2020年6月30日火曜日

学級経営を救う教科担任制・学年担任制

学級経営の話。

学級経営をうまくやる方法ということは書籍も山ほどあるし、ずっと言われている。
もうこれまで何十年にもわたってニーズの高い話である。

ただこれまで、学級経営にも、競争原理がもちこまれていた感が否めない。
「勝てば官軍負ければ賊軍」の世界である。

これではいけない。
学年は、チームである。
もっと言うと、学校自体が一つの共通の目的をもったチームである。

自分の学級の子どもというのは、たまたま一時的に受け持たせてもらったに過ぎない。
手を離れてしまえば、新たな担任に委ねることになる。
その後まで見通した上での、一時的な関わりである。
リレーであり、つなぎの第〇走者であって、決して自分がアンカーで終わりではない。

だから、学級王国ではいけない。
王国内でしか通用しないような力は、生きる力になり得ない。

王国化を防ぐには、学年のチーム化である。
それも、学年主任は立場上の責任者としながらも、各学級担任の独立、判断が認められているチームである。
その場合、学年主任の最も大きな仕事は「何かあったら責任を一緒にとる」という姿勢である。
決して、命令系統ではない。
(ちなみに責任をとるというのは、事態への対応・処理を行うということである。
謝るとか辞めるとかそういうことではない。)

具体的には、相互に教室に入ることである。
どのような形でもいいから、全ての学級の子どもの名前を呼べる関係になることである。
そうすれば、各学級の子どもたちは、学年のみんなで担任している子どもたちになる。

一方で学級自体は、あまりに最初から子どもに任せすぎて放置すると、困ることになる。
学級の成員は子どもであり、自分の判断だけで何とかなるものではない。
裁量権をだんだんと与えながら、最初の内は引っ張っていく必要がある。
(最初から委ねていけるのは、名人芸であり、一般的に使える方法ではない。)

中教審でも、2022年を目途に、小学校高学年での教科担任制が検討されている。
全国の学級経営の問題を解決していく上でも、望ましい傾向である。

私としては、昨年度から朝の会だけでも担任が交替する制度を提唱して実践してきた。
それだけでも、かなりの効果が上がる。
ただし実施の上の最低条件として、お互いのリスペクトがあることである。

学級担任が悩んだ時は、まず学年で何とかする。
学級経営を考えていく上での原則である。

2020年6月25日木曜日

学級経営のコツは何ですか

「学級経営のコツは何ですか」というようなざっくりした質問を受けることがある。
これは難しいのだが、難しいと答えてしまうと、普通である。
こういう場合、敢えて言い切る。

「本音・実感・我がハート」とは師の野口芳宏先生の言葉である。
これに従って答えてみる。

この言葉自体が学級経営のコツでもある。
本音でないこと、実感できないこと、我がハートが震えないことは、しないことである。

具体的には「誰にも媚びないこと」である。
それは、本当には思ってもいないことを口にしないこと、やらないことである。

例えば子どもをこちらの都合いいように操作しようとしてほめるなんて、最悪である。
それよりも、相手を心からすごいと思える自分自身の感性を涵養していくこと。
それは他を変えようとする研究の分野ではなく、自己を変えようとする修養の分野である。

私が学級経営のコツは?と聞かれたら。

人に媚びない。

ここに尽きる。

媚びないということは、一見尊大のように聞こえるが、逆に謙虚にもなる。
媚びないということは、虚栄がない、つまり素直ということであり、あらゆる相手に教えていただくという姿勢になる。
そうなると、自分よりも経験や年齢、立場が上か下かというような小さなことがどうでもよくなる。

何よりも、子どもと共に学ぶ姿勢をもつことである。
当たり前だが、たとえ相手が小学生であろうと幼稚園児であろうと、自分の方が全てを上回って知っている訳ではない。
子どもの方が分っていることだってたくさんある。
特に低学年ぐらいの小さな子どもは、大人と視点が全く違うので、発見の連続である。
そこから学ぶ姿勢をもつことである。

人に媚びない。
それは、ご機嫌とりをしないということである。
特に学級開きの時期に間違いがちだが、無理に人気をとろうという方に力を注いでしまう。
無理にオモシロ先生のキャラを演じたり、なんでも許してくれる「優しく理解のある先生」を演じてしまう。

それを年間で終始演じきれるならそれでもいいのである。
それで子どもを成長させらるなら、それでもいいのである。

しかし、自分のキャラクターを無視した、人に媚びた学級経営は、確実に失敗する。

もちろん、教師のキャラクターは、明るい方がいい。
「笑顔が仕事の一部」とかつて書いたぐらいだから、その方がいい。
しかし極論、暗い人は暗くてもいいのである。
そのキャラクターで、きちんと自分を出して、理解してもらえるならいいのである。
相手に媚びて無理に明るいキャラを演じるより、その方がずっといい。

怖い人は怖いのがキャラクターである。
穏やかな人は穏やかなのがキャラクターである。
おちゃらけている人は、おちゃらけているのがキャラクターである。

周りに媚びて、自分と違うキャラクターを演じようとするのが最もいけない。
自分が叱れないキャラクターなら、叱らないで伝える方法を考えればいい。
笑わせられないなら、笑わせる代わりにできることをすればいい。

