2020年12月31日木曜日

独立独歩のチームワーク

 最近の気付き。


チームワークというと、みんなで一緒に何かをやるイメージである。

しかしながら、職場における実際のチームワークは、役割分担による個人作業である。


多くの人が取り組む箇所もあれば、一人がやる箇所もある。

職人技のような分野は、多くの人が関われない。

だから、ある一人がやることになる。


また、リーダーはチームワークの核でありながら、最も孤独である。

リーダーは基本的に一人だからである。

「船頭多くして船山に上る」の諺にある通り、司令塔は基本的に一つだからである。


みんながわいわいやっている中で、孤独に作業をすることもある。

しかしながら、その孤独な作業がチームにとって不可欠なものであることも多い。


学級活動で考える。

例えば、学級でイベントをしようという時。

多くの子どもが関われるのが、飾り付けのような作業である。


一方で、全体の進行を考えたり、決断をするのはリーダーの仕事である。

また、必要なプログラムを書いてくるなども、誰か一人の役割になる。

必要なモノづくりなども、結局は一人に頼ることも多い。


それら、孤独に行ったものが集まって、一つのイベントを成功させる。

そう考えると、チームに参加して貢献するには二つの方向性がある。


一つは、みんなができることを自分もやること。

最も人手がいる箇所であり、貢献できる。


もう一つは、誰もやらないことを一人でやること。

責任も重いし孤独な作業だが、貢献度も大きい。


いけないのは、逆の発想をしてしまうことである。


みんなができることを一生懸命やっている人が、どうして自分は〇〇さんみたいに特別なことができないのかと悩む。

逆に、一人の分担を頑張っている人が、何で自分だけがこれをやらなければならないのかと、卑屈になる。


自分のやっていることに自信をもつ。

それぞれの役割であり、やっていることに間違いはない。


バカボンのパパ曰く

「これでいいのだ」

である。


即ち、真のチームワークというものには、独立独歩が求められる。

各自の分担に責任をもってこそチームワークは成り立つ。

その中で、いつまでも孤独にメンバーを信頼して励ますのがリーダーの役割である。


そう考えると、学級担任は、周りに何を言われても子どもを励ますのが仕事になる。

孤独な作業で周囲に理解もされず、辛いことも多いが、それが役割である。


チームワークは、単なる足並みを揃えることではないと考え、書いてみた。

2020年12月29日火曜日

睡眠、栄養、運動 最優先事項はどれか

 前号に続き、元気に働くことを考える。

栄養と運動について。


栄養と運動は睡眠とも連動する。


適量を食べていれば頭も身体もよく働くので、運動をやろうという気にもなる。

よく動けばお腹が早く空くので、夕飯も早くなり、寝るのも早くなる。

全てが好循環する。


逆に言えば、三つの内のひとつが詰まることで、全てが詰まる。

食べ過ぎれば寝つきが悪くなり、体を動かすのが億劫になる。

寝るのが遅くなれば何もかもが面倒になる。


そう考えると、3つの内、運動は一番捨て置かれがちである。

運動をしなくても、今すぐ直接的な害悪は出ない。

その代わり、運動の不足だけは、蓄積していく。

睡眠や栄養と違い、負債の返済が難しい。

これはこれで怖いことである。


どこから手を付ければよいか。

学校の教員というのは、割と栄養面については何とかなっている。

例え食事を作らない一人暮らしの人であっても、無敵の「給食」があるからである。


気合いの入った運動は、栄養と睡眠が揃ってからでもよい。

学級担任であれば、運動しないで過ごす方が難しい。

歩くことを意識的に増やすだけでも十分である。


そう考えると、やはり、睡眠の一点集中である。

教員の健康を蝕むものへの対策としては、睡眠不足の解消を筆頭に挙げるべきである。


つまりは、早く帰ることである。

〆切をつけて、早く帰る。

無理矢理にでもそうなる工夫をする。

(実際、そうさせてもらえない状況に追い込まれていることは百も承知での提言である。)


