2019年10月28日月曜日

授業は知識の血肉化を

教育実習で話したことのシェア。

かけ算九九。
幼稚園からそらんじて言える子どもがいる。
しかし、「言える」ということと「わかっている」ということは全くの別物である。
教える側は、ここを勘違いしてはならない。

例えば、古来からの有効な教育法に、論語の素読がある。
これは、教育的に大変意味があると言われる。
しかし「論語読みの論語知らず」という諺の示す通り、論語をそらんじていても、わかっている訳ではない。

暗記には意味がある。
覚えるという点においてである。
しかし、それによって安心してこれを軽視したり学ぶ意欲を失ったりしてしまったら、これはマイナスである。
大人でも見受けられるが、「そんなの知ってるよ」の態度である。
この態度は、生涯に渡って学びを阻害する。

かけ算九九の話に戻るが、「九九を言える」というだけの状態は、空っぽの容器のようなものである。
中身を入れるための受け皿ができている状態である。
外形はあるが、中身がない。

そこに授業で、中身を満たすような、意味付けをしていく。
「2×7とはいかなることか」ということを、深く突き詰めていく。
「2を7回足すのとはどう違うか」
「7×2ではだめなのか」
「身の回りの2×7はどこにあるのか」
「2というかたまりにはどういうものが当てはまるのか」
「2×10、2×11はどうなるのか」
と考えていく。

そうすることで、就学前に意味もわからず覚えた九九に、血が通う。
単なる知識が「生きる」ようになり、使えるようになる。

これは言うなれば、雪を見たことのない南国の子どもが、「雪の冷たさ」をわかるのと同じ感覚である。
辞書で「雪」と「冷たい」を引けば、意味的にはどういうことか知る。
しかしそれは、わかっている訳ではない。
雪に触って初めてわかる感覚である。

例えば、「孤独」とはどういう状況かがわかるということである。
「孤独」という言葉の指す感覚は様々であることも、体験するほど豊かに知ることになる。
教室で一人ぽっちの「孤独」。
みんなと一緒にいるのに感じる「孤独」。
一人暮らしの高齢者のように、誰かを失って初めて感じる「孤独」もある。

「孤独」ということが、周りに誰か人がいることが条件であることもやがて知る。
誰もいない大自然の中では、逆に孤独は感じられない。
だからこそ、大都会は孤独を感じやすい。
人生の経験値で「孤独」という単語の指すものへの理解の深さが全く異なる。

「わかる」とは奥が深いものである。
逆に「どうでもいいことを延々とやる」と児童・生徒に受け取られるような授業であれば、それはその通りなのである。
教える側の理解が浅いから、伝える内容も浅いということである。
「わかっているつもり」が一番怖く、同時に、教える時は常にそうである。

授業は、教える側にとっても、自己との対話である。
血の通った授業になっているか。
経験が長くなるほど、常に自問すべきことである。

2019年10月27日日曜日

絵本はコミュニケーションの媒体

絵本について。

教育に絵本は有効である。
しかしながら、その使い方に誤りがあるように思えることがある。

結論から言うと、絵本は純粋に楽しいから読む。
それ以外にない。
親や教師の恣意的に用いることには反対である。

読み聞かせは、結果的に子どもの教育に「なってしまう」だけである。
自分がその絵本が心底好きで、読みたくて読んでるだけなのに、子どもがそれを好きになってしまう。
それだけの話である。

つまりは、親子や教師と子ども間の、コミュニケーションの媒体である。
だから、読んでる間に子どもとは目を合わせるし、話をすることもある。
それこそが、読み聞かせの本分である。

読みたくないのに、やっつけで読んでも意味がない。
以前紹介したおおたとしまささんの本にも書いてあったが、
「うちの子は年間で600冊読んでます」
と得々と語る事態は、異常である。

私の学級では、読み聞かせを毎日する。
それは、私が好きだから読むのである。
「その本は教育的かどうか」とか、知らない。
すべて、私の好みである。
(そして、今では子ども自身が読むので、私の趣味は一切無視で、完全に子どもの趣味である。)

これは、我が子に対しても、そうである。

絵本はいい。
絵本には、芸術作品としての意味もある。

これは、他のあらゆることにもいえる。
例えば自然体験がいいのは、自然体験がいいからである。
教育効果がうんたらかんたらは、実はどうでもいいのである。
自然体験は、純粋に気持ちいいのである。