とにかく、人に媚びないこと。
自分をしっかり出していくこと。
嬉しい時は嬉しいことを伝え、嫌なことは嫌と言う。
これに尽きる。

これが難しいのであるが、何でも難しいと言い始めたら何もできない。
自分のいちいちの言動に「これは誰かに媚びていないか」と問いかけ見直すだけで変わってくる。

媚びないと何がいいか。
自分が好きになれる。
自分が自分を一番大切にしていると実感できる。
そして人からは一時的に嫌われるかもしれない。
でも、長い目で見たら、確実にその方が好かれるのである。

「学級経営のコツを一言でお願いします。」
自分がきかれたら、どう答えるか考えるのもまた一興である。

2020年6月23日火曜日

ICT環境導入の流れを止めない

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉がある。
どんなに苦しんでいても、終わってしまえば忘れてしまう。
いい意味でも使えるが、反省がない、同じ過ちを繰り返すという悪い意味もある。

県をまたいでの移動制限が解除され、人が一気に動き出したという。
これによる第二波への警告は、周知の通りである。

それら世間一般のことというより、この諺を学校教育の視点から考える。

今回の一件で、散々苦労した訳である。
何に。
ウィルスそのものへの対策というより、学校教育ができないことに対してである。
具体的には、ICT環境の導入の遅れに対してである。

日本はICTにおいての諸外国の水準に対し、大きく後れをとっている。
その理由は「保守的」だからであるとしか考えられない。
国が経済的に本当に苦しいならわかる。
しかし、先進国やアジア諸国と比べても、ICT導入ができない状態とは到底いえない。
むしろ、著しく低い日本のGDPを上昇させるには、ICTの活用は確実に肝である。

英語教育の後れもそうなのだが、これは少し事情が違う。
日本は特殊な島国構造であり、国民の大多数が日常的には英語を話さないで問題のない環境に暮らしている。
一方で、アジアの諸外国は、庶民が商売等でも英語を日常的に使う環境下にある。
これは、植民地化に関わる歴史的な問題も絡んで、必然的にそうなっていった。
日本の地理的な環境要因は、英語教育の後れと不利に関連している。
(だから今のままでよいという訳ではない。英語教育の在り方は、今後も検討の余地が相当にある。)

思えば、熱中症などもそうである。
昨年度に散々苦労したのだから、今年度はそれ以上の対策と準備とが必要である。
今後も異常気象が続くことには変わりがないからである。

喉元過ぎれば熱さを忘れる、ではなく、一時的にでも落ち着いた今こそ準備の時である。
震災などへの備えと同じで、いつまた来るかわからない事態に、予め準備しておく。
ICT環境が普及していれば、今回のような未曾有の事態にも対処する術があるとわかったのである。
次に備えて、声を上げていく時である。

英語教育でもICT教育でも何でもそうだが、吝嗇を示すのはいつも大人の方である。
子どもは新しいものを喜んで受け容れ、すぐに吸収してしまう。

何はともあれ、今回の痛みを忘れてしまうことなく、次につなげていきたい。

2020年6月21日日曜日

夏の登校と熱中症問題考察

夏休みの期間変更について、各自治体から続々と出ている。
概ね、今年の夏休みは2週間程度のところが多いようであるが、中には1週間程度という自治体もある。

例年に比べ、大幅に夏休みが短くなるが、反対の声はそれほど上がらない。

道理として、このままでは明らかに授業日数が足りないため、当然である。
これ自体は単純な算数であり、このまま年度末まで足し算をしても授業時数が届かないのは明白であるため、反論の余地はない。

世間の多くの大人も、これには反対しない。
元々一般的な日本人の大人にとっての夏休みなど、お盆の期間ぐらいのものである。

またそもそも家に子どもがいない、学校に通っていないという場合であれば、反対する理由もない。
子どもがいる家であれば、前号書いた保育的機能のこともあり、夏休みが短くなるということは、むしろ助かる面も多く出る訳である。
これらは、大人の側の都合というだけの話であり、教育そのものの話ではない。

一方で、子どもというのは反対の声を上げることはできない。
多分、今現在早く学校に行きたい子どもの中にも、夏休みの短縮について賛成している子どもはそう多くないはずである。
夏休みが短くなって嬉しい、という子どもが大多数という状態は、まず想像できない。

さて、教育の立場からすると、本質的に大切なのは、学力や人間性等に関わる、成長の問題である。
さらに、子どもの命の安全を守るという観点である。

夏真っ盛りの中の登校は、子どもの安全を守り、学力他を伸ばすことになるのか。

そもそも、今まで夏休みが何のために設定されていたかである。
夏休みにしか体験できない学習を云々色々あるが、要は暑すぎて授業をしてもまともな効果が出ないからである。
特に体育などは、水泳以外には実施すること自体が不可能である。(そして今年度の水泳は実施不可能である。)

