2019年9月29日日曜日

教育虐待の根本は、大人のコンプレックス

次の本を読んだ。

『ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち』
おおたとしまさ著 ディスカヴァー携書

本のタイトルからして強烈である。
著者は、家庭教育や受験に興味のある親であれば、聞いたことがある人も多いかもしれない。
現場の教員には絶対に書けない刺激的なタイトルである。

ちなみに帯には次の言葉が書いてある。
================
「あなたのため」は呪いの言葉

何が「過度に教育熱心な親」を駆り立てるのか?
================

刺激的である。

さて、内容だが、タイトルの刺激以上に、実に丁寧なルポルタージュである。
教育虐待を受けた子どもだけでなく、その兄弟や親までを公正な視点で追っている。
また「子育てベストセラー本」や一般的に良いとされている教育手法への疑問も呈しており、一読の価値がある。

全体を通しての自分なりの気付きがあった。
それは

大人のコンプレックスが全ての虐待を生む

ということである。

大人の側にある種の見栄があるとする。
よく見られたい。
他人より優位に立ちたい。

そのための自己実現の道具として、子どもが利用される。
それが、教育虐待の始まりである。

「しつけ」と称する暴力行為もこれに当てはまる。
自分の思い通りに相手を変えたいから、暴力をふるう。
あるいは、周りから自分のしつけが悪いからと思われるのが嫌だから、子どもに暴力をふるったり圧力をかける。
特に専業主婦の場合、夫がうるさい、姑がうるさい等、周囲の雑音が大きいほど、こうなりやすい傾向があるらしい。

すべて、根本は大人の見栄とコンプレックスである。

私は基本的に、教育に関心が高い親の方がよいと思っている。
子どもを「授かりもの」として、ある種「自分とは別の個人」として捉え、本当の意味で「子どものため」を考えているなら素晴らしい。
しかし、この関心の高さが、見栄や私心によるものだと、激しくマイナスである。
かけ算でマイナスをかけると、絶対値が大きい分だけマイナスが大きくなるということと同じである。
それなら、関心が低い方がマシである。
(これはそのまま、教員にも当てはまる。)

自分は、毒親、毒教師になっていないか。
自分のやってきたことにある程度の自信がある人ほど、一読をおすすめしたい本である。

2019年9月28日土曜日

教育における「ハウツー」は通用するか

「こうすればこうなる」というのが「ハウツー」である。
ハウツーは、技術の伝達手段として、あるいは適正な作業手順としてとても大切なことである。

ところで、ハウツーは、子どもへの教育に適用できるのか。

これは「時々、まれに、当てはまることがなくもない」という程度である。
「似たタイプ」であれば、多少当てはまることもある。
タイプとは、類型化である。

例えば血液型性格診断は、4分類の類型化である。
大まかなので、当てはまるかもということも結構ある。
しかし、A型だから必ずこう、ということはないというのは、これが好きな人にも自明のことである。

教育書や育児本などの教育ハウツー系は、その程度の確率で考えた方がよい。
似た傾向があっても、目の前の子どもが他と全く一緒ということはない。
違う人間なのだから当然である。

兄弟は違う性格に育つ。
同じ親が育てているのにも関わらずである。
「学校教育の影響だ」という外的要因だけではない。
よく泣くとか、ほとんど泣かないとか、0歳の時点で全く違う。

つまり、例え兄弟であっても、生まれてもってくる「種」が違うと考える。
当たり前だが、ランと松の木では育て方が全く違う。
胡蝶蘭は高く売れていい、マスクメロンの果実ができたらいいと思うのが、成果主義、経済中心の考え方である。

実際の社会において、花や果物が胡蝶蘭とマスクメロンばかりでは困る。
(というより、その状況では市場原理により、価格は急落する。)

多種多様、色々な子どもがいるからいいのである。
均質ほどつまらないことはない。
ハウツーで何でもうまくいけるほど、つまらないことはない。

競争社会で勝つ人間を育てたいのかもしれない。
しかし少なくとも、公教育で目指すのはそこではない。

公教育で育てるのが社会に健全に生きる人間である以上、競争ではなく、協奏、協働できる人間のはずである。
協奏、協働とは、個性をおさえて周りに合わせることではない。
独自の個性を発揮して、他と調和することである。

ハウツーで均質に一つの価値観に沿った人間を育てようとするのは、もはや無理がある。
(戦争における「駒」としての兵には、これが最も必要かもしれない。
「上の命令に従う」という価値観への均質が求められる。)

多種多様な個性の育成。
これからのダイバーシティの社会において求められる教育は、従来のそれとは真逆なのかもしれない。

2019年9月27日金曜日

学校の常識を見直す

学校の常識への疑いについて。

諸外国の学校では、道徳の授業がない。
宗教があるので、そこが担保しているといえる。
日本の学校でも、ミッション系の学校などでは、神様について学ぶ時間があるという。

常識というのは、宗教が担保する部分が大きい。
各宗教の中で、例えば「愛」「隣人に優しくすること」「生かされていることへの感謝」「労働への感謝」などが教えられる。
道徳の内容はほぼ全て網羅される。(しかし、全ての国でその道徳的な行為をする国民が育っているかは別問題である。)

一方で宗教というのは、為政者にとって都合のいいように捻じ曲げられて利用されている部分もある。
「その地位に生まれたら、そこに感謝して労働をして生きるのが正しい」
「貧しくてもいい」という信念は、為政者にとって大変都合がいい。
反乱を防げるからである。
一部の権力者が利益を貪ることにもつながる。

これらの考えを踏まえて、学校の常識に戻る。

学校の常識を規定しているのは何か。
例えば中学や高校の校則などは、誰かにとって都合がいいようにできている。
校則のない小学校でも「常識」「当たり前」「いつもそう」が、誰かにとって都合のいいようにできている。

誰にとってなのか。
学校の存在価値は、子どもにある。
つまりは、児童・生徒にとって都合がいいようにできているはずである。

・・・そうかな?という疑問の声が子どもたちから当然上がる。

子どもにとって都合のいい常識、というのもない訳ではない。
「全ての教育活動において、子どもの安全に配慮するべき」というのは、望ましい常識である。
一昔前は、ここがないがしろにされていた感も否めない。
部活動においても、死ぬほどきつい訓練が「常識的」に行われていた時代もあったし、体罰が当然という時代もあった。