教育では、不自然なことをしない。
それは、教育とは自然のままにしておかない、という話とは別である。
不自然な教育は、「こうすればこうなる」的な「ロボット教育」である。

それは、プログラミングを学ぶ意義とは違う。
プログラミング教育が有効なのは、それが機械相手だからである。
論理の学習だからである。
これからの時代、機械を使いこなす技能が必須であり、ロジカルシンキングを進めるその教育には意味がある。

ただし、人間相手にプログラミングをする訳ではない。
機械には、芸術を理解することはできない。
(芸術作品を一定パターンで理解するようなプログラムを人間が組み込むことはできるのかもしれない。)

すぐれた絵本は、芸術作品である。
それを忘れないで読む。

絵本が教育として有効であるということと、絵本をそのように恣意的に用いるということの弊害は、考えるべきことである。

2019年10月24日木曜日

道徳の教科化で学校現場はどう変わるか

道徳の教科化について。

道徳が特別の教科になってから、現場の反応は様々である。

色々なことが変わったが、現場レベルでの具体的で実務的な変化は
1 教科書の導入
2 評価の導入
の2点である。

これはそのまま、次の利点を生み出す。
1 使用教材の明確化(何をやろうか迷わずに済む)
2 確実な実施(やるかやらないか迷わずに済む)

「利点」と書いたが、これは命令を出す側の利点である。
要は、規則を守らない人が多いので、規制を強めた訳である。
つまり、まともにやっていた人間にとってはデメリットにもなり得る。

そのままひっくり返すと、次のようにもなる。
1 自作教材の使用の困難
2 評価を意識した業務の増加

まあ、大変だが、致し方ないことである。
現場から「負担増」の反感の声も聞こえるが、今まで業務上の義務にもかかわらず実施をきちんとしていなかったことへの「ツケ」ともいえる。
「自分はきちんとやっていたのに」と言っても、これも責任逃れである。
それを知っていながら、見て見ぬふりをして放置していた我々すべての現場教員の責任である。

しかしながら、心を育てることを強制しているという矛盾である。
それをやりたくないから、やっていなかった人も多い訳である。

心を育てるのは、難しい。
というより、教えるものではなく、育つものである。
本来、自分自身にしかできないことである。

ここについて、今最も注目されている麹町中学校の工藤勇一校長も「行動が大事」と様々な著書の中で述べている。
「心の教育」を叫んで心を教育しようとしているから、行動できない。
大切なのは、心よりも、行動である。
心ではなく、行動を変える。
これだけが教えられることである。

授業の中で「掃除が大切だ」「思いやりが大切だ」と美しい言葉を並べ立てて、発言を活発にするが、全く行動しない子ども。
特に何も言わないけれど、掃除を黙々とやり、ちょっとした思いやりのある行動ができる子ども。
どちらが本当に「道徳的」かは、明白である。

個人的には、以前紹介した「モラルライセンシング」と関係あるのではないかと思っている。
参考記事:ブログ『教師の寺子屋』↓
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/04/blog-post_10.html

これは経験則だが、道徳の授業をした後に、よくそれに関連する問題が起きるのである。
偶然にしては、多いと感じている。
全国の皆様はどうか、聞いてみたいところである。
(そもそも道徳の授業をしていなかった、という人も少なくなかったので、全体の問題意識に上がらなかったのかもしれない。)

「膿を出した」と考えると、それも意味があるかもしれない。
マイナスを知るから、プラスを知るという面もある。

何にせよ、道徳が教科化されて、学校はどう変わるのか。
アンテナを張って、注視していきたい。

2019年10月22日火曜日

虚飾を取り去れ

今回、次の教育雑誌で一つ書かせていただいた。
『国語教育 2019年10月号
準備から当日までスッキリわかる!研究授業完ペキガイド』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/02838

私が書かせていただいたのは、「授業者の心得」である。
キーワードとして「虚飾を取り去れ」という野口芳宏先生の言葉を引用させていただいた。

虚飾は、見抜かれる。
子どもは、この点においてかなりの洞察力を備えている。
「この人は自分にとってどんな大人かな」というのを見抜く力は、もう赤ん坊の頃からある。
どんなに飾っても見抜く。
もう本能的にもっていると考えるとよい。