健康の3大要素を考えても、やはり教員にとって最優先事項は睡眠であり、退勤を早くすべし、という結論である。

2020年12月27日日曜日

睡眠最優先の仕事術

元気に働けるということについて。


元気に働き続けるには、誰しも知っている通り、運動、栄養、睡眠の3つが大切である。

それらの不足を「精神力」という根性主義で何とかしようとすることはできるが、単に体の悲鳴を無視しているだけである。

いずれその代償を払う日が必ずくる。


特に犠牲にされがちなのが「睡眠」である。

睡眠不足と酔っ払いの脳の働きは同程度かそれ以下というデータもあるぐらい、睡眠不足はだめな状態である。


それを防ぐためには、拙著『捨てる!仕事術』でも書いたが、「定刻で帰る」と予め決めておくことが大切である。

それは、健康であることに直結する。

健康であることは、職務上の責務である。

不健康は非能率と不機嫌にもつながるので、周囲の人にも何かと迷惑である。


つまりは、健康であろうと努力することは、仕事に誠実な証である。

「定刻で帰る」=「仕事に誠実」という図式である。

これをまず学校の常識にする必要がある。


さて、私も現実を見ない馬鹿ではないので、学校の(無駄な)職務の多さはよくよく知っている。

そして出る言葉は「私のこの膨大な仕事量を、時間内に終わらせるなど無理」。

しかしながら、これは、完全な「幻想」である。


なぜ「幻想」などとひどいことを言うか。

次のことを問えば、はっきり幻想とわかるからである。

「それは日本中の誰がやっても、本当に時間内に終わらせることが無理だろうか。」

ここに対し、ほぼ100%「できる人ならできる・・・」と答えるはずである。


そうなれば、「私」のやり方に原因があるといえる。

こんなに一生懸命やっている「私」に原因があるなんて言うとは、本当にひどい話である。

そんなことを言うのは、血も涙もない人間である。


しかしこれは全くの逆、誤解で、一生懸命やっていないと言っている訳ではない。

一生懸命で何とかしようとしていることに問題があると言っている訳である。

何度も書いているが「一生懸命」「真剣」などというのは多くの職業人にとって前提であり、何ら誇ることではない。


拙著にも書いたように「予め決められた枠の中で考える」という習慣をつけることが大切である。

タイムリミットがないと、どうしても仕事の濃度は薄まる。

時間があると思うと、無駄なこと、やったら多少の意味はあるが、やらなくても問題ないようなこともやるようになる。


人間の脳には、「空間補間効果」といって、自然に隙間を埋めようとする習性がある。

マスクをしていれば、勝手にマスクの下の顔を想像する。(それも都合よく。)

マスクをした姿を本人の顔だと認識する人はいない。

空間を脳内で勝手に埋めてしまうのである。


これは、仕事と時間の関係にも適用される。

定まった仕事量に対し、脳が残り時間をどう認識するかである。


学級担任を想定して、16時から日々の残りの仕事に取り掛かれるとする。

残り10という量の仕事が残っているとする。


20時までに終わらせようと思うと、単純計算して1時間あたり2.5ずつ処理である。

しかし実際は、1~2時間ぐらい「休憩」「リラックス」と称してだらだらしてお喋りをしてしまう。

結果的に、1時間あたり5ずつぐらい処理することになる。

この1時間あたり5の作業量は、18時までに終わらせようと黙々と一気にやっている人と同じである。


17時までに絶対に退勤しないとならない人はどうなるか。

1時間で10である。

これを、工夫して一気にやることになる。

あるいは、元々無理と認識し、事前に2ぐらい処理するとか、緊急でないいくつかは後日にして諦めるとか、そういう工夫をする。

結果、17時には実際に帰ることができる。


ところで、22時まで残れると思うとどうなるか。

さすがに、3時間以上だらだらすることはない。

代わりに、いくつかだらだらした上に、余計な仕事を思いつき、仕事量を11とか12に増やしてしまうのである。

あるいは、10とは別のことをしだす。


結果、「今日も一生懸命22時まで働いた」ということになる。

典型的な昭和型「24時間働けますか」のビジネスマンモデルである。

戦後間もない焼け野原状態から高度経済成長期には正解だったと思うが、もう、令和なのである。

令和から見た昭和は、平成の時からみた大正時代である。

時代遅れとかいうレベルを越えて、進化の有無の問題である。


「アフター5」の用事があると、否が応でも仕事の濃度が高まる。

(もはや世の中は働く時間すらも固定化されておらず、この言葉自体が昭和時代までの死語である。

それが普通という教育現場の働き方は、果たしてよろしいのかを検討すべき時であると思う。)

例えば5時半までに保育園へ子どもの迎えという用事がある人が、残業できる訳がない。

何がなんでも5時に退勤するしか選択肢がないから、帰れるように工夫して終わらせる。

当然である。


事前に決めることである。

セミナーでも本でも何度も紹介しているが、事前に手帳、あるいはスマホのスケジュールに予定を書き込む。

特に退勤時刻と入眠時刻を入れてしまうことである。

予めスケジュールしておくと、17時以降の余白から22時の就寝までをどうしようか、考えだす。

日々の余暇として、自分のための時間や、友人との交流などの楽しい予定を組むことができる。


さらに、一度工夫しだすと、工夫された状態が習慣化するので、通常の仕事の処理速度が加速する。

必要な仕事に全力を注ぐ分、余計な仕事に余計な時間をかけなくなる。

(学級担任でいえば、基本的に子どもの成長や幸せに還元できる仕事が、本当に必要な仕事である。

各種アンケートや調査の処理、研究会等の発表資料の完成度を上げることに一生懸命時間をかけても、無意味である。)