もっと深刻な問題として、熱中症である。
そもそもが冷房完備でない自治体が結構多い。
元々が涼しい地域ほどそうである。

次のものが、令和元年9月に文科省が発表した公立校の冷房設置状況調査の結果である。
https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/31/09/__icsFiles/afieldfile/2019/09/19/1421285_1.pdf

これを見ると、3年前の時点での公立小中学校の冷房設置率は50%未満であった。
しかし近年、温暖化や異常気象による熱中症問題を受け、各自治体で急速に設置が進んだ。
実際、設置率の折れ線グラフを見ても、急上昇している。
そして現在の時点では、9割の学校に冷房が設置されているはずである。

ただ、たとえ冷房完備であっても、密室が不可となると、これはまた問題が起きる。
せっかく冷やしても、頻繁に換気をすることになる。
色々指針が出てはいるが、換気の頻度は例年よりもどうしても多くなる。

エコの面から見た環境的な問題もそうだが、もっと切実な問題として、学校というのはお金がない。
この冷房使用にかかる費用は、莫大である。
まして、使用期間を延長するのである。
どこから費用を捻出するのか。
それとも、使いすぎないよう厳しい注意を受けながら、ぎりぎり熱中症を出さないレベルの使用でキープするのか。
その場合に熱中症で倒れたら、一体誰の責任になるのか。

折角冷房を設置しても、また新たな問題をクリアしないといけない。
一難去ってまた一難である。

夏休みの分を登校させれば学習が追い付くという論理。
算数的には正しいかもしれないが、実際の社会というのは算数のようにすっきりした答えが出ない。
夏の登校でも学習モチベーションを保てる子どもは、恐らく自宅学習でもいける子である。

どのような環境下、身体的・心理的状況下で授業を行うのか、考えてみる。
頭の中でシミュレーションすると、かなり厳しい。

ただ、オンライン学習が通学と認められるようになるなら、話は別である。
夏休みの一部をオンラインで代替できれば、登校日を大幅に減らすこともできる。
今回に限らず、遠隔授業ができる環境づくりを平時より進めておくのは、今後の様々な問題に対処できる大きな力になる。

元々何のために、どのような理由で夏休みがあったのかを考える。
特に熱中症問題は命の問題であり、最優先事項である。

難題が続くが、解けない問題はないと思って、できることに前向きに取り組んでいきたい。

2020年6月19日金曜日

学校の保育機能

今回の一連の騒動で、学校についての考え方が変わった。

学校というのは、文科省管轄の教育の場であると考えていた。
子どもにとってよい教育をする場。

しかし、今回、この見方が甘く、一面的であるとわかった。

学校というのは、あくまで社会の機構の一つである。
特に、多分に「保育」という面が強いことがわかった。
保育は保育園の役割であり、厚生労働省の管轄、という意識が、はっきりと変わった。

学校は、子どもを預かってくれる場である。
特に勤務等で家庭内に子どもを見られる状況にない場合、学校の有無は収入の有無に直結する。
休校は、生計に関わる一大事である。

また、学校の保育機能が、大人の余暇を生んでいる面もある。
夏休みが母親にとって一番しんどい(特に昼食作り)、というのは昔からよく聞く話である。

思えば、塾や習い事が保育園化している面もある。
子どもは四六時中塾や習い事で休む間もないが、その間に親はゆったりしている、という場合も少なくない。
親の側にも言い分はあるだろうが、やはり保育的な面は強い。

翻って、子どもの立場になってみると、学校こそが子どもの社会的な居場所ということもいえる。
子どもには労働がないのだから、学ぶのが仕事の代わりである。
学校で日々学んでいれば、ある程度堂々としていられる。

それが、家にずっといる(しかも大量の課題付)となると、一気に肩身が狭くなる。
あまりに口うるさい家庭の中にいれば「学校に行きたい」となるのも、至極当然である。
大人にとっての仕事場同様、子どもにとっての社会的な居場所である。
(ちなみにこれまでの休日出勤の状況から、在宅勤務日でも出勤したい大人も、全国的にかなり多いのではないかと予想する。)

学校は、子どもの居場所。
学校は、大人にとって保育機能の場。

そう考えると、また見えるものも違ってくる。
学校教育の在り方については、教育という面だけでは通らないと学んだ次第である。

2020年6月17日水曜日

無料は高価

レジ袋が有料化されて久しい。
もう、無料でくれるところの方が珍しい。

ごみ袋が有料になったのも随分昔の話であるが、これも大変いいことである。
(無知で無恥な学生の頃は文句垂れていたが。)
ごみ処理などという大変で高度な技術に、お金がかからない訳がない。
有料になれば、お金がかかるのが嫌なので、ごみそのものも減る。
ごみ処理が有料なのだと気付くこともできる。
いいこと尽くめである。

これは、いい傾向であると思っている。
無料は、本来の価値を見失う。
人間を無思考にして、見えなくしてしまう。
有料であるべきものには、対価として見合う金額をきちんと払う方がよい。

一時期、携帯電話の本体が無料ということがあったが、論理的に考えてそんな訳がない。
YouTube動画が無料なのは広告があるからというのも、無料で見られるTVの視聴率とCMの関係と基本は同じである。

