えてもらいたい。
良くしてもらいたい。
誉めてもらいたいし、時に叱ってもらいたい。

そういう行為を、躊躇なくできるようになれば、教師への目も変わるかもしれない。
子どもは、強圧的な大人が嫌なのと同じくらい、弱腰の大人も嫌なのである。

教える側は、自信を持って子どもの前に立っていられるようにしたい。

2011年9月14日水曜日

先生を尊敬できない子ども達

前号の続きである。
気になる結果。
20カ国中何位なのか。

・・・・19位。
は、カナダ 70%
ここまで、日本はランクインしてこない。
つまり、最下位である。
20位 日本 21%

21%である。
19位との差が50%近く開いての、ダントツの最下位。
これはもう、ひどいとしか言いようがない。
教えを受ける相手のことを尊敬できない子どもが8割ということである。

野口氏曰く
「不幸なのは尊敬されない教師ではなく、子どもの方」と指摘する。
尊敬できない相手からものを教えられても、身に付くわけがない。
人の言うことをきかない、ワガママで自分勝手な人間が育つ。

尊敬されない教師が悪いのか。
教師の側に責任がないとはいえない。
しかし、大多数の教師は、熱心に、工夫も努力もして教えているはずである。

社会のせいか。
家庭のせいか。
だとしたら、どちらにせよ教育の責任ということになる。
そういう社会の基盤を作ったのが、教育である。

子どもが教師に対して尊敬の念を抱くようにしていくにはどうするのか。
次号から考えていく。

2011年9月13日火曜日

「先生を尊敬できるか」アンケート

前号の続きに当たる話を。
例の如く、先日野口芳宏氏から学んだ内容を伝える。
次のようなことを話されていた。

20カ国の中学生を対象に行った、「先生を尊敬できるか」というアンケートの結果がある。
結果は
1位 韓国   85%
2位 E.U.   83%
3位 アメリカ 82%
4位 中国   80%
・・・

さて、日本は第何位で、何%か。
予想していただきたい。

(次号に続く)

2011年9月12日月曜日

教育を食べ物にたとえると?

個性を尊重しよう。
違いを認める。
大変結構である。

だから、水を飲みたくない馬には飲ませなくてよい、となる。
・・・果たして、本当にそうだろうか。

その水を飲まないと、これから先の旅の途中で倒れるかもしれない。
何とかして飲ませないといけない。
そういうことも、ある。

教育内容を獲得していくことを、食べ物を消化することとたとえてみる。

あれもこれもと全部食べろと求めると、消化不良を起こす。
そこには、体に合っていないものも含まれる。
でも、試しに提供してやる必要はある。
食わず嫌いなだけで、すごく好きになるかもしれない。
逆にレバーみたいなクセの強いものを、体にいいからと言って無理矢理食べさせられたら、迷惑である。

一方、水は、好むと好まざるとに関わらず、確実に全員が吸収する必要がある。
これは、あの手この手で何とか飲ませる。
ニンジン嫌いの子どもに、母親がニンジンをみじん切りにして料理に混ぜて食べさせるのと同じである。

教育はこの辺りの見極めが結構大切ではないかと思う。
全てバランス良く食べてくれたら最高。
嫌いな野菜や食べ物がいくつかあるのは、正常。
しかし、異常に摂取量が少ない、水を全く飲まないとなると、これは病気になるので認めない。

水にあたる部分は、道徳ではないかと思う。
米やパンが、基礎学力。(種類は少なめ。たくさんとればエネルギー値が高い。)
肉や野菜は、各教科の力。(苦手がいくつかあるのは、あり得る。)
デザートは、遊び。(大抵は好きこのんでいくらでも食べる。)
コーヒーなどの嗜好品は、それぞれの趣味によるので、サッカーや野球、ピアノや習字などの習い事にあたる。
(楽しめれば人生が豊かになるが、別に食べなくても支障ないもの。)

そんな風に考えてみると、違いを認める部分と認めない部分が見えてくる。
(次号に続く)

2011年9月11日日曜日

馬に水を飲ませるには

「馬を水辺に連れて行くことはできる。
しかし、馬に水を飲ませることはできない。」
という格言がある。
悉皆研修は、この水辺に連れて行く行為にあたる。
喉が渇いている馬にはいいが、ほとんどがそうでない場合が多い。