仕事の精選が習慣化すると、日々、自然と終わってしまう状態ができていく。

そうすると、他の「緊急ではないけれど重要な仕事」を時間内にできるようになり、より力量が高まる。

これが、管理職が部下に最もして欲しい「自己研修・研鑽」に当たる部分である。

続けていれば、もっと仕事が早くなっていき、職場に貢献できるようになる。

正のスパイラルである。


話を戻して、どうやってそれを作るかは、元を辿れば、適切な睡眠である。

まず、寝る時刻を決める。

起きる時刻も決める。

起きている時刻の内、食事や入浴など必須の生活と仕事の時間を差っ引いたものが、自分の余暇である。

それしか与えられた時間はない。

そこをどう使うかである。


休日も同様である。

休日に朝寝坊した分は、その日の入眠を遅らせるため、結果的に翌朝の負債と化す。

「休日に昼までたくさん寝たからリセット」は、幻想である。

リズムが滅茶苦茶になって、余計に身体が疲れることになる。

朝無理矢理にでもきちんと起きて、途中で昼寝を楽しんだ方が100万倍よい。

(学校でも、午後まで勉強するなら、毎日20分程度の昼寝タイムを日課の中に設置した方が本当はいいと思う。)


元気に働くには、まず睡眠。

睡眠だけは絶対に犠牲にしない。

その大事な大事な仕事が終わらなくても、世界は滅亡しないし学校も潰れない。

本人が過労で倒れて死んでしまうよりずっとずっとずっといい。

これが各種病気になりがちな現代の教師に対する、仕事術の要点であるという、確固たる持論である。

2020年12月25日金曜日

働きたくない職場をどう考えるか

前号では,働けることへの感謝について書いた。

しかしながら、そうは思えないという場合の方が一般的ではないかと思われる。

次のようなニュースが報じられていた。

「公立校教員の精神疾患休職が過去最多 業務の増加、複雑化が一因か」産経新聞

https://www.sankei.com/life/news/201222/lif2012220037-n1.html


今号では現実的に、仕事に感謝できない時を考える。


次の資料を参考にしてみる。

平成30年労働安全衛生調査 【労働者調査】1 仕事や職業生活における不安やストレスに関する事項

https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/h30-46-50_kekka-gaiyo02.pdf


この調査で「強いストレスとなっている感じている事項がない」を選んだ人も41.7%いる。

半分近くは、特にストレスを感じていないということである。

仕事に対しては、二極化が起きていると考えられる。

だとすれば、色々と話が噛み合わない訳である。


この調査で「ストレスを感じている」と答えた人の中の、要因ワースト3の順位をつけてみる。

1位 仕事の質・量(59.4%)

2位 仕事の失敗、責任の発生等(34.0%)

3位 対人関係(セクハラ・パワハラを含む)(31.3%)


こういった各種ストレスを感じている以上、感謝することは難しいと思われる。


仕事にやりがいが感じられないのに、感謝することはできない。

仕事量が多すぎて毎日納得いかない残業続きでは、感謝することはできない。

その仕事で失敗できない、責任をとりたくない状態では、感謝することはできない。

人間関係で悩みをもっているままで、感謝することはできない。


要は、仕事に素直に感謝するには、あまりに障壁が多い。

勤労感謝の日が、たまには慰労して欲しい日になってしまいかねない。


より良い職場づくりがカギである。

そのカギを握るのが「上司・同僚」の存在である。

先の調査においても、職場における相談相手はもっぱら上司・同僚である。

(それ以外では、当然ながら「家族・友人」である。)


職場の同僚性が良ければ、職場ストレスの問題の多くは解消される可能性がある。

即ち、逆も然りである。

職場の同僚性が悪ければ、些細なこともストレスになり、大問題となる。


自分の守備範囲としては、学校現場における職場の同僚性をどう高めるか。

ここが関心事の中心である。


職員間、特に学年間の「無関心」と「過干渉」の両極端二つが、ストレスになり得ると感じている。

一方その中間にある「緩くつながっている感じ」は、働きやすい。


緩くつながるための仕組みが必要である。

自分の学級だけになれば、他に無関心になる。

他学級まで自分のやり方に染めようとすれば、過干渉になる。

自分の役割・範囲をきちんともちつつ、周りにも関心をもって仲間の守備範囲にもサポート・カバーできる仕組みが必要である。

野球やサッカーの守備と同じである。


隣の学級のことをどれぐらい知っているか。

隣の学級の子どもの顔を見て、名前を全て言えるか。

隣の学級に自然に入れるか、あるいは隣の学級の担任が自然に自分の学級に入ってこられるか。


こういったことが意識されるようになれば、同僚性は高まる。

学級担任が自分だけで責任を抱え込むようでは、ストレスがたまるばかりである。

学校には、同僚性が高まる仕組みが必要である。


仕事に感謝できるようになる。

そのためには、職場の仲間が互いに関心をもつ仕組みづくりが優先であると考える。

2020年12月23日水曜日

勤労に感謝する日

 メルマガ上で勤労感謝の日辺りに書いた記事。

クリスマス前に時期外れだが、記録として転載しておく。


勤労感謝の日は、一生懸命に働いている自分が神様のように感謝される日、ではもちろんない。

私は常々「一生懸命は当たり前。努力するのは当たり前。」と考えている。

自分にも言っているし、教えている子どもたちにも言っている。

仕事や勉強に対し、一生懸命やる、努力するなどというのは「前提」であり、人様からわざわざ褒めてもらえるようなことではない。

なぜなら、努力のすべては、結局最終的には自分のためだからである。


恐らく、仕事や勉強で一生懸命やっても結果が出ずに周囲の評価がよろしくない時、

「こんなにがんばってるのに!」

という思いになる。


しかしこれは、残念ながら単なる独りよがりである。

仕事というのはとてもシビアな面があり、結果が出ないことには評価されない。

人間的には認めていても、それとこれとは、話が別である。

算数の計算のようなものであり、正解の数がきちんと出ることが求められる。

(そもそも、一生懸命やりさえすれば正解できるというのは、大きな思い違いである。)