無料には、必ずトリックがある。

学校の教科書は「無償提供」なので、受け取る側にとっては「無料」である。
教科書の裏表紙の値段のところを見たことがあるだろうか。
「¥00000E」
とある。
0円である。
フリーペーパーである。

そんな訳がない。
実際には、莫大なお金が動く。
通常の書籍と違い、発行部数が桁違いであり、利益・利権争いが生じない訳がない。
教科書は、人々の血と汗の結晶である。
当然、内容も通常の参考書よりもずっといいはずである。

受け取る時に無料だから、その価値を感じないだけである。

さて、義務教育そのものも無償である。
子どもにとっては本来「権利」なのだが、義務のように通っていた子どもも多かったのではないかと思う。
それが、権利として受け取れなくなって、初めて価値を感じた子どももいるのではないか。
(一方で、学校に行かないで済むので、せいせいしている子どもだって、もちろんいるはずである。そこは否定すべくもない。)

学校も、実は、無料ではないのである。
あらゆることに、コストが相当かかっている。

それを無料で受け取れていたことに今まで無自覚だったのではないか。
教える側も、子どもが目の前に来て、仕事があるということが当たり前だったのではないか。

学校が無料で、お金のやりとりが見えないのは、全て税金の仕組みの「お陰様」である。
実は、無自覚にお互いかなり高価なものを受け取って「浪費」していたともいえる。

今回、学校に行けずに、自分で勉強をしろと言われて、相当に苦労している子どもたちの姿がある。
実は、自らを律して自由に生きるよりも、他律されてやらされる方が、ある意味で「楽」なのである。
(自分で好きな学問の分野を切り開いて新たな問題を発見するより、難関の試験問題を解く方が楽である。
そして、楽なのと、楽しいというのは別問題である。)
朝早起きして登校する面倒くささも、口うるさい先生も、楽しいけど時々けんかしてしまう友達関係も、学校があってこそである。

一方、教える側も困惑している。
在宅で仕事をしろと言われて、給与に見合った対価を生み出すことの難しさを、相当に感じているところである。
毎日、目の前に子どもが勉強を教わりに来てくれることの、いかに有難いことか。
教員の職能発揮は、子ども集団が目の前にいてこそということが痛切に感じられる。

完全ではないまでも、全国の傾向では、学校が逐次再開しそうである。
今まで「無料」気分でいたことの真価を見直し、新たな視点での教育の価値を生み出していきたい。

2020年6月14日日曜日

ふれあいの価値

相撲遊びが好きである。
テレビで観たり、まして両国国技館へ観覧しに行ったりもしないが、相撲遊びは子どもの頃から好きである。

小さい頃から割と力が強かった方であった。
小3ぐらいの時に、図工の先生をよくいたずらでおんぶして持ち上げて歩いていた記憶がある。
たまに家に父親がいれば、狭い家の中で相撲をしてもらい、投げ飛ばされていた記憶がある。
体格の差に、手も足も出なかったが、何度でもやってもらっていた。

学校が再開しても、相撲遊びは当分できない。
相撲は、密接中の密接な遊びである。

思えば子どもの遊びや体育での運動というのは、とにかくくっつくものが多い。
おしくらまんじゅう、花いちもんめのような昔遊びしかり。
夏の暑い盛りに「虫見つけた!」と誰かがいえば、とんで一か所に集まって頭をくっつけ合う。(この逆に虫的な姿が、好きである。)

子どもは、互いにくっつくことによって、学ぶ面が大きい。
そもそも赤ん坊の脳は、母親に密にくっつくことによって発達する。
大人になったって、仲間を励ます時には、ポンと肩をたたく。
ふれあうということは、社会性そのものである。

今回の「接触禁止」の学校教育というのは、この根本が揺らぐ。
「相手に感染させない」という視点から、自ら離れなければならない。
仲間同士もふれあって遊べないし、当然教師も子どもとふれあえない。

ふれあって遊べない、学べないということは、寂しいし、何かと不便である。

しかしながら振り返ってみれば、実際今までもこういう状況で過ごしていた人たちがいたということでもある。
世の中には、かすり傷を負っても致命傷になるような病気や、人から隔離されて生きるしかない病気がある。
ふれあいたいのにふれあえない。
一緒に遊びたいのに遊べない。
今とは違い、自分だけがそういう状況というのは、寂しいことである。

不便というピンチは、気付くというためのチャンスである。
今までの当たり前が、いかに幸せなことで溢れていたかを知るためのチャンスである。
今気付かなければ、長い目で見てもっとピンチになっていたかもしれない。

人とふれあえるということや、集まれるということ。
その当たり前の価値に気付いた後の学校や社会は、今までとは違う価値観が生まれてくるはずである。

何かと不便ではあるが、今は気付きのための期間として、大切に過ごしたい。

2020年6月12日金曜日

短い時間で国語の物語の授業ができるか

サークルでの野口芳宏先生からの学びの続きと考察。

次のような説明と質問をした。

現在、直接学校で教えることがかなわない。
そうなると、確実に時数不足になる。
時数不足になると、余計なことを教えている暇はない。
もし短い時数で、例えば国語の物語の授業をしなければならないとしたら、どのような授業をすべきか。