これらの常識は、時代の流れに沿って、望ましい形で変わっていったものといえる。
つまり「常識は変化する」ということが常識にとっての一つの命題である。

一方で、変化していない常識もある。
学校には、この方が多い。

昭和(あるいは明治・大正)の頃から未だに変わらない、という類のものは、全てこの「変化していない常識」である。
常識というのは、誰かしらに都合がいいから定着した訳である。
あるいは、不易のものとして本当に価値があるから定着していることもある。

一体、その常識やルールは、誰にとって都合がいいのか。
子どもにとってのものであれば、それは問題ない。
しかしもしそれが、大人にとっての都合、大人にとっての安心感のためであれば、それは見直すべき常識やルールである。

2019年9月25日水曜日

子どもファッションの記号を読み解く

髪染め問題に関連して、ファッションの読み解き方や対応について。

持論だが、ファッションは、記号である。
つまり、「自分はこういう人間だ」「こう扱かって欲しい、見て欲しい」という外的アピールである。

「ファッションに無頓着」というのも一つのファッションである。
つまり「外見に判断を左右されない人間だ」というアピールになる。

スーツや制服も記号である。
「社会的安定」を表す。
スーツや制服を着崩すというのは、社会的安定へのアンチというメッセージになる。
(単に着方やマナーを知らないというのは別問題である。)

染めた金髪も記号である。
周りがそうでないからこそ、反社会的メッセージになる。
「周りの普通とは違う」というアピールになる。
みんな金髪が普通の文化の中では、そのアピールができない。

また、マンガやドラマのキャラクターやアイドルに憧れて染めたい、そういう髪型にしたいということもある。

いずれの場合にせよ、発したいメッセージと、受け取る側のメッセージに齟齬が生まれる可能性がある。

例を挙げる。
「木更津」というとどういうイメージがあるだろうか。(全く知らない人もいるかもしれない。)
元々は、「証城寺の狸」のイメージであり、現に木更津市内にあるマンホールの蓋はどれも証城寺の狸と歌詞の絵柄である。

しかし某映画で有名になったお蔭で、それよりも「ヤンキー」のイメージが強くなったように思う。
だから、木更津では、アイドルも含め、チラシやポスターでも割とヤンキーファッションが多い。
昭和の暴走族の「夜露死苦」なイメージである。
しかし、外国人の考える日本人のちょんまげ問題と同じで、木更津の一般人には、そんな恰好をした人はもちろんいない。

これは一つの「木更津的」という記号であり、文化である。
木更津の一般人的には完全に誤解なのだが、「ヤンキー」は木更津(あるいは横浜)を示す記号である。
(お陰で、一部の人々の中で「木更津は家庭が荒れてるらしい」という誤解があることが判明。もはや完全にネタである。)

だから、ヤンキーファッションをすれば、それだけで「木更津っぽい!」ということをアピールできる。
(木更津の狸のご当地キャラを一度リーゼントにさせたいと思っている木更津市民は、私だけではないはずである。)
つまり木更津市内で荒れてる風を目指してヤンキーっぽい感じにすると、ネタっぽくなってしまい、本当に荒れてるアピールはしにくい。

何が言いたいかというと、教師は子どものファッションを「記号として受け止める」という姿勢で読み解く必要がある、ということである。
例えば高学年女子相手であれば、その奇抜さは「おしゃれに見せたい」のか、「荒れてる」アピールなのか。
読み解き方で、対応が変わる。

割とよくあるのが、夏でも長袖や厚着、フードを被る、マスクを取れないといったパターン。
内に籠っている。(日光に当たってはいけないという理由等のこともあり、その場合は別。)
外と関わりたくない、あるいは身体を見せたくないという思いがあり、そのアピールである。
無理に外させると、心理的に不安定になる。
理解して見守る姿勢が必要かもしれない。

余談だが、海外では外でマスクをしていると、怪しい人と警戒されるそうである。
マスク常用は、旅館の浴衣で出歩くのと同様、日本国内でのみ通用する「常識」である。

閑話休題。

つまりは、ファッションという記号から、感じるままではなく、正しく相手の思いを読み解くということである。
特に低学年であれば、親の思いや方針も読み取れる。
いわゆるきちんとした恰好をさせているようなら、そういう風に育って欲しい、見て欲しいという願いになる。

何日も同じ服を着ている場合はどうか。
この場合の読み解きには、全く異なるパターンがある。

一つは、こだわり傾向の可能性。
自閉症スペクトラムの特徴の一つで、子どもが他の服を嫌がってそれしか着ないのである。
(あるいは単に幼児性がまだ強く、こだわっていることもある。)
親は苦労して毎日洗濯&乾燥をしている、あるいは2着以上同じものを用意している。
学校生活でも、そういう傾向がある可能性を考えて接する必要がある。

もう一つは、ネグレクトの可能性。
着るものをまともに与えられていない。
この場合、大抵は洗濯していないので、臭いが判断基準の一つとなる。
虐待の可能性を含めた丁寧な対応が必要である。

ちなみにここと関連して、公立小学校でも制服という場合があるが、これはいじめから守るための手段ということもある。
制服であれば、家庭の経済格差が表に出ない。
お坊ちゃん、お嬢様風にするためではなく、「配慮の制服」である。
制服というもののもつ、一つのプラス効果である。

ファッションは記号。
これは当然、教師の側にも当てはまる。
自分がどんな風に見られたいと思っているのか、あるいはどんな風に見られているか。
改めて観察してみると、新たな発見があるかもしれない。

2019年9月23日月曜日

本当は、きちんとしたい方なんだ。

災害復興支援ボランティア活動での学び。

千葉県各地は台風で大きな被害を受けた。
県内各地でボランティアセンターが立ち上がったので、私も参加させていただいた。

センターにはボランティアとしての心得が書かれており、冒頭に
「ボランティアは、させていただくという精神でのぞみましょう」
というように書いてあった。

この考え方が常識になってきたということである。
そして、参加させていただく度に、この言葉は本当だと実感する。
以下は、そこに関するエピソードである。

例のごとく、私が一緒にいるのは、南相馬へ定期的に活動を続けている「被災地に学ぶ会」のチームの面々である。
チームには見るからに職人の方もいるし、私以外は明らかに「慣れている感じ」の雰囲気の方々である。
そういうチームには、優先的に大変そうなところを回していただける。