勉強も同じで、テストやレポートでは、がんばっていようがいまいが、正誤に対し点数という結果になって出てくる。

たとえ本人の努力する過程は認めていても、誤っている、提出物の出来がよくない以上、高得点は出せない。

それはやり方を変えて結果を変えよ、ということである。


仕事における結果とは、他者貢献の度合いである。

自分に役割として求められている貢献ができているかどうかである。

そこを工夫しなさいということである。


そして私たちは、その職場や仕事そのものに対し、つい意識下で「働いてあげている」と思ってしまう節がある。

逆である。

仕事として、役割をいただき、働かせていただいているのである。

世の中に少しでも貢献することで、普段周囲から受けているとてつもない恩恵への一部恩返しをしているだけである。


世の中の役に立てるということは、生きがいの一つになる。

人間は生きているだけで「存在価値」はあるのだが、仕事をすることで「機能的価値」の面をもつことができる。

自分の能力の提供であり、世の中の役に立てているという実感である。

だから、仕事が見つからない状態、あるいはできない状態というのは、生活的な苦しさだけでなく、そういう面でも苦しい。


学級の中で、当番活動や係活動というものがある。

例えば日直の司会進行、給食当番、掃除当番、新聞やレク等の各種係、などである。

これらはキャリア教育の一環であり、学級内における自分の役割をもつことで、機能的価値を発揮できる場である。

それが結果的に「あなたがいないと困る」ということになり、自信につながる。

だから学級においては、子どもたちが役割をもち、自分たちが教室のオーナーという意識をもって運営に携わることが重要なのである。

自治的学級づくりを目指すことが、子どものあらゆる能力と自信を伸ばす基盤になる。


これは職場内にもいえる。

学年内(会社なら部署内)の職員として、自分は何が仕事として貢献できるのか。

これをそれぞれが自覚できる職場は、単なる「集団」ではなく「チーム」であり、強い。


自分一人があれもこれもできる必要はない。

自分の最大の得意分野に全力をつくして、貢献すればよい。

サッカーに例えるなら、全員がゴールキーパーとしてがんばるより、色々なポジションで役割分担するのがチームである。


自分には何も能力も取り柄もないと嘆く人なら、誰よりも動くことである。

人が面倒がること、あるいは誰でもできることを、誰よりも進んでやってみせる、やり続ける人に、人は必ず敬意をもつ。

同じくサッカーで例えるなら、下手でもとにかくゲーム中の運動量が他の誰よりも多い選手になることである。

チームへの貢献度を上げることこそが、自分の機能的価値を高める術である。


社会での役割を持てること、即ち勤労できることは、感謝すべきものである。

自分に役割を与えていただけたのである。

自分が生かされていることへ感謝する日である。


この祝日のそもそもの起こりが「新嘗祭」であり、五穀豊穣、食べ物への感謝の日である。

太陽と地球の恵みに感謝する日であり、生かされている、生きることを許されていることへの自覚をする日である。

感謝する以外にない。


本当に働くのが嫌なら、辞めてしまえばいい。

明日から来ない、やらないと言えばいい話である。

残念ながら、私が辞めた代わりに、それをやりたいという人が必ず見つかる。

再三サッカーで例えるなら、自分がレギュラーとして占めていたポジションをずっとやりたがっていた人が必ずいる。


仕事を辞めることは、現実的に可能である。

自分の意思決定で、100%決められる。

それでも働いているのは、辞める方を選ばず、働く方を自分で選んでいるからである。


例えどんな経緯であれ、最終的には、自分が「やる」と選んだ仕事である。

私などの場合は、わざわざ自分から志願して試験まで受けさせてもらって、採用してもらった身である。

もちろん、仕事をしていれば、嫌なことなど山ほどある。

ただもっとこうしたいという思いはあれど、仕事をさせてもらえることへは感謝の念を忘れないよう、意識している。

それは、他者に無暗に服従するということではなく、自ら進んで選んでいるという主体的な態度である。


勤労感謝の日は、自分が他に生かされていることを自覚する日。

仕事ができることが有難いと思えていたら幸せなことである。

2020年12月21日月曜日

話すこと・聞くことは一括りにできるか

 国語科における「話すこと・聞くこと」の評価は悩む。

話すことと聞くことが、全く異なる能力だからである。


私は、常々、それらは別々の能力で、更には聞くことが先で大切だという立場でものを考えている。

学習指導要領の記述に対しても、同様の疑問がある。


「話すこと・聞くこと」ではなく、順序的には「聞くこと・話すこと」ではないか。

インプットとしても、聞くことが先にあって、話すことが後にくる。

読むことが先にあって、書くことができるようになるのも同様である。