つまり、虚飾のある授業は、ダメである。
真心、真剣さ、誠実さが命である。
これは、現職の教員でも教育実習生でも同じである。

素直な人は、伸びる。
これは間違いない。

反骨精神があっても、素直な人というのはいる。
従順なようで、素直でない人というのもいる。

素直な人は、なぜ伸びるのか。
自分の間違いを認め、正すからである。
そこに虚飾がないからである。

子どもが「わからない」という。

「何でわからないんだ」「わからないのが悪い」というのは、普通の人である。
「自分の教え方が悪い」といってやり方を変えるのが、伸びる教師である。

ちなみに、一方で子どもの方には、単純にそのように教えてはならない。
他人のせいにはさせず、自分でできる努力を促す。
あくまで、教える側の心構えの話である。

授業は、「させていただく」つもりで行う。
だから、最初と最後に礼をする。
一緒に一つの時間と空間を共有した、子どもたちへの礼儀である。

授業等で、人に見られるのが緊張する、という人にアドバイスがある。
「どうせ下手なんだから、教えてもらおう」と思うことである。
かっこつけて上手く見せようとすると、大抵うまくいかないものである。

虚飾を取り去れ。
古来より言われる、真実を求める際の箴言である。

2019年10月20日日曜日

教育に競争を持ち込まない

学校教育における「競争」について。

先に結論を述べる。
学校教育に競争を持ち込むと、ろくなことにならない。
メリットより害悪の方がはるかに多い。
なぜなら、競争は協働の力を削ぐからである。

ちなみに、教員評価制度もこれである。
一緒に働く仲間同士に誰かの視点で優劣をつけられると、うまく協働できなくなる。
損得勘定で働くことになり、結果的に評価につながらない損な役回りは誰もしなくなり、学校は荒れる。
要は、教育現場なのにアメとムチで人を動かそうということであり、退廃はわかりきったことである。
(「目立つ」子どもをよくほめる、叱る教師の学級が荒れるのと同じ原理である。)

競争は「相手より優位に、上に立つ」ことを目標とする。
1位が一番良いし、人より先んじることが善である。
最下位が最も劣る評定で、人と比べて遅れることが、そのままマイナス評価になる。

ここまで書いていることだけでも、教育の現場に全く馴染まないのがよくわかる。

ちなみに競争の象徴であるかのような部活動指導も、優れた指導者は競争原理ではなく、協働の原理を上手に使って導いている。
だから、チームの雰囲気が、誰に対しても本当にいいのである。
ただ強さだけを求めるチームは、差別やいじめがあるなどして、チーム内がぎすぎすしているはずである。
(競争は、ランキングというその性質上、必ず差別化を含む。)

健全な競争は、企業間にとっては有効に働く。
企業間競争が、顧客にとってのサービス向上にもつながるのも事実である。
(ただしこれが値下げ競争の形をとると、サービスの質の低下にもつながる。)
しかし、市場原理の多くは、教育には馴染まない。

なぜなら、学校にとっての顧客とは、子ども全員、一人一人だからである。
A君が1位でZ君が最下位、というような見方では、全員を「良く」したことにならない。
教育は「常時善導」であるべきで、自尊感情を損なうことは「悪導」(注:松尾造語)であり、マイナスである。

これは、例えば「叱ってはならない」ということではない。
叱ることによって善導もできるし、「悪導」にもなる。
ほめることも同様である。

この叱る・ほめるを、競争として使わないというのは、重要にして最もできていない部分である。
何かが人よりできたからほめる。
勝ったからほめる。
成功したからほめる。
何かが人よりできないから叱る。
失敗したから叱る。
負けたから、叱る。
結果を、他人と比べる。
全て、激しくマイナスである。
(だから、通知表を互いに見せるような行為は、厳に慎むべきこととして教える。ここは親同士も同様である。兄弟間も×である。)

特に、世間の一部で「ほめる」を手放しにプラスに捉える傾向があるので、要注意である。
以前も書いたが「100点をほめる」と、子どもはどんどん追い詰められる。
(参考:プレジデントオンライン記事「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234

叱るのは、人の道として誤っていると思うから叱るのである。
(怒るのは、感情的に気に入らないから怒るのである。人間同士の教育だから、それもある。)
ほめるのは、(上の立場から)相手の努力といった人間性に対して心からの賞賛、拍手を送りたいから、ほめるのである。
単なる結果でしかない点数をほめるのとは、全く違う。

勉強とは、競争ではない。
勉強とは、たゆまぬ自己研鑽である。
受験はどうだというかもしれないが、あれも根本は自分とのたたかいである。
結果はすべて自分を高めた結果であり、周りとの比較など本来関係ないはずである。
(とる側が合格して欲しいと思うような人間は、誰と比較しなくてもわかる。)