今回の災害で多い依頼は「屋根が吹き飛んだから助けて欲しい」というパターンだったようである。
ニュースで流れている通り、ブルーシートを張るような作業である。

私たちの向かった先の家屋は、屋根の一部がなかったのではなかった。
屋根はおろか、二階部分の一部屋が、完全に「青空」である。
屋根の補修ではなく、雨風でめちゃくちゃになったものや、できればそれ以外のものも全て廃棄して欲しいという依頼である。

そして、一人暮らしの高齢者の男性宅である。
それも、奥様を亡くして久しいようである。
家の中がどうなるか。
想像がつくと思う。
(テレビでよく流れるあの状態である。あれは、やらせではなく、現実である。)

正直、私の中では「これは台風どうこう以前の問題では・・・」という思いがあった。
しかし、私のその浅はかな考えを叩き潰すような言葉を、60手前となるチーム最ベテランの方が仰った。

一階の、恐らくご主人の部屋であろう場所に、たくさんの古びたスーツがあった。
それを見て、次のように呟いた。
「きっと、この方は、本当はきちんとした方なんだ。
だけど、きちんとしたくても、きちんとできない状況だったんだよ。
だから、辛いんだよ。」

二階のものは全てめちゃくちゃだったので片っ端から捨てたが、かろうじて、タンスだけは無事だった。
タンスを開けると、中には、女性の洋服がきれいに整頓されて、ハンガーにかかって並んでいた。
まるで、昨日まで誰かが使っていたかのように、その中だけ、時が止まっているかのようだった。

見て一瞬の後、タンスの扉をそっと閉めた。
「ここだけは、中身も大丈夫みたいだから、手をつけないでおきましょう。」
ということで、タンスだけはそのまま残した。

チームの仲間の方のお陰で、自分の考えの浅さ、思慮のなさに気付けた。
人のことなど、本当は何もわからない。
自分の教えている子どもや保護者のことも、わかっているようで、わかっていないのである。
きっと、そのことを教えていただくために、この日は、このお宅に呼ばれたのかもしれない。

人間というのは、複雑である。
師の野口芳宏先生から教わった言葉に
「人間は、無限多面体である」
というものがある。
今回の件は、その意味を改めて考えさせていただける機会であった。

今回も、ボランティアに参加したのは、完全に自分のためである。
「人を助けてあげよう」等という優しい思いからではない。
自分の存在が何か一寸でも役立てられそうなら、自分のために自分を使いたいという思いだけである。

結局、願い通り、そういう結果になった。
自分のためになった訳である。
自分の他人への見方に、大きな誤り、偏りがあることに気付けた。

「誰かの何かをダメだと思ったら、自分の中に何かダメな部分がある」
ということである。
自分の目に、心に、映る全ては、鏡である。

その日の夜は、予報通り大雨が降った。
全国各地から集まってくださった方々の活動が、少しでも誰かの助けになれていたら、いい。
きっと、活動した方々の方の心も救われたと思う。
それだけでも、その日に日本が、世界が少し良くなったのではないかと思う。

2019年9月21日土曜日

「悪い子」は存在するか

「どうせ俺が悪いんだろ」

何か子ども同士でトラブルがあって事情をきく時に、よく口にする言葉である。
このセリフを口にする時は、目つきもいつもと全く違う。
(大人でも結構あるかもしれない。)

ここまではっきり言ってくれる子どもならわかりやすい。
自分のことをどう思っているのか。

認識としては間違いなく
「みんな自分のことを嫌っている」
「周りは敵」
である。

何が子どもをそうさせたのか。

これは、明らかに、周りの大人である。

子どもが子ども同士で良い悪いとジャッジするということはない。
もっているのは、周囲の大人に与えられた物差しである。

教師にいつも叱られている子どもがいる。
あるいは、教師がいつも指導に困っている子どもがいる。

周りの子どもはそれを見ている。
そして判断する。
「あの子は、先生とみんなを困らせる悪い子。」

本人も判断する。
「自分は悪い子なんだ。」

これが全ての不幸の根源である。

これが、家庭でもなされていることがある。
「○○君は悪い子だから、遊んだらダメよ」

私が子どもの頃から、世間一般でよく言われていたセリフである。
これは、残念ながら今でも変わらないようである。

先生と親に「悪い子」と認定をされた子ども。
「悪い子」確定である。

誰が悪い子をつくったのか。
繰り返すが、周りの大人である。
本当の意味で「悪い子」というのは、本来存在しない。
大人が子どもたちに信じ込ませ、作り上げた存在である。

「私はそんなことをしていない」
と真面目な教師ほど思う。
しかし実は、真面目な教師ほど、これをしてしまっている可能性が高い。
そういうことを一切したことがない教師というのは、地球上に恐らく存在しないのではないかとすら思う。

真面目な教師ほど、問題行動を流さない。
つまり、問題行動を子どもの前で取り上げて指導する場面が多くなる。
もちろん、必要なことであり、善意であるのだが、必然、特定の子どもを叱る場面が増える。

これで子どもが「悪い子」と認識しない方が難しい。
私自身を振り返ってみても、子どもにそういった「誤学習」を数えきれないほどさせてきたと思う。

悪い子を作ったのは、間違いなく、私である。
「悪い子」の認識から脱する手助けをできた子どももいたかもしれないが、多分その方がずっと少数である。

本来「悪い子」は存在しない。
一方で、望ましくない行動は存在する。
何かというと、「侵害行為」である。
いじめも侵害行為の中の一つである。

いじめは、された側が嫌だと思えば成立する。
した方の認識は無関係である。

ここがポイントで「悪い子」にされてしまう子どもは、ここが上手くできない。
決して意地悪ではないのに、相手が嫌がっていることが、さっぱりわからないのである。
双方不幸である。

ここを救えるのが、大人である。
「悪気がないのはわかっている」と認めた上で
「それは相手にとっては嫌なんですよ」と教えてあげることが仕事である。
教諭は、教え諭すのが仕事である。

これは、手間がかかる。
まどろっこしい。
忙しいと、すっとばしたくなる。

だから、一気に叱るという誤った行為になってしまう。
ここが悲劇の始まりである。

そうすれば、「悪い子」認識は本人も周囲も一気に進む。
繰り返せば、それは「信念」になり「常識」になる。
容易に崩すことができなくなる。

教師に、悪気はない。
ただ、自分の担任している子どもたちを守り、助けたいのである。
しかし、クラスの中のたった一人を「犠牲」にしてしまったら、全員にとってマイナスの教育なのである。
「異質の排除」を教えることになる。