要は、「話すこと」と「聞くこと」の力は、一括りにできるかという問題である。


「話すこと」が得意な子どもがいる。

この子どもが「聞くこと」が得意かというと、真逆であることが多い。


「聞くこと」が得意な子どもがいる。

この子どもが「話すこと」が得意かというと、真逆であることが多い。


ものを教える時に、どちらの力がある方がよく学べるか。

これは圧倒的に、よく聞く方である。

人の話も聞かずに、話したいように話すだけなら、教える必要はない。

十分なインプットをすれば、自ずから必要なアウトプットをするようになる。


国語の大家である野口芳宏先生の言葉にも

「学力の根本は、聞く力」

とある。

二十年近く小学校の現場で教えていて、全くその通りであると実感している。


要するに、「話すこと・聞くこと」は一括りにできる能力ではないということである。

能力としては、別々に考えた方がいい。


二つの力が、関連しているのは当たり前である。

読むのも書くのも聞くのも話すのも、語彙力もすべて関連している。

しかし、能力としてはそれぞれ別である。


聞く力が高い人。

話す力が高い人。

読む力が高い人。

書く力が高い人。

語彙力が高い人。


全て兼ね備えている人ももちろんいるが、どれかだけは得意、という人も多いはずである。

(語彙力が高いのに読めないというのは考えにくいが。)


話すとか書くとかいうのは、主としてアウトプットの能力であり、表現能力である。

一方、聞くとか読むとかいうのは、主としてインプットの能力であり、理解力である。


分けて考える。

小学校のワークテストに「話すこと・聞くこと」があるが、あれは完全に「聞くこと」のテストである。

「話すこと」の力をテストにしたかったら、スピーチをさせたり面接をしたりする以外にない。


「話すこと・聞くこと」は、一括りにできない。

そう考えると、評価の仕方もわかりやすく変わってくるのではないかと考える次第である。

2020年12月19日土曜日

主体的に教えてもらう

主体性とは何か、常々考えている。


座って黙って話を聞いている。

これは客体か。


そうとも言い切れない。

主体的な座学は存在する。


意識の問題である。

「教えられている」のか「教えてもらおう」としているのかの違いである。


「教えられている」意識は、客体である。

自分はインプットされる側であり、相手に主体がある。


一方で「教えてもらおう」という意識は、主体である。

インプットしたい内容を相手から引き出そうとしている。

それは働きかけであり、アウトプットである。


自分の内側への問がないと、教えてもらおうと思えない。

わからないから、教えてもらおうとするのである。


一方で、教えられている意識に、自らへの問はいらない。

放っておいても、お願いしなくても、求めなくても、相手が教えてくれるからである。

そこに自分は関係ない。


自分が学びに行く場を考えてもわかる。

自分の問題意識があり、それを師に教えてもらいたくて、師の話を黙ってきく。

これは、極めて主体的であると考えている。

これは座学だろうがオンラインだろうが、同じである。


授業を受ける。

ただ教えられているのか。

教わろう、教えてもらおうとしているか。


この意識の違いで、学びの質は全く異なると考える次第である。

2020年12月15日火曜日

オープンな職場や学校に必要な条件とは

 「言いたいことを言っていいんだよ」

「困ったことがあったら何でも相談しなさい」

「トラブルはすぐ報告して。一緒に解決しよう。」


そんなことを言う上司や先輩がいるとする。

素敵なことである。


しかし。

実際に相談すると、たくさん小言を言われる、

単に辛い気持ちを分かって欲しかっただけなのに、ダメ出しされてアドバイスされる、

トラブルを報告すると、「何でそんなミスをしたんだ!」と怒るばかりで、一切責任をとってくれようとしない、

周りもそれがわかっていて、仲間がミスをしても黙って見ているだけで「我関せず」を決め込む。


まあ、こういうことが続いていれば、確実に風通しの悪い風土が出来上がる。


学級経営も同じである。


子どもはミスをして当たり前である。

前提である。

新しいことにチャレンジしたら、何かしら失敗する。

その責任を取るのが担任の仕事である。

子ども自身の失敗を教えてくれたら「教えてくれてありがとう」と言って解決に目を向けることである。

(ケガや公共の物品破損、紛失等の報告もこれに当たる。)


一方、責任を取りたくないとなると、何もさせないことになる。

下手なことをさせたら、管理職や保護者にも何を言われるかわからない。

細部にわたってルールを作り、それに従わせる。

言われた通りに動く優秀なロボット候補の子ども「一丁上がり」である。

(特に今の時期は、何かと規制が多いので、よくよく気を付けないとこれになりがちである。)


