2019年9月8日日曜日

「クラス第一主義」「我が子第一主義」を排す

広島の原爆記念日の式典における、広島市長の平和へのスピーチが心に響いた。
先の戦争のことだけでなく、現存する全ての諍い、争いの根本を指摘していたと感じたからである。

冒頭に「自国第一主義」が世界平和を脅かす要因であるという主旨を述べられていた。
全く同感で、これが学校や学年、学級といったあらゆる小さな集団にも適応される考え方である。
「クラス第一主義」、「我が子第一主義」の誤った考えのもたらす不幸の大きさは計り知れない。

自分だけが平和であればいいという考えは、根本的に間違いである。
例えるなら、自分のところだけが快適で、周りが火事という状態。
自分のところもやがて火事になることは明白である。

逆に、ほとんどが快適だけど、一部火事という状態。
これもやはり、やがて自分のところまで燃え広がることは明白である。
「自分の所属」という範囲を、どこまで広げられるかである。

先の平和宣言は、自分の所属を世界にまで広げていると考えられる。
宮沢賢治の言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の示すところである。

また、スピーチの中で引用されたガンジーの言葉も示唆に富む。
「不寛容は、暴力のひとつの形です。それでは真の民主的精神は、一向に育たない。」

これは「あいつさえいなければ」「変わっているから排除しよう」「絶対許さない」という誤った考えである。
この不寛容の精神は、いずれ自分にも適用される。
いつかは、巡り巡って自分が「排除対象」になるのである。
不寛容は、ガンジーの言う通り、紛れもない暴力のひとつの形である。
(過ちを許してもらえないのであれば、我々は誰もが許してもらえない存在である。)

これからの時代は、学校教育においても「異質の排除」から「多様性の歓迎」へのシフトが必要である。
これは子ども、教員、保護者、全てに共通して言える。
異質、多様性への不寛容な態度は、やがて自分の首を絞めることにつながる。
なぜなら、多様性の世の中において、「普通」が崩壊し、私もあなたも明らかに「異質」の一人となるからである。

天才は、100年先の普遍性を掴んでいるものである。
だからこそ、当時は変人扱いである。
時代が、当時のマザー・テレサやガンジーの考えに追いつける日が、もしかしたらやっと来るのかもしれない。

自国第一主義を排す。
自学級第一主義、我が子第一主義を排す。
それが、自学級も我が子も平和に幸せに生きる道につながるのではないかと思わされた、平和記念式典でのスピーチだった。

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