もしも「悪い子」が存在するとしたら、それは大人の責任である。
その子どもが悪い、直させようと思っている限り、変わらないかもしれない。

すべては私の責任です。
すべての大人がそう思うことで、子どもは変わる面があるのではないかと思う。

2019年9月17日火曜日

「ルールに反していなければいい」は主体性の真逆

前号に続き、「金髪に染めてはいけない」問題についての考察。

「ルールに反していないから、いいのだ」という考えは、主体的な生き方の真逆である。
それはつまり、何を判断するにも「ルールだから」ということである。
無条件にルールに従うことが、最も頭を使わない。

大抵の公立小学校には、明確な校則はない。
あるのは、注意事項や慣例、マナーだけである。
(一部、校則やルールブックがある小学校も存在する。)

「ルールだからそうする」というのは、「ルールに反してないことならしていい」となる。
しかし、ルールと付き合っていく態度として、これは間違っている。

本来、ルールというのは、それを設定しないと不自由や不都合、生きづらさが出るために作られている。
人々が主体的に気持ちよく動けるために存在するものである。

ちなみに、ゲームというのはルールが必須要素である。
ルールのないゲームは、ゲーム足り得ない。

サッカーを例に考えてみる。

「キーパー以外手を使わない」というのは、ゲームの面白さを保証するための基本ルールである。
手で運んだら、違うスポーツになってしまう。

「相手をつかんで引っ張ってはいけない」というのも当然のルールである。
球技で相手を直接つかんで押さえていいのは、ラグビーやアメフトぐらいである。
しかし、それを裏でやっている選手もいる。
ボールから離れたところ、審判の見えないところでやるので、ファウルを取られないのである。
(ひどい人だと、肘で腹や胸を殴打してくる。そういったプレーを公然と指導する監督もいる。)

これをどう考えるか。

「審判に見られていないからファウルではない。正当だ。」と考えるか。
「スポーツマンシップに反する。不当だ。」と考えるか。

オリンピックのような国際試合の場合、単なるスポーツというより、国益に関わることもある。
必死になって、そういうプレーをする選手もいるのかもしれない。指示されるのかもしれない。
ここでは、学校教育の場で考える。

「ルール違反でもファウルを取られないからいい」というのは、そもそもルールから外れている。
これは、明らかに不正である。
学校教育として考えた場合、議論の余地はなく、否定すべきものである。

では、次のような場合を考える。

サッカーにおいて、わざと一度外にボールを出して、相手チームがボールを返すことがある。
どういう場合かというと、ファウルは取られなかったが、誰か選手がケガをして倒れているので試合を一時止めるべき、という時である。

ケガをしている人が心配なので、ボールを出した。
ボールを出されたチームの側は、「ありがとう」という気持ちでボールをスローインで投げ返す。
会場からは拍手が起こる。

当たり前だが、こういう「ルール」はない。
ルールはないが、これがスポーツマンシップに則ったマナーによる行動であり、常識である。
(常識とは本来、その集団内においてそもそも説明しないでもなぜそうするのかわかる、自明のことである。)
先の「見えない場所で引っ張る」の真逆である。

学校教育で育てたいのは、どちらの人間か。
ルールに反してなければ、罰せられなければ何をしてもいいと考える人間か。
人々が気持ちよく生きるために、どうすべきか自ら考え、選択し行動する人間か。

答えは明白である。

つまりは、「ルールに反してなければいい」は、主体性の真逆である。

次号も、「金髪問題」について考える。

2019年9月15日日曜日

「金髪に染めてはいけない」をどう考えるか

夏休み中、採用試験対策として、一部の学生の相談を受けた。

その中で「金髪に染めた子の親から、頭髪も個人の自由ではないのか」と問われたらどうするか、というのがあった。
これはなかなか面白い。
採用試験の答えとしては、最終的にきちんと親に理解してもらい、金髪をやめてもらうという方向になるだろう。
当然である。
そのまま認めてしまうといった無対応や、無理矢理染めさせるというような体罰的回答では落選確定である。

しかし、本当の現場を想定すると、ここはなかなか考えるべきところである。
根本的なところまで深堀りして考えてみる。

金髪自体が悪。
この説は当然成り立たない。
世の中から相当な批判を食らうことになる。
人体の特定の色が正しいとか正しくないとかいうことは、人種差別問題でもある。

次に出るのが
「それが遺伝による自然な色ならいい」という考え。
つまり、不自然だからダメということである。
見るからに「金髪の人種」の人であれば問題ないということである。

この説で問題になるのが、生来色素が薄い子どもたちである。
髪の毛の生来の色が、かなり明るい茶色なのである。
しかし顔は日本人。
「染めた」「染めてない」で揉めることになる。
これは主に中学での「黒染め強要事件」として枚挙に暇がない。

ちなみにこの考えに沿うと、白髪染めは悪、かつらも植毛も悪、パーマもカットも悪である。
「ファッション」「装飾」という概念自体への否定である。

それを出すと、ここに続けて出るのが
「大人はいいが、子どもはダメ」という考え。
これはよく例に出す、中学校の「一年生は白い靴下ワンポイント以外ダメ」みたいな謎ルールの仲間でもある。

この説が最も広い支持を得ている。
この説には、理屈があるだけで、明確な理由はない。
「頭皮への影響」「学校にそぐわない」等の理由付けはできるが、どれも今一つ歯切れが悪い。

なぜかというと、かなりの部分が大人にも当てはまってしまうからである。

ちなみにここまで書いておいて、私も多分実際には、髪色を戻す方向に家庭を促す。
なぜかというと、日本の学校社会において多くの人の支持を得ているのが、先の「大人はよくても子どもはダメ」説だからである。
これは「きちんとした接客業では金髪はダメ」というのと同じで「不快に思う人が多いから」である。

特に、中年から高齢者の層には嫌悪感が根強い。
そういう常識の中で生きてきたのだから、当然である。
その集合無意識を今更変えることなど到底できない。

国際社会としての常識はどうか。
頭髪を含めたファッションは「場に合うもの」というのがセオリーである。
場がオープンであるほど、自由度は増す。
フォーマルなパーティーにおいての服装と、ホームパーティーのファッションが違うのは当然である。
また様々な人種と文化が混じるオープンな国において、その自由度が増すのも当然である。