挑戦させるには、リスクが伴う。

そこへのリスクヘッジを十分にした上で、リスクをとる。

子どもを外で遊ばせるの一つだって、リスクである。

遊ばせなければ、まず余計な責任は取らなくて済む。


例えば、子どもを学校のグラウンドで遊ばせれば、ケガも起きる。

子ども一人当たり一日のケガの発生確率を1%に抑えたとしても、35人いれば3日に1回は誰かがケガをする計算である。


その時すべき指導は、端的に言うなら

「なるべくケガをしないように、自分が気を付けなさい」である。

鬼ごっこをして誰かとぶつかったという場合であっても「よける」ができなかったのは、自分の運動能力に責任の一端がある。

そこを自覚させていかないことには、子どもは安全に遊べるようにならない。

「〇〇ちゃんがぶつかってきた」と本人が被害者であることを主張している間は、成長しない。


その上で、ケガが起きてしまった時は、担任が対応するのである。

外で遊ばせている以上、全くケガが起きないという都合のよい状況は有り得ない。

都度「次は同じケガをしないように気を付けなさい」を伝える。

これしかないのである。


話を元に戻すと、上に立つ人間は、責任をとる覚悟が必要ということである。

責任をとるのが嫌ならば、自由を完全に奪い、ぎゅうぎゅうに管理するしかない。

しかし、実際は、きつい管理の元にこそ、大きなトラブルは発生するというのが現実である。

(例えば外で十分に遊ばせてもらえなかった子どもは、躓いて転んだというような小さなことでも、大怪我をする。)


相談できる上司や担任というのは、責任をとって解決に乗り出してくれる人である。

失敗した時に「次がんばれ」と励ましてくれる存在である。

トラブルの報告を「よく言ってくれた」と喜んでくれる上司である。

悪いことをしたのを正直に話した子どもに「ありがとう」が言えることである。

この辺りの条件が揃っていない以上、いきいきとした集団は生まれてこない。


このようなリーダーの姿勢があって初めて、いじめのような根深い問題にもやっと踏み込んでいける。

学校に限らず、陰湿ないじめが蔓延っているのなら、その集団のリーダーに責任がある。


オープンな職場、学校に必要な要素は、やはりリーダーの在り方が大きいと考えた次第である。

2020年12月13日日曜日

晴れの日の論理と雨の日の論理

 最近、感銘を受けた言葉。

私がずっと以前から尊敬しているある先生から教わった言葉である。


「晴れの日の論理」という言葉である。

これは晴れの日、つまり、順調な時に有用な論理という意味である。


晴れの日には、洗濯物を外に干すと気持ちが良い。

太陽の日を浴びて、すっきりするだろう。

他にも、晴れの日ならではのことはたくさん挙げられる。

紅葉狩りだって海水浴だって、晴れの日だからこそおすすめできるレジャーである。


一方、雨の日の論理というのがある。

雨の日は、ほこりや花粉が飛ばなくていい。

部屋で静かに過ごしたい時にも、雨のさやさやとした音が耳に心地よくていい。

アジサイは、雨あがりが一番きれいである。

他にも、雨の日ならではということはたくさんある。


これを、逆に適用してはいけないということである。

晴れの日の論理を、雨の状態の人に適用すると、非常に迷惑なことになる。

雨の日の論理を、晴れでアクティブにいこうとしている人に適用しても、やはり迷惑である。


実際の生活で考えると、いわゆるポジとネガの関係である。


辛い思いで落ち込んでいる人に対し、元気いっぱいな人が「前向きに生きていこう!」と爽やかにアドバイスしても、害悪になり得る。

辛い思いをしている人の話し相手になれるのは、同じような辛い思いをしたことのある人である。


逆に、前向きに生きて社会を自ら変えていこうと希望を抱いてがんばっている人がいるとする。

それに対し「あなたみたいなポジティブな人といると疲れる」「世の中なんて変わらないよ」などと言う人がいても、害悪である。

こういう前向きになっている人には、現場で前向きにがんばっている人がアドバイスをした方がいい。


(だから、大人が子どもの夢に対しあれこれ口出しするのは、大概害悪にしかならない。

その子どもの夢を、その大人自身は実現したことがないからである。

相談をするなら、それを実現している人にするに限る。)