同じ方向を見つめる仲間と、競争ではなく協働して「切磋琢磨」すればいいのである。
「受験競争」でマウンティングしたり、相手を貶めたりする必要はない。

学級での些細な言動、あるいは授業の中で、ちょっとした競争をさせてしまっていないか。
それによって、ぎすぎすした人間関係を築く「悪導」をしてしまっていることを見過ごしていないか。

学級で協働がうまくいかない根本的な原因を、そういった行為が作っている可能性がある。
特に、親や教師といった大人が、他者より優れたい、自分だけが得したい、という思いがあると、それは子どもに移る。
教育において、競争原理の扱いについては、十分注意したい。

2019年10月16日水曜日

言葉遣いは、ゆるがせにしない

前号に続き、子どもへの礼儀指導について。

多様性への歓迎は重要である。
しかしそれは、礼儀の指導をしなくてよいということではない。

この二つは、相反する要素ではない。
どちらも、他者と協働して気持ちよく生きていくためのものである。

「自由」と「放縦」を勘違いしている場合がある。
大人にも子どもにもある。
特に、教える立場にある人がここを間違えていると、とんでもないことになる。

「礼儀指導」などというと、作法から始まり無数に考えてしまうが、要点を外さないことである。

根本・本質・原点で考える。

礼儀は何のためにあるか。

ずばり、相手を尊重する態度を示す、グッドコミュニケーションのためである。
そして、人を不快にしないためである。
それが、我が身を助ける結果となる。

親は、教師は、どこを確実に指導すべきか。

二十年に満たない教員経験による私見だが、肝は「言葉遣い」であると感じている。

どういうことか。

何をしてもらうにも「ありがとうございます」の一言が出る子どもがいたとする。
(「ありがざす」でも「あざーす」でもない。明瞭にである。)

この子どもに、プリントでも何でもいいからものを渡すと、何も言わない子どもよりも、両手で受け取る確率が高い。
「頂く時は両手で」という礼儀が同時に身についているのである。
家庭教育のせいなのかなぜかは知らないが、実態としてそうなのである。
当然、「どうぞ」と相手に渡す時も両手になる。

小学校高学年になっても、目上の相手に横柄な言葉遣いで話す子どももいる。
低学年であっても、丁寧な言葉遣いで話す子どももいる。
初対面であれば、それら子どもの印象は、それぞれ確実に決まる。
大人の側が、どちらを助けてあげたいと思うかである。

そしてどちらも、子どもの性質ではなく、大人がどう接してきたかで決まっている。
「不遜・不敬な子ども」を作るのは、間違いなく親と教師の両者である。

自閉症スペクトラムなどのコミュニケーション上の発達障害も考えられるので、言葉遣いだけで一概にはいえない。
ただ、基本的には、そう見られるというだけである。

礼儀指導は、無数にあって、全部教えるのは本当に大変である。
せめて言葉遣いだけは、「揺るがせにしない」教えるべき点として、身に付けさせてあげたい。

2019年10月14日月曜日

訓導して厳ならざるは師の怠りなり

教育実習で話したこと。
教えるべきは教えるということについて。

子を養いて教えざるは父の過ちなり
訓導して厳ならざるは師の怠りなり

毛涯章平先生という、長野県の先生のお話から知った言葉である。
『古文真宝』という中国の書物にある言葉だという。

教育において、ゆるがせにしないこと。
それは「教えるべきは教える」ということである。
まして、師という立場にあるのならば、厳として教える、ということである。
それをしないのは、怠け、怠りであるというお叱りの言葉である。

思えば、他人に対し、甘い、「優しい」というのは、楽である。
だから「大好き」となりやすい。
(「 」書きにしたのは、それが本来の意味とは異なるからである。)

これは、相手に媚びている姿勢である。
厳しいことを言わなければ、嫌われる心配もない。
「仲良しこよし」「友達親子」みたいな関係でいたら、楽である。

しかし、何のための師なのか。
その役目なら、本当の友達で十分である。
厳として導いてくれるからこそ、我が子を師の元へ修行に出す意味がある。

例えば職人のような専門家であっても、我が子に教えるのは難しい。
一度外に修行に出すのが常である。
「厳に訓導」してくれるからである。

これは師の野口芳宏先生の言葉だが、子どもへの教えは「常時善導」である。
学校に来て、来る前よりよくなって帰らないと意味がない。
教えるべきをきちんと教えたのかということが問われる。

