前号と逆の話になる。
教えて欲しくもないものに、教えねばならないのが、小学校や中学校の教師である。
相手が食べたがらない餌を、何とかして食べさせて消化吸収させねばならない。
自然にしていれば、食べないものを食べさせる。
いうなれば、「不自然」である。
またまた野口氏の言葉だが「価値ある不自然」ということを話されていた。
「公」と「私」を使い分けるのである。
家の中では「私」全開でもいい。
しかし、大人になってひとたび社会に出たら「公」としての姿が求められるのである。
多少、無理が必要である。
あいさつが苦手でも、せねばならない。
無愛想な顔つきをして、接客をしたり、子どもの前に立ったりしてはならない。
辛いことや嫌なことがあっても、「公」の場では、笑顔である。
笑顔のプロといえば、スチュワーデス。
笑顔を、いつも練習している。
ある意味、無理をしている。
別人になっているのである。
「私はこうだから」と個性を主張するのはいい。
しかし、無愛想な教師やスチュワーデスは、やはり職業人として失格である。
最低限のラインである。
子どもはやがて大人になって社会に出るのだから、「公」の自分作りが大切である。
その時、個性うんぬん言ってあいさつもしない、不機嫌な顔つきでいるというのは、ダメだと教える必要がある。
「私」は放っておいても勝手に成長するが、「公」は矯正しないと身に付かないのである。
「価値ある不自然」を、堂々と教えよう。
2011年9月18日日曜日
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