日本の学校社会というのは、オープンな場ではないということである。
かなり閉鎖的である。
よって、小学生段階で金髪に染めていて、後々に周囲に拒否されることは十分に予測可能なことである。
(子どもたち同士の間では特に抵抗がないかもしれない。)
だから、「指導」対象となる。

場の常識が変わらない限り、この流れは変わらない。
金髪でもピアスでもいいじゃないかというのは簡単だが、場の常識がそれを認めない。
もしここに異論があるなら、場の常識を変える必要がある。

学校の常識、日本社会の常識。
これを見つめ直すにおいても、この「金髪染め問題」は考えるべき題材である。

2019年9月14日土曜日

選書は「観」

夏休み中、気合いを入れてたくさん本を読んだ人もいるかと思う。
「どんな本を読んだらいいのか」という問いをよく頂くのでそこに答える。

結論から述べると、取捨選択。
取るために捨てることが大切である。

本を読むという行為は、心と頭という「無形のもの」への投資である。
投資ということは、資本として差し出すものがある。
何を差し出すか。
お金もそうだが、これは微々たるものである。
最たるものは、時間である。

どんな本からでも学べることはある。
これは間違いない。
一方で、これはあまり必要でない、つまらないと判断したら、それ以上読まずに捨てる(売る)という選択肢もある。
もっといいのは、買う前にその判断をすること。
ネット上でもいいのだが、ここに関しては本物の書店の方がよい。

時間という有限の資源を投資するのだから、よく選ぶ。
これが何よりも大切な最初のステップである。

ブログの特質上、教育に関する本に限定して述べる。

これは「観」が磨かれるものを選ぶ。
ここに尽きる。

これは「こうすると子どもをこう動かせる」という類のものとは対極である。
観を磨くとは、自分の心をどう動かすか、ということだからである。
子どもを含む他人というのは、物理的にも心理的にも支配すべき対象ではない。
まず統御すべきは、自分の心である。

子ども観が磨かれるもの。
教師観が磨かれるもの。
そして人間観や人生観が磨かれるもの。
これらを選ぶ。

教育書を読むのなら、その「観」が書かれているものを選ぶ。

例えば、「こういう時には○○と言えばうまく動く」と書いてあるとする。

これだけの本は、一時的には効果が出るが、長期的には役に立たないどころかマイナスである。
なぜそうするのか、どういう成長への願いがあるのかがわからないからである。
マズローの有名な言葉「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える」のような状態になる。
なまじっか上手くいってしまった経験が一度でもできると、その方法に固執して、問題の本質が見えなくなる。

そうではなくて、なぜそうするのかが書かれているものを選ぶ。
拙著からで気が引けるが、次の本を例に挙げる。
『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-140623-3
https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237

この本の中に
「高学年女子へは、同僚の女性に接するように」と書いてある。
その理由は、高学年女子が急激に大人へと変化している時期であり、甘えたいと同時に一人前に見られたい時期だからである。

「基本の接し方を、丁寧にすること」とも書いてある。
自分に対して、真剣に話を聞いて、丁寧に対応してくれる人に、悪意は抱きにくいものである。
人として「なめてる」のが良くない対応なのである。
高学年女子で苦労するポイントの肝がここなのである。
大切なのは、子どもとして尊重することに加えて、人としての尊重である。

基本の観がわかると、汎用性が出る。
先の例だと「なぜ丁寧に対応していくべきなのか」というのがわかると、他のあらゆる対応が変わる。
臨機応変が効くのは、観がしっかりしているからである。

読むのは、教育書でなくともよい。
観を磨くには文学作品も役立つ。
夏目漱石の「坊ちゃん」を読んで、自分はあの学校のどの教師に近いか、なぜそういう行動をとるのか感じるのも意味がある。

ハウツーではなく、じっくり観を磨く本を読む。
これだけが、自分の場合の選書のポイントである。

2019年9月11日水曜日

カメラを引く

夏休み、ペルセウス座流星群がよく見えた期間があった。
私は深夜に自宅のバルコニーに敷物を広げ、寝転がって観察した。
星空というのは、たまに眺めて見ると実にいいものである。

空を眺めていると、たまに「動く星」が見つかることがある。
流れ星ではない
そして明らかに飛行機でもない。
もちろんUFOでもない。
その正体は、人工衛星である。

この人工衛星の開発というのは、元をたどれば「ペンシルロケット」というものから始まる。
これの開発に尽力したのが、かのはやぶさが到達した小惑星「イトカワ」の糸川英夫博士である。
(参考URL:日本の宇宙開発の父 糸川英夫 生誕100周年記念サイト
http://www.isas.jaxa.jp/j/special/2012/prof.itokawa/

前号で紹介した、日本を代表する職人の方が、この糸川博士に大変可愛がってもらっていたという。
糸川博士から教えられた数多くのことの中で、最も印象的な言葉が「カメラを引け」だという。

カメラを引く。
自分の中のカメラを引く。
後頭部が見えて、自分のいる場所が見えて、日本が見えて、地球が見えてくる。
そうすると、未来を含めた様々なことも見えてくるという。
ご先祖様にまで意識が向くという。

これも宇宙の話である。
意識と宇宙というのは、つながっている。
ロケットが宇宙に届くようになり、人工衛星が宇宙を漂っているのは、意識のなせるわざである。

この「カメラを引く」という意識は、メタ認知にもつながる話でもある。
この意識一つでも、見え方が変わるかもしれない。

2019年9月9日月曜日

人を育てるのは心 

以前から、一流に触れるという大切さについて、何度か書いてきた。
この夏、とあるつながりで、日本を代表する一流の職人の方に直接お話を伺う機会を得た。
工房には見習い職人の方々がたくさんいて、我々訪問者に社訓をはじめ、様々なことを丁寧に教えてくださった。

見習い職人の方々は、中卒から大卒、社会人経験者まで年齢構成は実に様々である。
そして、年齢に関わらず先輩が後輩の面倒を見るのが当たり前のシステムで、かつ全員が親方に忠実である。