概要だが、以下のような教えをいただいた。

子どものための文学は、子どもが読むためのものでる。
よって、大人が教えないと読めない、というような類のものではない。
放っておいても読める。

しかしながら、授業をする意味はある。
作品のもつ、大事なものの価値に気付かない可能性があるからである。
素晴らしい表現を読み飛ばしたり、誤読したりする可能性もある。

「あれども見えず」を顕在化させるという意味で、授業には意味がある。
しかし、時間がないとなると、悠長な問答はしてられないだろう、ということだった。

ただ、全国のあらゆる教室で、過去何十年とやられてきた国語の授業。
これが、本当に国語の学力を形成してきたといえるか、というのは、別問題である。

さて、以下はこれらの話を受けての考察。

自身を振り返ってみて、自分の授業を受けないことで、国語の学力が著しく低下する、ということがありそうだろうか。
ここに自信をもって、間違いなく必要だ、と言えるのなら問題ないのである。
費やした時間だけの価値を生み出せていたのか、ということが今問われているのである。

何度も述べているが、学校に来ることには意味がある。
学校には、存在価値がある。

しかしながら、昭和の時代からあまり大きく変わっていない授業というものの在り方は、見直すべき時である。
同じ答えを求めるための、横並びの学力をつけることが、本当に必要なのか。
個に合った学習、将来役立つ学習の在り方というものが他にあるのではないか。

ちなみに私は、リアルでの授業に高い価値を置いている立場である。
子ども同士が集まって意見を交わし合うことが、人間性を育むという意味でも素晴らしい効果があると確信している。
オンライン上では、正直その1~2割程度しか効果が出ない。

しかし、ICTは、あくまでツールである。
リアルのコミュニケーションの場でも使えるツールとして、これから確実に入ってくる。

国語であっても、意見をぶつけ合って話し合うような授業では、やはり温度が感じられる本物の場がいい。
一方で、学習用語や言語スキルなど、こちらから教えられるものは、オンライン上でも十分できる。

現在、デジタル教科書とホワイトボード機能を用いた完全オンラインの授業を試している。
自分がやっているだけに決して上等とはいえないまでも、これによる授業は、不可能ではなさそうである。

次は、詩の授業も試してみる。
詩の授業などは、読み手の解釈が入るため、意見の交換が面白いところである。
オンライン会議機能を用いて、みんなの顔を見ながらやればまた違うかもしれないので、試してみようというところである。

大切なのは、子どもにとって本当に必要な学力をつけることである。
オンラインとオフライン。
それぞれの特性を生かした、融合した授業の在り方、学習の在り方の模索が必要と感じる次第である。

2020年6月10日水曜日

教師は、慌てないこと

師の野口芳宏先生からの学び。

現在、教育にとっても未曾有の危機ということで、私から次の質問をした。
「この状況で、先生なら何をどうされますか。」

曰く「教師は、慌てないこと」。

確かに危機的状況である。
しかしながら、敗戦の時は、もっともっとすごかった。
生活は今とは比べものにならないほどの貧困・困窮を極めた。
教育も、昨日まで白と教えられていたものが急に黒になるというような、混乱の極みである。

それで、その時代の子どもたちの学力は落ちたか。
どうしようもない人間が育ったのか。
決してそんなことはなかった。

人間は逞しい。
半年や一年間ではだめにはならない。
何があっても、すくい上げていく力がある。

そこで大切なのが、リーダーが慌てないことである。
国のリーダー、県のリーダー、地方のリーダー、会社の社長、色々いるが、リーダーが乱れないことである。

孔子の教えに
「君子もとより窮(きゅう)す 小人窮すればここに濫(みだ)る」
がある。

君子であっても、困ることはある。
小人は困ると、乱れる。
君子も、困っていることには変わらないのだが、乱れない。

教師は、さすがに君子とはいえないまでも、学級運営のリーダーである。
乱れず、慌てないことである。

逆に、次のように考える。
今まで、余計な事が多すぎたのではないか。
本当の意味で、子どもたちに学力がついていたのか。
ピンチの状況を改めて見直し、改革するチャンスである。

視点の広さ、深さ、大きさに圧倒的な差を感じた。

教師が、慌てないこと。
いつであっても大切なことである。

2020年6月8日月曜日

いらいらも集団感染症

メルマガ上では母の日に書いた記事で、母親に関連する話題。

母親というのは、本来家庭の太陽的な存在である。
しかし、その太陽たる母親が家庭内で苦しんでいることが結構多い。

原因を辿ると、「いらいら」である。
家族の誰かがいらいらしていると、それが集団感染的に全員にうつる。

集団感染いらいらストレスの被害者になるのは、その集団内の最も立場の弱いものである。
母親は弱くない場合でも、家の中心存在である母親的な立場にいることが多く、特にそのストレスを受けやすい。