逆に考えれば、喉が渇けば一人で水辺を探す訳である。
自主的な研修やサークルへの参加などがこれに当たる。

子どもに授業する時にも当てはまる原則である。
どうすると子どもはやる気を出すのかということについて、次号から考えたい。

2011年9月10日土曜日

教師の個性と得意な相手

個性の話について。
次のような本がある。
「オール1の落ちこぼれ、教師になる」宮本延春著 角川書店

中学1年~3年まで、オール1の成績で卒業したという、ある意味相当な強者である。
中学卒業時点で漢字は自分の名前が書けるだけ、九九は2の段、英語はbookの一単語のみ。
さすがにここまでの人は見たことがないレベルである。
「ヤンキー先生」の義家氏のような社会に反抗して暴れまくる感じではなく、完全な無気力タイプ。
勉強に意味を見いだせなかった著者が、アインシュタインの相対性理論に出会ったことで、勉強にはまっていくという話である。
最終的には、30代で教職につき、活躍する。
「自分より成績の悪い奴はいない」ということで、子ども達は希望を見出す。
氏が言うには「できない奴の気持ちが本当に分かる」ということである。

さて、この先生のようになりたいと私は思った。
しかし、無理である。
私は両親と死別をするような辛い経験もないし、ましてそんなすごい成績は見たこともない。
本当にできないで困っている子どもの心を、芯から理解するのは難しい。
人は、経験していないことは、実感できないのである。

つまり、教師にも個性があり、得意な相手、不得手な相手がいるということである。
勉強ができない子どもには、勉強ができない経験がある教師がいい。
逆に東大を目指す子どもには、やはり東大合格経験者の方がいい。

自分の経験に照らし合わせ、力になってアドバイスできる面、できない面を一度振り返るのもいい。
どんな子どもにも万人受けする教師は、存在しないと考える。

2011年9月9日金曜日

大縄指導に関心のある方へ

ここ数日、ページビューが急激に増えている。
原因は、大縄である。
大縄の指導法のページにアクセスが集中している。
どうやら、9月から大縄練習を始めた人が多いらしい。
お役に立てれば幸いである。
このブログはメルマガをもとに書いてある。
メルマガから約1ヶ月遅れでブログに記事をアップしている。
両方見てくれている方もいるようなので、少し期間を空けている訳である。

メルマガで、ニーズの高い大縄の記事を書き始めた。
もしタイムリーに知りたい方がいたら、メルマガの方も読んでいただきたい。
あちらでは質問も受け付けているので、積極的な利用をして欲しい。

個性を生かす教育とは?

本をたくさん読んでると、色々な人が「教師」について意見を書いている。
色々な意見があるが、教育書を除いて総じて論調は統一されている。
「教師はダメ」という論調である。(特にビジネス書には顕著である。)

教師は教育の目的をはっきりと言えない。
そもそも教育基本法すらまともに言えない。
教師は平均的な人間をつくる。
教師自身が没個性的だ。
教師はクビにならないから職業人としての意識が低い・・・

まあ、どれも当たってるといえば当たってるし、全然違うといえば全然違う。
「教師は」というくくりで見ている時点で、確実に全員に当てはまらない。
色んな教師がいるのに、そんなひとくくりで見られてはたまらない。
教師にだって、個性がある。

しかしながら、我々教師も、子ども達をひとくくりに見がちである。
「1年生だし・・・」「6年生なんだから・・・」というのも、必ずしも正しいとはいえない。
「忘れ物が多いから○○」「算数が苦手だから○○」「発表しないから○○」という風にも、つい見がちである。
上記のようなことができようができまいが、人格とは全く別問題である。
だが、ついつい学業成績のいい子どもは「いい子」と錯覚しがちである。

人間には、個性がある。
それを認めながら、教師は平均的な能力を身につけさせることを求められる。
なかなかに苦しい立場である。
大体、教師自身が平均的な能力を持っていないのである。
教える相手も、同じである。
たまたま平均的によくできる子どもが、学校内での「優秀な子」である。

個性について、今後少し論じていきたい。
(陸上ネタが続いているので、ちょっと視点を変えて。)

2011年9月8日木曜日

走り幅跳びは「かかとの位置選手権」

体育研修会伝達シリーズ第7弾。
走り幅跳びについて。

走り幅跳びにおいて、大切なのはどこか。
助走、踏み切り、空中姿勢、着地と大きく4つに分解できる。
どこの局面が大切か。
結論から言うと、この分習法的な考え方からまず離れることである。