教えることの「いの一番」にあげるべきが、礼儀である。
なぜなら、これは教わらないと「未知」になるからである。
知らないことは、できっこない。

礼儀は、考える余地を与えない。
文化ごとの決まり事、ルールだからである。
例えばある国では「内ポケットに手を入れない」というのは、命に関わるマナー、礼儀である。
(拳銃を出すと誤解され、撃たれる可能性がある。)
そんなこと、教えてもらわなければわかるはずもない。

だから、礼儀は確実に教えないといけない。
それで将来的に恥をかいたり苦労をするのは、教わらなかった子どもである。
実習生に対しても同様で、実習指導教官がそこにいい加減だと、後でとんでもない恥をかいたり、苦労したりする可能性がある。

成人している相手にあれこれ口うるさく言うのは、億劫である。
それでも素直な相手ならまだいいが、全員がそうとは限らない。
反抗されたりふてくされたりされたら、誰でも嫌になる。

それでも厳として教えるというのが、本来の「師」の姿である。
伝え方も大事であるが、言うべきを言わないというのは一番いけない。
それは、職務上の極めて重大な責務である。

これは本来、保護者に対しても同様である。
それが子どものためであれば、言うべきを言う。
しかし、保護者は、人によっては、より言いにくい。
先の例のように「教える、教わる」の関係にないからである。

誰に対してもそうだが、保身に走れば、確実にお茶を濁す形になる。
そこを、どう越えるか。
言うべきを言う。
教師という職務への信念・教育観といったものが試される部分である。

2019年10月12日土曜日

自分を自分のものにする

今回は、完全にエッセイ。
好きな絵本について。

国語の時間の一部を使って、一年半に渡り、毎朝の読み聞かせを続けている。
最初は私が読んでいたが、今は子どもが日替わりで読んでいる。
通算で三百冊以上読んでいる計算になる。

本当は、私が読みたい気持ちもある。
絵本の読み聞かせが好きなのである。
絵本自体が好きなのである。

一番好きなのは、ご存知、佐野洋子さん作『百万回生きたねこ』である。
https://www.amazon.co.jp/dp/4061272748
担任したほとんどの学年で読み聞かせしてきた本である。
私が生まれるより前に出た本だが、私は大人になってから読んだ。
何百回読んでも、いい本である。

ねこは はじめて 自分のねこに なりました。

ここの一文が特に好きである。

自分は、本来自分のものである。
飼われている状態は、自分ではない。
我が子に対しても、学級の子どもに対しても、同じように思っている。
(「我が子」という言葉自体も、本当は間違っているように思う。)

自分が、自分になれること。
自分の人生にとっての主人公であるということ。
学級の中において、特にここを大切にしたい。

これは、他者が他者であることを認めるということと同義である。
自分のもの、所有物、ほしいままにしないということである。

自分が自分になるためには、他人を尊重する必要が出る。
そうしないと、自己矛盾が起きる。
他人を尊重しないということは、自分も同じ扱いを受けるということと同義だからである。

自分が他人に尊重されないことに文句を言う姿勢も違う。
自分を最も尊重するのは、自分自身だからである。
自分が認めてくれないのに、他人に認めてもらっても、満足しない。
他者承認を永遠に求め続けることになる。

ねこは、白いねこに出会って、子どもが巣立って、最後に死ぬ。
いつまでも幸せに生きることでなく、死を肯定的に捉えている点も、秀逸であると思う。

自分を自分のものにするということは、自ら愛する他人と共に生きるという選択肢も含む。
誰にも強制されずに、「そばにいてもいいかい」と頼む場面も、素敵である。

まあ、とにかく好きなのである。
前号でも書いたが「何を好きか」というのは、観が出る。
周りの人に「何が好き?」というのをきくのも、大切なコミュニケーションかもしれない。

2019年10月11日金曜日

どんな人を求めているか

野口芳宏先生からの学びと気付き。
自分自身を磨くということについて。

夏休みの間、野口先生のご自宅には、遠方より様々な方が集まった。
関東から近畿はもちろん、四国の人も東北の人も沖縄の人もくる。
北海道の団体や九州の団体もある。

この会は、実践発表もするが、その後は流し素麺をし、俳句会をし、宴会をするというような、実に気楽な会である。
今年も数回行い、私は「木更津技法研」のメンバーとしてお手伝いをさせていただいた。