いらいらという感情は、怒り未満のものである。
先日桜島が噴火して大きな被害が出たばかりだが、まさにマグマがたまって心が「噴火しそう」な状態である。

ちなみに、心理学では「感情」と「情動」を分けてみる考え方がある。
いらいらのように感ずるものは「感情」にあたるが、比較的短期に起こりかつ身体を含め外的に表れる怒りのようなものを情動という。
(これらの見方にも論争があり、一義的ではない。)

いらいらというものは、軽視していはいけない。
「不機嫌は最大の罪」ともいわれるほど、いらいらというものはあらゆる悪の根源となる。
いらいらは、集団感染するからである。

田舎の方と都会を比べると、一目瞭然である。
人口が密集している箇所では、どうしても人がいらいらしている。
ちょっと何かあればものすごい勢いでクラクションを鳴らされる。
人と人の距離が近すぎてぶつかりやすいので、睨まれる機会も出る。
やられた人が、またいらいらするので、全然知らない他の人にそれをぶつける。

当たり前だが、都会に住んでいる人の性格が悪いのではなく、物理的環境がそうさせている面が大きい。
(田舎では車と車が密集して渋滞する状況にならないし、お祭りでもない限り、一か所に人間がぎゅうぎゅうになることもない。)
今は逆に、外は人が少ないため、いらいらの発生は少ないと思われる。

一方、家庭という環境は、物理的にも心理的にも距離が非常に近くなる。
そして今は、普段なら適度な距離を保てた家族が、常に集まった状態になる。
よって、愛情が深まる面がある一方で、いらいらも集団感染しやすくなる。

職場と同じで、人間関係が明暗を分ける。
関係が良いと、一緒にいて親睦が深まる。
関係が悪いと、一緒にいるだけでいらいらする。

そしてご機嫌も不機嫌も、どちらも集団感染する。

昔から、母親は家庭の太陽という。
太陽のご機嫌を損ねるようなことをすると、天岩戸ではないが、色々困ることになる。
一方で、太陽がご機嫌だと、周りも明るくなる。
(ちなみに、この太陽役は、実は必ずしも母親でなくともよい。家族の中で、その役割を担う人である。)

家庭内が明るくなるためには、当たり前の言葉が大切である。
おはよう、おやすみなさい、いただきます、ごちそうさま、ありがとう、ごめんさない。
いわゆる当たり前の挨拶と言われているものを軽視しないことである。

母たる存在の人には感謝を述べつつ、お互いを労って過大な負担をかけないようにしたい。

2020年6月6日土曜日

教師の課題への本音

今回、休校中にたくさんの課題が出されていることと思う。
全国の悩める子どもと保護者に向けて、課題を出した教師の側の本音(あくまで経験による私見)について述べる。

ここへの基本的な取り組み方は、夏休みの宿題と同じなのだが、一つ大きな違いがある。
それは、この課題が、新しい内容なのに対して、直接指導をほぼ全くしていないという点である。

つまりは、基本的に、多くの子どもにとって、自力ではできないものが多いという前提である。
自力でもできそうなものといえば、漢字練習のような、学習の仕方自体も既にわかっている適用課題ぐらいである。
(つまり、一年生には厳しい。学習方法含めて、全てが未習である。)
過去の既習の計算問題ならできるかもしれないが、新しいものはできないかもしれない。

いや、それすらも厳しいと実は思っている。
その理論が通るなら、日々の漢字や計算ドリルの宿題忘れもほとんどないし、漢字テストでも100点ばかりのはずである。
(ちなみに私は通常、今回のように一律にドリル宿題を課すようなことはしない。個人差が大きいと考えているためである。)

出す側も、そういうつもりで出している。
直接教えても、なかなかできないのである。
それなのに「やりましょう」と言われるだけでやれるなら、苦労ないと思っている。
むしろ、それでできるなら、自分たちの存在価値は何なのだろうということになる。

こんなことを言うのも何だが、全員がばっちりできなくても仕方ないと思っている。
こちらには、直接指導できていないという大きな負い目がある。
ただ、教師という立場で勤務しているのに何もしない訳にはいかないという状況での、苦渋の選択である。
何もしないでいれば、それはそれで不満を持たれる訳だから、立場上課題ぐらい提示しないといけないのである。
(その点、夏休みは子どもにとって正真正銘の「休み」であり、本来何も出さないでもいいので、気楽である。)

お互い、そういう苦しい中での課題なのだ、ということを前提としてもつ。

もちろん、当たり前だが、きちんとやっている方がいいのである。
それができる子どもは、間違いなく真面目だし、素晴らしいことである。
そういう子どもも、一定数いる。

しかし、みんなそうできるなんて思っている能天気な教師など、基本的に存在しない。
初任者でない限り、子どもの家庭学習の取り組みの様相に天地の差があることは、誰でも知っていることである。

家庭の協力なしに夏休みの大量の課題をこなせないことなどは、教師ならずとも誰もが知っている真実である。
みっちりつける家庭(これはこれで場合によっては不幸だが)はまだしも、そうでない家庭では、自力の課題解決は厳しい。
保護者も日々の生活がかかっており、忙しいのである。