須田氏は、幅跳びを「かかとの位置選手権」と教える。
フォームがどうであろうが、とにかくかかとの位置が遠くにある奴が勝ち。
そういうシンプルな遊びに落とし込むことで、初めて子どもの本来の動きが引き出せるという。

そのためには、踏み切りゾーンを小さな板の幅に限定せず、1mくらいとって、思い切り跳ばせる。
とにかく、思い切り跳ぶ感覚を引き出すのが大切である。

そうすると、一番跳べる助走距離というのが気になる。
どれぐらい助走をとれば最適なのか。

本物の川跳びを思い浮かべるといい。
跳べなければ、川の水の中に落ちる。
子どもは、適切な助走距離を自分で探すはずである。

参考までに言うと、小学生なら14歩か16歩で踏み切れる位置が、ベストな助走位置であることが多い。
偶数で踏み切るようにすると、踏み切り足を前に出して構えてのスタートになり、足の位置が合わせやすい。

幅跳びの醍醐味は、ふわっと空中に跳んでる感じである。
楽しさを感じ取れる授業に工夫していくことが、大切である。

2011年9月7日水曜日

ハードル走は「ハムのお中元」

体育研修会伝達シリーズ第6弾。
ハードル走の指導。

ハードル走においては、どういう走りができれば良いのか。
大会や記録会を想定すれば、要は短いタイムで駆け抜ける程いいのである。
その際、フォームが美しいだとかは実は関係ない。
良いフォームだから良いタイムが出たというだけのことである。

では、より速くするにはどうするか。
前に進めば良いのである。
グラフでいうと、X軸方向が大切であって、Y軸方向にがんばる意味はない。
いわゆる、前のめりな走りが欲しい。
しかし、えてして上体を垂直に立てた姿勢で上に跳び上がってしまいがちである。
この跳び方でハードルに上から落ちて当たると、非常に痛い。

では、どうやって上体をおさえた前のめりな姿勢を作るか。
「ダブルアーム」という方法を使う。
要は、両腕を前に出してハードルを跳び越す。
自然と、上体がおさえられ、理想的なフォームに近づく。
ただ、これは「上体をおさえて前に跳ぶ」という姿勢作りのための方法(分習法)なので、できるようになったら普通に戻す。

イメージとしては、ハードルの前方に、サーカスのライオンが飛び込む火の輪をイメージする。
そこに向かってとびこむ。
自然と、体がたたまれてコンパクトな姿勢になる。

ちなみに理想的な上体の姿勢は、「お中元」だそうである。
片方の脇にお中元のハムを抱えて、もう片方の手を伸ばし「ピンポン」とチャイムを鳴らす。

一つの例だが、イメージ化できるように伝えることが大切である。

2011年9月6日火曜日

バトンパスは前を向いて?

体育研修会伝達シリーズ第5弾。
リレーのバトンパスについて。

リレーのバトンパスにおいて何が大変かというと、次走者が前を向いてバトンを受け取ることである。
しかも、スピードに乗った状態で行わなければならない。

小学生に、ここを求める必要がないという話である。
実際、大学レベルだって4×400mリレーのバトンパスの際は、後ろを見ながらバトンを受け取るらしい。
400mだからといって決して遅い訳ではなく、100mを10~11秒台の速さである。
小学生と比べるまでもない速さである。
つまり、小学生の場合なら後ろを向きながらでもなんら問題はないとも考えられる。

具体的にどう指導するか。
自分のスタートラインから、一定の歩数でスタートダッシュ地点を決める。
そして、そこにバトンを持った走者の胸が通る地点で走り始める。
この時、前号で紹介した「1,2,34!」でダッシュする。
「1,2,34!」の4歩だけは、前を見て全力ダッシュする。
その後は後ろを見てしっかりバトンを受け取る。

渡す方は、バトンを垂直に立てて、相手の手の平に10cmだけ押しつける。
これ以上押すと、相手の手にケガを負わせる可能性があるためである。
0cmだと、相手がバトンを落とす可能性がある。
だから、10cm押しつける。

「バトンパスは前を向いて行うものだ」という考え方も、何のためなのか考える必要があると教えられた。

2011年9月5日月曜日

100m走ゴール前は「小さく小さく!」

体育研修会伝達シリーズ第4弾。
今日は短距離走の中間疾走からゴールまでの動きの指導について。

100m走において、トップスピードになるのは大体何mの地点か?
これは個人差があるが、一般人よりもオリンピック選手の方がトップスピードに乗るまでの距離は長い。
オリンピック選手で、40m辺りだそうである。
普通の大人なら30m前後でトップスピードになるらしい。
小学生になると、15m、良くて20m地点。
つまり、残りの区間は維持&スピードダウンということである。
後半にスピードアップを期待しても無駄。
いかにスピードダウンを緩やかにするかがポイントとなる。