この言葉を知って、私は、自分自身の言動や著作を振り返ってみて、一つの気付きを得た。


私がアドバイスできるのは、私がやってきたことだけである。

著作などを振り返ってみても、全て自分が実践してきたことだけである。


さらに言うと、私が本当にアドバイスできるのは、子どもの成長のために自分の力を捧げたいという意志のある人だけである。

「仕事で楽をしたい」「収入が安定しているから教師になりたい」「子どもの心を操作するには」という発想の人に対し、アドバイスは一切できない。

それは、そういうのが得意な人もいるだろうから、そちらの方に学ぶのがいい。

もっていないものは出せない。


ここで思い出すのが、先日のメルマガでも書いた「信賞必罰」の話である。

これは時代を越えた不変の原理である一方、傷ついている人には使えない。

傷付いている人には、指導よりも支援、ケアである。

「指導」を晴れの日の論理とすると、「支援」は雨の日の論理である。


「叱る」は晴れの日の相手には比較的きちんと届くが、雨の日の人は落ち込み過ぎてしまう可能性がある。

「ほめる」は雨の日の相手には自信を回復させる効果があるかもしれないが、晴れの日の人は勘違いする可能性もある。


人を見て法を説けという諺もあるが、これも同じである。

相手によって、適用すべき論理も異なる。


今目の前にいる人には、どちらが適切か。

人によって毒にも薬にもなる、ということを念頭において言葉を選びたい。

2020年12月11日金曜日

プロの教師を考える

 教育実習を通しての気付き。


教育実習生は、学生である。

本気で授業をしても、至らない点が多くある。

当り前である。

立派にできるレベルならば、そもそも実習自体が必要ない。


学生であり、練習期間であり、給与を頂いている立場ではない。

給与が支払われないということは、結果による責任が発生しないということである。

責任は、学生を教える正規の教員側に発生するのである。

給与を頂いている立場なのだから、当然である。


正規教員が授業をする。

授業としての合格点は、当然出る。

しかし、「合格点」というのは、「可」である。

「可」というのは、60点程度である。


プロの仕事が「可」でいいか。

職業としてはいい。

給与もきちんと支払われるだろう。

しかし、それは、プロの仕事とはいえない。


例えば、食事を作って提供するという職業。

飲食業全般がそうである。

ただ、これ自体は、アルバイトでもできる。

しかし、お客様が感動するような料理を提供する、となると、プロの領域である。

美味しいものをたくさん食べている人を唸らせるようであれば、確実にプロの仕事である。


つまり、その職業についているといっても、必ずしもプロとはいえない、ということがある。

これは、あらゆる職業についていえる。

正規教員だからといって、必ずしも本当の意味において「プロ」という訳ではない、ということである。


もっと突っ込むと、プロは、ミスをしないともいう。

「プロは絶対ミスをしてはいけない」とは、かの名選手、王貞治氏の言葉である。


プロ野球選手を見るとよくわかるが、高く上がったフライを落とすことはまずない。

プロサッカー選手でも、普通のトラップミスというのがほとんどない。

しかし、高校生や大学生の試合を見れば、別である。

例えば高校野球の最高峰である甲子園であっても、結構ポロポロ落とす。

(むしろ、甲子園のような異様に緊張する舞台だから落とすという面もあるかもしれない。)


さらにプロは、淡々と結果を出し続けるともいう。

プロになる前は趣味で楽しくやっていたことも、変わってくる。

プロの仕事には、常に結果が求められるからである。

楽しいかどうかは評価軸にはなく、淡々と結果を出し続けることが求められる面がある。


つまりその職業に就けた=プロという訳ではないということである。

新規採用者が「私はこの仕事のプロです!採用されたから!」と自信満々に宣言する姿を考えればわかる。

(そういう意識をもって全力で仕事に向かうこと自体には意味がある。)


しかし、それを笑うとしたら、何年目からならいいのか。

十年?二十年?三十年?

それ以上だと、退職が近くなっているし、多分その仕事のプロというより、管理職等の別の立場である。

その面で、職人は、プロが生まれやすいといえるかもしれない。


プロは、年数ではない。

感動を含め、具体的な結果を出し続けられるのが、プロである。

年数自体は、直接的には関係ない。


プロの仕事というのは、評価にするならば5段階の5、10段階の10を付けられる実力である。


師の野口芳宏先生の言葉を借りると、関わる子どもたちに良い「感化・影響」を与え続けられる人物である。

子どもの「向上的変容の連続的保障」ができる教師である。

そう考えると、プロの教師というのは、かなりハードルが高い。


恐らく、そんな高みを目指そうとは思えない状態の学校現場が多いのかもしれない。

今の「やるべき」で埋め尽くされた現状からの余裕を作らない限り、プロの教師は生まれてこないというのが私見である。

2020年12月9日水曜日

アラビア語で説教されたら反省できるか

 最近読んだ、次の本から。


ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治 著 新潮新書


各章のタイトルだけ紹介すると

第1章 「反省以前」の子どもたち

第2章 「僕はやさしい人間です」と答える殺人少年

第4章 気づかれない子どもたち

第6章 褒める教育だけでは問題は解決しない

・・・・


このタイトルだけでも考えさせられる内容である。


医療少年院という特殊な場所での経験を元に筆者が書いている。

筆者が対する少年(男女関係なく少年と呼ぶ)たちは、決して「特殊な子ども」たちではない。

しかしながら、小・中学校をはじめとする周囲の理解・認識不足により、奈落の底まで落ちていってしまった子どもたちである。


「反省以前」の子どもたち。

どういう意味か。


「反省」ができるのは、高度な認知能力である。

自分を客観的に見る、メタ認知能力である。(実は大人でも苦手な人の方が圧倒的に多いのではないかと思う。)

認識能力自体が欠けている、あるいは異なる認識・情報処理方法だとしたら、すべてが成立しない、ということである。


もしも物事が歪んで見えていたら、図形を正しく書き写すことはできない。

もしも話が歪んで聞こえていたら、意味を理解することはできない。


以下、私の解釈である。


例えば誰かに説明されている途中、突然アラビア語が随所に混じるようなものである。

相手がどんなに真剣に話していても、それをこちらが真剣に聞こうと思っていても、意味がさっぱりわからない。

わかりようがない。


しかし「わかったね」と言われたら「はい」と答えるしかない。

「わからない」などと答えたら「真面目に聞け!」とどやされると相場が決まっているからである。


こんなことを繰り返して生きている子どもたちが、日本中(いや、世界中)にいる。

自暴自棄にならない方が奇跡である。


学級担任をしている皆さんに思い浮かべていただきたい。

クラスに何度言ってもさっぱり反省しない、改善しようとしない子どもがいないだろうか。

いわゆる「やる気がない」子である。


そう、例の「やる気」である。

やる気はやった後に起きるものであって、やれる前には起きない。

やる気がないのではなくて、やれない。

この見方が大切である。

この可能性を考えることで、対応は変わる。


自分自身に問うてみる。

他の人にとっては容易にすぐできるようなのに、自分に大きく欠けている認識能力がないだろうか。


ひどい方向音痴。

なぜかまともな料理ができない。

字が下手。(字形が正しくとれない)