ところで、これだけの人がわざわざ飛行機から高速バスを乗り継いでまで、遠路はるばる集まる理由は何なのかを考えた。

これは一言、人徳に尽きる。
「授業名人」として知られる野口芳宏先生だが、単に授業が上手いという人なら他にもたくさんいる。
授業を研究している団体も民間、学校問わずたくさんある。
しかし、個人としてこれだけ慕われて、多くの人々が集まるという人物は、稀であると思う。

野口先生は「教育の究極は、感化・影響である。」という。
子どもにとっての感化者、影響者であることが望ましい。
その本質は、授業技量の巧拙の問題ではない。

授業を軽んじている訳では決してない。
授業の技量は、学校教育の感化者としての一要素として、大変重要である。
しかしながら、知識や技術があっても人徳が低くては、それは単に知識や技術の「伝達」にとどまる。
それでは一時的に人気が出ても、本当の意味で人は集まらない。
(ちなみに、あまりそういう人はいないとも言われる。
子どものために授業技量を高めようとする過程で、人格も磨かれるはずだからである。)

観を磨くにはどうすればいいのか。
そういう人たちに囲まれるというのが、一つの手である。
どういう人物を慕っているかで、その人が求めているものもわかる。

教育観を磨きたい人は、人徳のある人のところに集まる。
技を求める人は、技をもっている人のところに集まる。
授業のネタが欲しい人は、授業のネタをもっている人のところに集まる。

自分がどんな師を求め、どんな仲間を求めているかで、自分自身がわかるかもしれない。

自分の学びの方向はこれでいいのか。
そこに迷った時には、そこに集う人や中心人物に目を向けるのも一つの手である。

2019年10月8日火曜日

子どもと一緒に汗をかいた分だけ、成長できる

教育実習でした話。

「子どもと一緒に汗をかいた量だけ、成長できる」ということを伝えた。

なぜこれを伝えたかというと、実習生の姿が実に爽やかだったからである。
まだ残暑と呼ぶにも厳しすぎる暑さの中、子どもと外で毎日全力で遊んでいる実習生。
笑顔で滝のような汗をかいている姿を見て、感動した次第である。

私はあまりに暑いので、教室内で〇つけ等をしながら悠々と過ごしていた。
そこでその姿を見て、恥じ入った訳である。
一念発起して、外に出て、やはり暑いので木陰で過ごした。
やや敗北感のある結果ではあるが、教育実習生に教えてもらった思いである。

実際、授業の成否を分けるのは、子どもとの人間関係次第である。
「授業の達人」みたいな人でない限り、人間関係のできていないところで良い授業をするというのは、かなり難しい。
授業技量が低くても、子どもとの人間関係を上手に作ってきた実習生は、子どもが何とか授業を成立させる。
そういうものである。

そういった経験を、初任者からも何度も何度も経て、段々に成長させてもらう。
子どもと一緒に汗をかけば、それだけ成長できるということである。

授業の準備を一生懸命する、ということができるのも、子どもと一緒に成長したいという思いがあるからこそである。
その思いを強くするのは、何となく「全体に教える」というものではなく、具体的なクラスの「〇〇さんの喜ぶ顔」である。

よく教育書や家庭教育本であるような「こうすれば子どもはこう動く」というのは、理論上の話である。
実際の生身の人間はそうはいかない。
それは、子どもと一緒に汗をかいた人だけが知っている。

掃除一つをとっても、自分は楽な作業をして、子どもに「がんばれ」で響く訳がない。
(「監視」してるだけというのは、最悪の形である。)
上から目線で子どもを見ている時と、自分が床に手をついて雑巾がけをしている時に見えるものは全く違う。

歌でも同様。
自分が一緒に楽しそうに歌わないで、子どもが歌わないのを「やる気がない」などといっている姿は、滑稽である。

子どもと一緒に汗をかいた分だけ、成長できるのである。

また、これは今回は話さなかったが、子どもといない時の涙も成長の一つである。
「悔しい思い」は成長の糧になる。
「あんなに準備をがんばった」のに、ひどい授業になってしまうこともある。
子どもや保護者、同僚との関わりで「あんなに一生懸命やった」のに、裏目に出てしまうこともある。

しかし、がんばった分だけ、気付きは確実に生まれる。
適当にやってうまくいったことに、気付きはないのである。
苦しみの経験は、確実に次の感動の経験へと積み上がる。

ぼーっと幸せに生きていると、そこには目が向かない。
苦しむこと、涙を流すことにも、大きな意味がある。
涙は未来への投資である。
今にとっては痛い支払いだが、未来にとっては大きな価値がある。