曰く「下を入れるのは上のため」とのこと。
下が入らないと、上が育たない。
そして下が育てば、やがてその人も上になる。
即ち、互恵の関係である。

修行に際しては当然一筋縄ではいかず、一つの技術を習得するのにも、気の遠くなるような長時間を要する。
これをネット上では「ブラック」と称されていたが、とんでもない。
単に時間の長短や業務内容等を見て「ブラック」とするのは浅はかである。
条件や表面的なことしか見ていない。

本人の意思を無視して、強制するから「ブラック」になるのである。
私なぞはその典型で、意味が感じられずに強制されることは、たかが5分の作業でも嫌で本当に苦痛である。
逆に、主体性をもってやれることなら、時間がどんなにかかっても全く関係ない。
この境目は「目的意識の有無」である。
極端な話、自分の夢のためなら無限に努力できるという人間は一定数存在する。(それを努力とすら感じない。)
これは、大人だけでなく、子どもにもいえる。

主体性をもって行っていることは「ブラック」になり得ない。
例えば寝食を忘れて研究に没頭している研究者を「ブラック労働者」と呼ぶことはない。
本人が本当に好きでやっているのである。
誰にも止めることはできない。

この親方のところへの修行は、初日から終始一貫して「心づくり」が中心である。
日誌も毎日書く。
その過程で、技術も格段に向上していく。

これを見て、東京教師塾の原田隆史先生の部活動指導と根幹が同じだと感じた。
ご存知、大谷翔平選手も学んで実践している手法である。

心づくりがまずある。
そのために書く。大量に書く。
自身を磨く時間は、誰に指示される訳でもなく、際限がない。
毎日素振りを何時間やっても、苦痛ではない。

そして周囲の人々やあらゆる事物への感謝を伝え続ける。
活動の先に「利他」の精神がある。
技術はそこに附随してついてくる。

面白かったのは、親方の言葉の一つ一つである。
単に文面にすると、これがかなりきつい。
多分、教育現場で使ったとしたら「子どもにそんなひどいことを!」というクレーム殺到は間違いない。
(なのでここにも書けない。)

これが、実は全くきつくないのである。
むしろ嬉しい。
なぜか。
「愛情」が感じられるからである。
一見きつい言葉の裏に、深い愛情が感じられるからである。
傍から見ていても、師弟の深い信頼関係が感じられた。

逆に言えば、どんなに良い言葉であっても、心が入っていないものは空虚であり、害悪である。
思ってもいないことを「お世辞」「おべんちゃら」などというが、その類である。
それで人が育つ訳がない。
本当に相手を思うならば、相手の成長のためになることを伝えるべきである。

本などにすると、伝えるのが難しいのがそこのニュアンスである。
文面だと、恐らくマイナス面として伝わってしまうためである。
話す言葉というのは温度があり、文面だとそこがフラットになってしまう。
それは、実際の授業や子どもの姿を見てもらう方が圧倒的に伝わる。

夢を語り、事実を示す。
感謝をし、他人様のお役に立つ。
教育の根本について考える機会をいただけた、有意義な学びの場だった。

2019年9月8日日曜日

「クラス第一主義」「我が子第一主義」を排す

広島の原爆記念日の式典における、広島市長の平和へのスピーチが心に響いた。
先の戦争のことだけでなく、現存する全ての諍い、争いの根本を指摘していたと感じたからである。

冒頭に「自国第一主義」が世界平和を脅かす要因であるという主旨を述べられていた。
全く同感で、これが学校や学年、学級といったあらゆる小さな集団にも適応される考え方である。
「クラス第一主義」、「我が子第一主義」の誤った考えのもたらす不幸の大きさは計り知れない。

自分だけが平和であればいいという考えは、根本的に間違いである。
例えるなら、自分のところだけが快適で、周りが火事という状態。
自分のところもやがて火事になることは明白である。

逆に、ほとんどが快適だけど、一部火事という状態。
これもやはり、やがて自分のところまで燃え広がることは明白である。
「自分の所属」という範囲を、どこまで広げられるかである。

先の平和宣言は、自分の所属を世界にまで広げていると考えられる。
宮沢賢治の言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の示すところである。

また、スピーチの中で引用されたガンジーの言葉も示唆に富む。
「不寛容は、暴力のひとつの形です。それでは真の民主的精神は、一向に育たない。」

これは「あいつさえいなければ」「変わっているから排除しよう」「絶対許さない」という誤った考えである。
この不寛容の精神は、いずれ自分にも適用される。
いつかは、巡り巡って自分が「排除対象」になるのである。
不寛容は、ガンジーの言う通り、紛れもない暴力のひとつの形である。
(過ちを許してもらえないのであれば、我々は誰もが許してもらえない存在である。)

これからの時代は、学校教育においても「異質の排除」から「多様性の歓迎」へのシフトが必要である。
これは子ども、教員、保護者、全てに共通して言える。
異質、多様性への不寛容な態度は、やがて自分の首を絞めることにつながる。
なぜなら、多様性の世の中において、「普通」が崩壊し、私もあなたも明らかに「異質」の一人となるからである。

天才は、100年先の普遍性を掴んでいるものである。
だからこそ、当時は変人扱いである。
時代が、当時のマザー・テレサやガンジーの考えに追いつける日が、もしかしたらやっと来るのかもしれない。

自国第一主義を排す。
自学級第一主義、我が子第一主義を排す。
それが、自学級も我が子も平和に幸せに生きる道につながるのではないかと思わされた、平和記念式典でのスピーチだった。

2019年9月7日土曜日

モチベーション特性とストレス特性

企業の方への研究協力ということで、面白い調査を受けさせてもらった。
「ビノレポ」といって、自分がどんなことにストレスを感じやすく、逆に耐性があるかといったことがわかる、アセスメントの一種である。
参考:ビノレポH.P.
https://www.bennorepo.jp/blank

現に早稲田大学のアメフト部等で活用されていて、成果を挙げているという。
他にもモチベーション特性やどんな資質に優れているかといった様々なことがわかる。
それを用いて自己理解をするだけでなく、チーム内で開示し、違いを知ることでチームワークの向上に貢献するというものである。

例えば私の調査結果から、モチベーション特性を見ると、
「自分がチームに貢献している」
「自由にやれる」
と感じられる時、最もやる気がアップする。

一方で
「決めてくれる人に従う」
「勝つことでほめられる」
といったことには、やる気が下がる傾向にあるらしい。

これを知るだけでも役立つ。
つまり、このような人に対する場合、一生懸命ほめても意味がない。
細かい指示もやる気ダウンにつながる。
逆に、多少丸投げであっても、任せることでやる気を出し、放っておけば勝手に自己満足してくれるタイプである。
(ある意味、手のかからない奴である。)