課題を出した側も、そこは知っている。
できない子どもがきっと相当数いるだろうと。

つまりは、本音を言うと「堂々と出さない」ということをせずに、姿勢だけ見せて欲しいのである。
全くやる気がありません、という姿勢にOKを出すわけにはいかない。
しかしながら、やる気がなかった訳ではないけれど、諸事情で色々とやれてません、というのは、情状酌量の余地が相当ある。
結局、それは「わかるよ・・・」という、人情の世界である。

あまりはっきりは書けないが、そういうことである。
本音の本音をいえば、学校に来て一緒に学び合えることさえできれば、もう100点満点御の字なのである。
勉強はもちろん大切だが、人と人とが集まって一緒に何かする、ということ自体の方が、よほど大切なのである。

ちなみに私の担当した国語は、オンライン授業以外で課題として出したのはほぼ漢字のみである。
その評価も、再開後の小テストで書けるかどうかだけである。
できなかったら、その後何度もやるまとめの復習テストもあるし、その内にできるように努力すればいい話である。
家の中だけで全員できるようになるだろう、などという楽観的な考えはない。
(更に言うと、本来、新出漢字は該当学年の字が読めて、前学年までの字が書ければいいのである。
「その学年の新出漢字が書ける」を求めるのは、あくまで先取りである。)

通常、もっと難しい課題がたくさん出ただろう。
家庭の姿勢としては「指導もされてないのにうちでこんなにできない」ということは、言ってもよいと思う。
正直、色んなところで、無茶な課題も散見される。

課題を提示した以上、出すようには言うが、出している側にも負い目があるのだから、お互いあまりうるさく言わないことが吉である。

子どもたちも、自分が課題をできなかったからといって、絶望する必要はない。
そんなことに落ち込むよりも、きちんと登校して
「まだできていません。わからなかったので教えてください。」
と言えばいい話である。
本当に必須のものであれば、全体の場でもきっと復習するし、そうでないものなら、色々と配慮してくれるはずである。

課題に苦しんで学校が嫌になったら、本末転倒なのである。
心身ともに健康で登校することが、最優先事項である。

同じような場面には人生の中できっと何度も遭遇するから、これも人生勉強である。
とりあえず、一つでも多くやれそうなものをやって「姿勢」は見せるようにして、あとは元気に登校して欲しいと願う次第である。

2020年6月4日木曜日

休校中の課題に親はどう向き合うか

全国各地で親と子どもの悲痛な叫びが聞こえる、休校期間の課題への対応について。

全国に、休校中の課題の山の前に立ち尽くしている子どもがたくさんいる。
夏休みを思い浮かべれば、容易に想像がつく話である。

理屈の上では、あくまで休校期間であって、夏休みとは違う。
しかし、子どもの意識の上では「先延ばし」の対象として同一である。
家にいて、自由裁量権があって、計画的に課題に取り組んでいくという点は、全く同じである。

ただ、必要なのは、そこができる子どもがどれぐらいいるのかという視点である。
多くの子どもが通信教材を続けられないという実情を見ると、この「自律」はなかなかに難しいようである。

そこで問題となるのが、親の対応。

文科省のH.P.↓には、次のように書かれている。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/attach/1298449.htm

=================
教育基本法(平成18年法律第120号)
(家庭教育)
第10条 父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は,家庭教育の自主性を尊重しつつ,保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
==================
要は、ここに沿って学校も課題を出しているということである。

一方保護者は「子の教育について第一義的責任を有する」と書かれている。
これはプレッシャーである。
どうすべきか。

一つだけ言えるとしたら
「責任がある」ということと「子どもの課題」ということは、別問題ということである。

学校の宿題は、あくまで、子どもにとっての「人生の課題」なのである。
親の人生の課題ではない。
それをあたかも親にとっての課題であるかのように捉えて、あれこれ手出し口出しすべきものではない。
それは、成長の機会を奪っているといえる。
先の教育基本法にも書かれているように、生活習慣云々も本質は「自立心の育成」と「心身の調和のとれた発達」なのである。

適切な寝食の世話をし、温かい愛情で見守ってきたのであれば、100点満点である。
まして小学校高学年以降であれば、宿題は誰がやるべきかなんて、自分でわかっていることである。
やっていなければ、学校で気まずい思いをしたり、学習に遅れて困ったりするのは自分である。

我が子の、そのみじめな姿を想像するに耐えられないのである。
我が子可愛さゆえに、色々と手出し口出しをしてしまう。

しかしここに学級担任を20年近くやってきて断言できることがある。
親に勉強をやらされてやっているような子どもは、決して伸びることはない。
本人が勉強にやる気が起きないなら、そこから本人が自分で道を探るべきである。

致命傷にならないぎりぎりいっぱいのところで、失敗の体験をさせることである。
そうしないと、子ども自身が学ばない。

これは作家の中谷彰宏氏の本にあった言葉だが、
失敗した
→これはつまりどういうことなんだろう、と自分なりに仮説を立てて、次のトライをする。

これが大切なのである。
子どもが失敗経験から自分で仮説を立ててトライするチャンスを奪ってはいけない。
失敗は、成功のための種である。
種に水やりをしようというところで、直接食料を与えてはいけないのである。