教育実習生から、初心を教えてもらった。
若者に負けないよう、自分自身も磨いていきたい。

2019年10月6日日曜日

近すぎて見えないなら、離れるべし

最近実感していること。
離れてみることの有用性について。

学年内で、学級担任を部分的に交換している。
授業ではなく、朝の会と帰りの会である。
学年職員として、それぞれがたくさんの子どもと関わるために行ったのだが、意外な効用を感じ始めた。

他の学級に入ると、その学級の様子が見える。
良さがたくさん見える。
4月に初めて担任した時のような感覚である。
「いいところ見つけ」サーチが自然とはたらく。

これが、自学級にも適用される。
学級の外から見て客観的になるため、本来の良さが見える。

更に、職員同士で子どものいいところの話になるため、それが加速される。
(子どもに対して批判的な人が入ると、もしかしたらうまくいかないかもしれないが。)

以前、このメルマガ上でも、離れて子育てすることの有用性について紹介したことがある。
(参考:ブログ『教師の寺子屋』2018.8.17記事 大原幽学の「子ども交換保育」作戦に学ぶ)
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/08/blog-post_17.html

思い返すと、この「離れて見ると良さが見える」ということは、あらゆる人間関係にも適用できる。

近すぎて、相手の「部分」しか見えなくなっているのである。
離れてみないと、その全体像も、有難みもわからないものである。

学級の子どもに対して、あるいは、我が子に対して厳しすぎると感じていないか。
だとしたら、何らかの手を打って、少し離れて見る機会をとることをおすすめする。

2019年10月4日金曜日

授業に発問は必要か

次の本を読んだ。

『教育と授業──宇佐美寛・野口芳宏往復討論』
宇佐美寛 (著), 野口芳宏 (著)さくら社
https://www.amazon.co.jp/dp/4908983313

帯に「授業名人×教育学界の最長老」とある。
「ゴジラ×モスラ」ぐらいの迫力である。
滅多にお目にかかれない、巨頭同士の紙上討論である。

討論のテーマは多岐に渡るが、いずれも国語教育における「読み・書き」の指導がその中心である。

以下、読後の気付きを書く。

読みの力をつけるための、問いを中心とした授業の是非について。

宇佐美氏は一貫して「文章を読む力は、文章を読むことにより育つ。」という主張である。
つまりは、予習を含めた自己教育の連続によって伸びる、と読み取れる。
内発的動機づけを大切にしているともいえる。

そして発問に対しては、一貫して否定的である。
発問・応答の授業による経験というのは、例えるならドローンをその土地に飛ばして情報を得る「メタ経験」だという。
その土地を自力で直接歩いて情報を得る「読む経験」とは異なる別種の経験であるという主張である。

宇佐美氏の論を読むと、誰しもが納得である。
しかし、野口氏はこれに反論する。

野口氏は一貫して「発問の生産性」という主張である。
「問われて気づく」「問われて初めて見えてくる」ということから、発問は有用、有益である。
これを支える事実として、「裸の王様」の授業やトルストイの「人間にはどれだけの土地が要るか」という寓話の授業を示している。

「裸の王様」という作品自体は児童文学であり、子どもが自力で読んで楽しめる、という構造をもつ。
しかしながら、自力で読んだだけでは、「王様は愚かだ」という浅い理解のままで終わってしまう。
「このお話の中で一番愚かなのは誰か」という問いで貫くことで、見える世界が変わってくる。
子どもの「不備・不足・不十分」を顕在化させるのが発問である。

(この発問の意義については、共著の『やる気スイッチ押してみよう!』でも「ごんぎつね」の授業を例に書いた。
参考:『やる気スイッチ押してみよう!』https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149

発問には「あれども見えず」を顕在化する、という点において価値があるという主張である。

そう考えると、この本自体が「発問」ともいえる。
両者の討論から、自分では見えない世界を見せてくれ、自力のみでは到底辿り着かない気付きを与えてくれる。
つまりは、この本が「発問の生産性」という主張を支持しているといえる。

しかしながら、この本を読んでいるのは自発的な読書活動であり、自己教育であるともいえる。
「文章を読む力は、文章を読むことにより育つ。」という宇佐美氏の主張の通りである。