この真逆の特性の人もいる。
そのタイプの人には、真逆のアプローチが効く。
細かい指示を出して、一つ一つの成果に感謝を伝える。
丸投げしたり、声かけせずに放っておいたりすると、やる気がなくなっていくので要注意である。

つまり、チーム内の個人の特性の相互理解ということがものすごく重要である。
ある人には最高のアプローチが、ある人には最低のアプローチになり得る。
これは職場間、子どもと親、子どもと教師、夫婦間など、あらゆることに適用できる。

よく男女の意識のすれ違いで
「もっと褒めてほしい」「いちいち言葉で伝える必要はない。」
という例があるが、これも実は個人のモチベーション特性の違いである。
(ラインを頻繁に返して欲しい人と、それが鬱陶しい人との違いも、そこである。)

相手の特性を理解していれば、「そういうもの」とわかるし、互いの接し方も変わる。
「自己理解」と「他者理解」の両方が重要である。

ストレス特性についても面白い。
例えば私は
「前例がないことへの挑戦」
には全くストレスを感じないという結果である。

一方で
「マニュアル通りに進める」
「周囲との衝突を避ける」(ために言うべきことを言わずに我慢する)
「人からの指示を受ける」
ということへのストレスに滅法弱いという。

完璧に当たっている。
私にとって、「周囲との衝突を避ける」ために言うべきことを言わずに我慢する、やりたいことをやらないというのは、耐え難い苦痛以外の何物でもない。

このストレス特性の面白いところは
「強みは他者と接する時の注意点」になるということである。
自分がそこへさっぱりストレスを感じないため、相手に対しても鈍感になりやすいポイントである。
つまり、私と同学年を組む人は「挑戦」に日常的に付き合わされることになり、大変な目に遭うということである。
同タイプの人以外には、大変申し訳ないことである。

例えば「思慮深さが求められる」というストレス項目に対して強い人は、細かな配慮が「普通」のことである。
一方で、他者を見た時に「何でこれぐらいの配慮を普通にできないの??」というようにそこに厳しくもなりがちという。
(多分、私なぞはこのタイプの人にそう思われている。)
自己理解をしておくことで、他者との関係も円滑になるということである。

これをどう学校現場に活用するかは、まだ模索中の段階である。
しかしながら、こういう視点をもつことで、子どもに対しても接し方を個別に変える必要があるとわかり、大変学びがあった。
また進捗があったら、お伝えしたいと思う次第である。

2019年9月6日金曜日

全国学力・学習状況調査の平均点は当てになるか

前号に続き、先日結果が公表された全国学力・学習状況調査について。

県別の平均点が公表された。
教育委員会の側は、当然学校別の結果も把握している。
これが、不幸の始まりである。

ところで、結果を見る世間の側が本当に「平均点」の仕組みをきちんと把握しているかというと、かなり怪しい。
「学級のみんなができるようになると平均点が上がる」という誤った認識をもっていないか。
誤った認識は誤解を生み、いじめの温床になり得る。

平均点というのは、例えるなら砂場の凸凹をならして平坦にして、その高さを測定する作業である。
実は「ならす前の状態」がどうであるかが、この平均点の妥当性に関わる。
他の高さと異なる「穴」や「尖り」のような部分が少ない、山の状態であれば、「大体真ん中がこれぐらい」というその数値の妥当性は高い。

一方「グランドキャニオン」のような深い谷がある状態の場合、この平均値の妥当性はほぼない。
グランドキャニオンの山を崩して谷を埋めて均等にならし、海抜の高さを測って「これぐらい」ということの意味があるかどうかである。
差が激しすぎる上に、本物の中央の数値が不在である。
「平均点付近の子どもはほとんど存在しない」ということもあり得る。

各県内の子どものテストの数値はどうか。
これは、明らかに「グランドキャニオン」状態である。
0点もいれば、当然100点もいる。
最も多い層の他に、極端に離れた数値の集団がいくつか存在する。
点数がかなり分散している。
この場合、平らにならすことに、ほぼ全く意味はない。

平均化というのは、言うなれば「個を殺し、無視する」作業である。
社会が求め、文科省が出している方針と真逆のはずである。

テストの平均点の上下動の仕組みについては、学級担任や塾講師をしている者なら嫌というほど知っている。
90点が100点になるのはものすごいことなのだが、そこは平均点には表れない。
100点がどんなにたくさんいても、10点や20点の子どもが数人いたら、「チャラ」どころか「マイナス」なのである。

手っ取り早く学力テストの平均点を上げる方法がある。
過去問をやらせることである。
「事前練習」と呼ばれる方法である。
年間を通して毎日、時間を決めてやらせ続ける学校もあるという。
ひどい場合、行政の側が過去問を実施したかどうかの調査をして、学校現場に圧力をかける。
これで、確実に平均点は上がる。

次の記事も参考になる。
「全国学力テスト 事前練習に追われる学校現場 授業が進まない」内田良
https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20180829-00094820/

これによって学校教育が失うものの大きさは、言わずもがなである。
残念ながら、全国各地でこれがなされているのが現状である。
「事前練習」をしないと当然平均点が下がるのだから、どこもやっている以上やらない訳にはいかないというのが実情である。
「目的と手段の入れ替わり」「手段の目的化」である。

さらに、もっとひどい方法があるという。
先に述べたように、平均点というのは「凹み」が最もインパクトが強い。
つまり、点数が低い層を「排除」することが、最も平均点アップに効果がある。
(進学塾等ではよくある方法である。数値的な実績が大切なのである。)

要は「最初から点数の低くなりそうな子どもを受けさせない」という方法である。
そんなことが許されるのか。
実は一部の子どもは、調査対象外になるのである。

全国学力・学習状況調査の実施要項「3.調査の対象」から引用する。
====================
(引用開始)
(2)特別支援学校及び小中学校の特別支援学級に在籍している児童生徒のうち,
調査の対象となる教科について,以下に該当する児童生徒は,調査の対象としないことを原則とする。
ア 下学年の内容などに代替して指導を受けている児童生徒
イ 知的障害者である児童生徒に対する教育を行う特別支援学校の教科の内容の指導を受けている児童生徒
(引用終了)
====================