そう考えると、ゴール前の「もっと大きく!」「腕ふって!」という声かけは誤っていることになる。
体力の落ちた状態で大きくふれば、ゆっくりしたペースになり、スピードダウンする。
ここは「もっと小さく小さく!」と声かけする。
細かく動かすことで、スピードダウンを防ぐというねらいである。
小学生は確実に後半ピッチが落ちるからである。
(オリンピック選手を見ると、ピッチが全く変わっていないことが分かる。)

そして、中間疾走からゴールまでは一点を決めて見つめて走るということも基本である。

今までの常識を覆す理論である。
しかし、今までの方法で効果が上がらない以上、試してみる価値があると思う。

2011年9月4日日曜日

スタートダッシュで「1,2,3,4!」

体育研修会伝達シリーズ第3弾。
短距離走やリレーのスタートダッシュについて。

まずはクラウチングスタートの姿勢について。
「スタブロは前足二足長、後ろ足三足長が目安」
「手のつく位置は肩幅よりやや広め」
「両手の親指の間を一辺とした正三角形の頂点に目線」
など、基本的な内容を一通り学習。

スタート後、「1,2,3,4!」と最初の4歩を声を出してダッシュする。
これも、全部同じテンポではいけない。
「演歌調」で「い~ち、に、さんっしっ」という感じである。
「1」が一番長い。
なぜか。
接地時間が長いからである。
止まっている物体を押すときと一緒で、最初は力がいる。
最初にしっかりと地面からエネルギーを得ることで、その後のスピードが変わるということである。

次回は、中間疾走からゴールまでの動きについてお伝えする。

2011年9月3日土曜日

ももあげは何のため?

新学期ネタが途中で入ったので中断していたが、数回前の陸上の研修会での学びの続きを。
陸上の短距離走の指導で、「ももあげ」のドリルをやらせる。
何のためなのか。
もっというと、どういうももあげができればOKなのか。
少し考えていただきたい。
「理想のももあげ運動」とは?
そのポイントを一つだけ教えるとしたら?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
須田先生は次のような話をされた。
ももあげ運動は、骨盤が最初から前傾している欧米の選手に有効な方法である。
日本人は最初から骨盤が後ろに傾いているため、ももあげは容易である。
簡単に高くももがあがる。
つまり、「ももを高く上げる」という練習は、日本人にはあまり必要がない。
しかしそれでもやるとしたら、どこがポイントなのか。

そもそも、ももを上げる意味は何なのか。
これは、「地面から得るエネルギーを多くするため」である。
あまりに低いと、反発力が得られない。
しかし高すぎても、無意味である。

どういう風に踏めばいいのか。
「350ミリリットルの空き缶を一気に潰すように」踏むのがよい。
真下に、グシャッという感じである。
スキップなら、500ミリリットルの缶である。
要は、「地面から一瞬で力を得る」というのがポイントになる。
べたっと着いてはいけない。
一瞬で、かつしっかりと踏み込む。

ももあげ一つとっても、「何のための練習なのか」が明確になると、取り組み方が変わる。

次回は、「良いスタートダッシュとは?」についてのお話を紹介する。

2011年9月1日木曜日

心と体が重い時には

物事は動き出しに一番エネルギーを使う。
物理でも、止まっている物体を動かすのが一番大変である。
動き出した後は慣性の法則で流れていく。

新学期、子ども同様、教師も心と体が重いことが多い。
自然の法則からいっても、至極当然である。
少しでも軽くする方法を紹介する。

心の方から。
不安を書き出すという方法がある。
不安に思っていることを箇条書きで全て紙に書いてみる。
書いたものを読み返し、今の自分にどうにかできることか、放っておくものか考える。
対策行動がとれるならば、それも書く。
不安は、見えないから不安であって、見えるようにすることで消えるものが多い。

体の方。
これはもう、おっくうでも動かすにつきる。
簡単な体操やランニングのような運動をする。
教室の掃除をする。
廊下を歩く時に背筋を伸ばして歩いてみる。
体が心を支配している面があるので、そうすることで心の方にもプラスの影響が出る。

当たり前すぎることばかりだが、意外と効果があるので、重い人は試してみて欲しい。
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