では、両者どちらの主張が正しいのか。

これこそお叱りを受けそうだが、一読者としての私の結論は「どちらも正しい」である。
「文章を読む力は、文章を読むことにより育つ。」という主張は全くその通りである。
一方「発問の生産性」についても、全くその通りである。
これら二つは、表面的には逆の主張のようで、本質的に相反する主張ではない。
しかし、だからといってただ受け容れるのではなく、相手の主張の不備を突くことによって、さらに互いの主張が深まるという構造になっている。

実際には、「自力で読む」という経験と「問われて気付く」という経験を往還することで、読む力がつく。
浅い自力読みを何度繰り返しても、浅いままである。
一方、毎度他者から問われるのを待つような受け身の姿勢では、当然自力で読む力はつかない。
だからこそ、両者の往還が必要なのであり、この紙上討論自体、両巨頭がそれを具現化していると読み取れる。

東洋哲学者の安岡正篤氏の言葉に「良き師 良き友 良き書物」とある。
師の問いによる気付きも、書物による自己教育の学びも必要である。

この本の中でも述べられているが、相手を打ち負かすことが討論の目的ではない。
そこから新たな価値が生み出されること、真理を追究することが目的である。
両巨頭はこの紙上で互いを「良き師」とし、「良き友」とし、結果として互いにとっても万人にとっても「良き書物」を生み出していると読み取れる。

この「発問」のテーマ一つをとっても、これである。
他のテーマも同様に、大変高度なやりとりがなされている。

今年度一番ぐらいの、おすすめの本である。
「討論は苦手」「すぐに人に説得されてしまう」という人にも、是非一読をおすすめしたい。

2019年10月2日水曜日

いちいち問う

常識とマニュアルは、便利である。
考えなくても自動化できる。
何もかもオートマチックという点で、今の時代の流れに合っているともいえる。
個々の性質によらずに、均質化も図れる。

一方で、常識とマニュアルに慣れると、「何のため」が抜け落ちる。
いきなりマニュアルを丸暗記から入ると、もはや思考の余地はない。
「今までがこうだったから」「例年通り」も同じである。

こういうことを若い人にいちいち言うと、うるさく思われるかもしれないという恐れもなくはない。
しかし、言うべきは言うというのが、大切である。
教育においては、相手にとってプラスになるか否かが価値であり、判断基準である。

そういう訳で、教育実習生にもいちいち問う。
「何で授業前に礼をするのか」「誰が誰にしているのか」
「挨拶は子どもからするべきか、教師の側からするべきか、あるいはどちらでもいいか」
「授業中に手いたずらをしている子どもがいても、注意しないことがあるのはなぜだと思うか」
・・・
きりがないほどある。

問う基本は「普通はこうでしょ」と思われることである。
その普通に、妥当性や意義があるのか、改めて問う。
そうすると、一つ一つの所作が変わってくる。
問う側にとっても、改めて考えたり、違う視点からの新たな発見をするきっかけになる。

本当に放っておけば育つなら、教育はいらない。
教育実習だっていらない。
「高校生は無理だけど、小学生に教えるぐらいならできる」という言葉をきくことがあるが、とんでもない誤解である。

特に小学生は「何で??」の塊である。
(ちなみに大人から小学生に対しても「何で??」な言動をたくさんする。)
幼児や小学生に対する大人は、このいちいちに「何でだと思う?」と切り返して、
「それはね・・・じゃないかな」と語れる力が必要なのである。

この「・・・じゃないかな」というのがポイントである。
子どもの大抵の問いに対しては、絶対解がない。
空が青い理由も、虹が七色である明確な理由も、子どもが本当に納得できるように説明するのは不可能である。
(「ふ~ん、そうなんだ~」と合わせてくれはする。)
というよりも、世の中の大抵の問には、絶対解がない。

「1+1=2」というのは、四則計算の演算上は絶対のことだが、現実には普遍的な絶対解ではない。
現実に、ある二人が一緒に仕事をした時の仕事量は、1+1が3になる場合や、1+1が-1になることもある。
だから、本当に頭のいい子どもにとっては逆に「何で?」ということになる。
よく考えているからである。

全ては「この場合はこう」とか「こういう考えもある」という程度である。
その解を、視点を、複数もっていることが大切である。

結局、教育実習ではハウツーやマニュアル、常識も教えるが、「観」の育成が何よりも大切である。
子ども観、教育観、人間観の育成の場である。

そう考えた時に、自分がどうであるかということの影響力は大きい。
教え方の研究どうこう以前に、自己修養が大切と考える次第である。
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