この規定自体は至極妥当である。
特別な支援が必要な子どもへの配慮は絶対に必要である。
しかし、問題は、この規定を悪用して
「テストを受けさせないように特別支援級をすすめる」
ということが、残念ながら一部で引き起こされているらしいということである。

その学校を非難するのは簡単である。
そうではなく、問題の根本は、そこまでして学校や担任を追い込んでいるこの現状である。

私も経験があるが、学校には、極度に算数が苦手、文章が読めない、という子どもが一定数存在する。
学年に一人や二人ではなく、場合によってはある学級に何人も集中することもある。
「生徒指導が大変」という子どもを学年主任の学級に入れる代わりに、他の学級に学力的に厳しい子どもが集まる、というパターンである。

そうすれば、平均点の結果は目に見えている。
指導力の差ではない。
クラス間を比べることも無意味である。
もしこれでどうこう言われるようなら「学力の低い子どもは担任したくない」と言い出す人が当然出る。
教育の崩壊である。

学校間、都道府県間も同様である。
無意味である、というより、とてつもない害悪である。

0点だろうが何だろうが、子どもには全く何の罪もない。
勝手にランキングされて、大人たちが右往左往したあおりを食らい、はた迷惑な話である。

毎年国民の税金を60億円以上使って行うものが、教育現場を悪くしている現状。
残念ながらこれを甘んじて受け入れることしかできていないが、せめて小さくとも抵抗の声だけは上げていきたい。

2019年9月4日水曜日

学力調査に思う 上半身と下半身の捻じれ

かねてより懸念していた、全国学力・学習状況調査の結果が公表された。
またトップがどことか、一番低いのはどこといったところに注目が集まる。

学校現場と子どもにとって、正直害悪以外の何物でもない。
トップの県には変なプライドを植え付け、最下位の県は劣等感をもつ。
それを促すにはうってつけである。(最下位だからと子どもが奮起する訳がない。)

やらされた方に罪はない。
運動会の徒競走と同じで、とにかくよーいどんと走らされて、ゴールで順位を付けられただけである。
その結果にどうこう言われる訳である。
走るのが嫌になること必至である。

ちなみに、どんな理由や妥当性があり、ねらいがあるかということは、何の問題の解決にもならない。
いじめを受けた子どもへ対応する場合と同じである。
問題は、地域格差の意識の拡大が起き、被害者が出ているという事実のみである。

前号のメルマガから紹介している、木村泰子先生も、この全国学力・学習状況調査を話題の一つにしていた。
ちなみに、ここについては、次の対談本にも詳しい。
『タテマエ抜きの教育論: 教育を、現場から本気で変えよう!』木村泰子×菊池省三 小学館
https://www.amazon.co.jp/dp/4098401932

木村先生は文科省の各施策に対して、
「上半身と下半身が捻じれている」と表現していた。

どういうことか。

文科省の「上半身」は、いいことを言っている。
特に「主体的・対話的で深い学び」を最前面に出してきたことは重要だという。
また、教員が生き生きと働いていることが子どもにとって大切だという認識もはっきりと出している。

一方で「下半身」は言葉とは違う動きをしている。
全国学力・学習状況調査の推進。
やることを増やしながら、定時で帰るように指示。
強制帰宅させらても自宅で作業ができるクラウドのような環境整備はされていない。

理念と実際の施策がちぐはぐなのである。

上半身の素晴らしい理念を進めるのであれば、全国学力・学習状況調査を一律に行い、結果を公表することはしないはずである。
かねてより指摘されているように、結果の公表は県や教員、あるいは地域のランキングにつながる。

競争による順位付けというのは、よほど気を付けないと、いじめや差別を生む。
上位となった県がほくほくとして、下位となった県が肩身の狭い思いをするのである。
また「どうすれば上位になるか」と他県が上位県に学びに行って、余計なことを真似するから、なおさら質が悪い。
平等な教育を施す機関である公立小中学校に、偏差値の概念を持ち込むことになる。

騒ぐのは「世間」である。
しかし、騒ぎに発展するとわかって実施する側、騒ぎに反応して行動してしまう側にも問題がある。

誰でも手軽にデータにアクセスできる現代だからこそ、従来の在り方を問う必要があると考える次第である。

2019年9月2日月曜日

「みんなの学校」は子どもが主語

夏休み中に、素晴らしい方にお会いしてきた。
「みんなの学校」の木村泰子先生である。
(参考文献『「みんなの学校」流・自ら学ぶ子の育て方』小学館
https://www.amazon.co.jp/dp/4098401711)

午前中は地元の特別活動部会の講師としてお話をいただき、
午後は社会福祉協議会主催の「みんなの学校」上映会と講演会であった。
「ハウツー」のような話はほとんどなく、実践・事実を通した観の話だった。

記事にして配信することへのご本人の承諾も得たので、可能な限りシェアする。

これからの、新しい10年先の学校を作る上で、一番のキーワードは「学級経営」だという。
学級経営は、学校経営のため。
これからは学級担任の制度自体を変える必要がある。
担任から担当へという意識である。

自分も最近の構想として「学年担任制度」を考えている。
学級担任が一人で抱え込むから苦しくなる、だからみんなで分担して持てばいい、という考えの根本が同じである。
そして、学校というチームに貢献していく。
最終的な受益者は、子どもである。

保護者は「サポーター」と呼ばれる。
チームの一員である。
保護者であるのは家庭での話で、一歩学校に入ったら、そこからは地域の方と同じ子どもの「サポーター」。

このサポーター制度が面白い。
サポーターの約束として「我が子は見ない、触らない」というものがある。
そうすると、自分の親が他の子どもに優しく接している姿を見ることになる。
(大人の「社会での姿」である。親は大抵、我が子には厳しく接してしまう。)
これを見て、子どもは他人との接し方を学び、真似するようになるという。

とにかく、全てがオープンなのである。
学校における子どもを、担任にも保護者にも個人的に「所有」しない、させない。
子どもの尊厳を大切にすることを第一においている。

地域に対しても同様である。
「子どもは地域の宝」ということで、サポートが当たり前の仕組みができている。
子どもが地域を好きになることの最終受益者は、地域そのものだからである。
学校に関わるすべての人が幸せになる構想である。

こういった仕組みづくりも「観」が全てである。
学校は「子どもを主語にせよ」が全ての基本命題である。
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