一方で、大人が助けてあげるべき子どももいる。
生活自体で弱っている子どもである。
肉体的・精神的に追い込まれている子どもである。
そういう意味で、「がんばれない」子どもたちである。

そうではなく、健全に「サボって」いた子どもであれば、見守ることである。
そういう子どもたちは、なかなかに逞しいのである。
生命力さえあれば、何とかする。多分。

この「何とかなるだろう」というのは、信頼感である。
子どもを信頼する。
響きは素敵だが、信頼する側にとっては、なかなかに「いばらの道」である。
その痛みに、親が耐えられるかどうかが、子どもの成長を左右する分岐点である。

全国の元気な小学生諸君。
自分の人生のこと。
親の頭に頼らず、自分の頭で何とかしなさい。
ここをどうクリアするか自体が休校中の課題の本質であり、大きな勝負どころ。
人生の課題の解決には、色んな方法がある。

正面から突っ込むだけが解決方法ではない。色々な角度から解決方法を考えるべし。
算数の問題を解いているのは、算数のテストで点数をとるためではない。
こういう人生の問題を解く練習をしているのである。

大人は、子どもの成長の機会、チャンスとして見守りたいところである。

2020年6月2日火曜日

学校の課題をどう出すべきか考える

この時期、学校に通えないことで、子どもにも教員にも、考える時間がたっぷりある。

と言えるはずだったが、実態はそうでもない。

子どもが学校に通えないということで、塾などではいつも以上に多くの課題を用意し、力を入れている。
ここに加えて、学校の方からも、この休校期間に学力の保障をしないといけないという使命感から、たくさんの課題が出される。
よって、子どもによっては、大量の課題の板挟みである。

この問題は悩ましい。
学校が何かしてくれないと、子どもがだれてしょうがないという声が上がり、課題や対応を求められる地域がある。
一方、元々通信教育や塾通いの子どもが多い地域では、学校からあまり課題を出されると困るという声が上がる。

この見方はあくまでざっくりとしたもので、実際はこの両方の声が混在しているところに学校は対応することになる。
それで、基準をどちらに置くかというと、当然「学校以外に学習機会がない」という想定の方である。
教育の機会の平等が前提の、公教育の場なのだから、当然といえば当然である。
結果、どうしても先の板挟み状態の子どもが出ることになる。

「夏休みの宿題」であれば、こんなに無理に出す必要はない。
学校としての学習を進める時期ではないため、学校側が出さないといえばそれで終わりである。
今の状態と違って、夏休みは子どもにとって公に「休み」である。

今は違う。
休校期間ではあるが、学習自体は進めなければならない。(本当に「ねばならない」のかという議論は、一旦脇に置いておく。)
しかし、教えることはできないし、課題を出すしか進める方法がない。
ここに無理が生じている。

やることがやたらに多い群がいる一方で、課題がわからない&やる気が出ないで、やろうにもやれない群がある。
わからない場合、教えてもらえないし、やらなくても特に指導されないという状態では、どうにもしようがない。

こう考えると、子どもの現状は大まかに4つである。

A 学習が進んでいるが、やるべきことが多すぎてこなしきれない
B 学習が進んでいて、量もちょうどよい
C 学習が進んでいないが、やるべきことは多い
D 学習が進んでおらず、やることもない 

Aは忙しすぎて心身の健康面が心配で、Dは放置状態で逆に心配である。
Cはやれば進むという状態なので、本人次第である。
Bの状態は理想である。

Bを目指すには、まず各家庭の現状把握である。
次に、状況に応じて選択的にできる課題の提示。
そして学校側は、その課題を出した以上、子どもの学習に関する質問を受けられる体制が最低限必要である。
(課題をやったかどうかの確認ができないのは悩ましい問題である。)

普段一律に同じ課題を与えて進めることができるのは、学校に子どもたちが集まるからである。
現状では、一律の分量の課題は難しい。(以前にも書いたが、夏休みの課題への取り組みと同じである。)
家庭が学習の中心である以上、学習の個別化を前提に考えるべきである。

オンラインでの指導ができれば、多くの部分がクリアできる面もある。
しかし、全国の公立で現状はそうなっていない。

そうであるならば、課題は基本的に、自己採点ができるもの、自力でできるものに限定する必要がある。
また、分量も能力に応じて個別に選択できることへの配慮も必要である。

この考え方は、実は平常時の宿題と同じである。
一律の分量の宿題というのは、大抵、ある子どもにとっては無意味だし、ある子どもにとっては無理である。
同じ宿題なのに「1分で終わった」と「2時間かかった」が混在しているのが通常の学級の姿である。
これを機に、普段から無理な宿題の出し方をしているかもしれないと、思いを馳せることが大切である。

何にせよ、課題を出したからには、出した側には責任が伴う。
ルールの設定の話と同じである。
無理なく、意義のある課題を出すように心がけたい。
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