ひどく忘れっぽい。

話がうまく聞き取れない。

考えていることをうまく喋れない。

味覚が人とずれている。

物との距離感がうまくとれないで、よく頭などをぶつける。

片づけられない、捨てられない。

等々。


どれも、本人の心がけとか努力の問題ではないかもしれない。

根本が、認識能力の問題である可能性がある。

しかし、普通にできる他人から見ると「ふざけてる」「やる気がない」「努力不足」に見えるものばかりである。


もしこれがたまたま「聞く」という人間関係で重要な認識能力だったら。

「見る」という社会で最も使う認識能力だったら。

全てが歪んで見えて、雑音になって聞こえてくる世界。

恐ろしく生きづらいのが想像できる。


目の前の子どもは、やる気がないだけなのか。

あるいは、反省できないようなひねくれた性格の持ち主なのか。

恐らく、多くの場合、違うと考えた方がいい。


そうなると、手立ては変わってくる。

一生懸命教え諭しても、無駄である。

相手にとって、それはアラビア語だからである。

違う手段、方法をとる必要がある。


認識能力の矯正には、専門的なトレーニングが必要になる。

その知識を小学校教員に求めるか否かは別として、そういうものの存在は知っておいて損はない。

(小学校教員は、度重なる教育改革、ビルド&ビルドで、全方向への対応能力を求められすぎである。

全部真面目に応じてたら本当に過労と心労で死んでしまう。

もしこのまま求め続けるなら、せめて新規採用の給与額を倍にしないと必要な人材が集まらなくなるかもしれないと思う。

それは無理だろうから、今後の改革はせめてスクラップ&ビルドの方向にしていって欲しい。)


教員だって、うまくいかないことを「ふざけてる」「やる気がない」「努力不足」で断じられたら、かなり辛い。

人によって、できないこともある。

それを子どもにも認めて、対応を変える必要がある。


教室に「困ったあの子」がいる人には、特に一読の価値ありの本である。

2020年12月7日月曜日

続 信賞必罰 醒めた目と温かい心

前号の続き。

信賞必罰、醒めた目と温かい心が大切である。

しかし、この真逆をいっていることがある。


実例を挙げて考える。


子どもが、自分で考えて一生懸命何かをした。


例えば、自分のことは自分でしよう、あるいはお手伝いをしようと食器を運んだとする。


それらの行為が、結果としてうまくいかなかった、あるいは大人から見て出来がよくないことがよくある。


食器は特にわかりやすいが、うっかり落として、がちゃん!べちゃ!である。




もしここで叱ったら、これでアウトである。


これを続けば「私はできない、認められない、だめな人間だ」となること必至である。




ここは、褒めるべきところである。


挑戦による失敗だからである。


まずは運ぼうとしたことを認める場面である。


その上で、次はこうするとうまくいくよと教え、励ます場面である。




ここまで書いて、反論の声が聞こえてくる。


そんなことは重々わかっているが、頭に来るし、そんあ仏様みたいな対応できるかと。




そう、仰る通り、この正しい信賞必罰の方が、圧倒的に難しい。


表面上は「失敗」なので、大人としては心配したりイラっとしたりして当然だからである。


子どもが食器を落として壊して食べ物をぶちまけたのにも関わらず、笑顔で包み込むような対応をできる度量が必要となる。


気持ち的には釈迦かキリストか、あるはマザー・テレサ辺りにならないといけない。




だから、教育は失敗しやすい。


人間としての器の大きさが必要となる。


器の大きい大人は、どれぐらいの割合で存在できるのだろうか。


体が大きければ偉い訳ではないのに、幼児や小学生相手についひどい対応が出てしまう。


人間的な弱さ故である。




もう一つ、叱るべき時に褒めてしまったり、認めてしまったりという大失敗もある。


例えば、子どもが電車で大騒ぎしていたとする。


乗客の冷たい目線を気にして「あそこのおじさんが怒るからやめようね」と諭す。


これは「元気なあなたは正しいのだけれど、怒るあの人が間違っている」というメッセージとなる。


最悪の教育である。




これと類似した現象が学校現場でも散見される。


叱る時は、叱る側も叱られる側も他を引き合いに出さず、間違いなく「私対私」の責任でもって叱るべきである。


(第三者の大人は、子ども同士のけんかにはやたらと首を突っ込まないことである。大抵、真逆の教育になる。)




子どもは、自然に定められたように伸びる。


一方で、子どもは育てたように育つというのも真理。


子どもは、ジャングルの伸び放題の植物ではないし、かといって盆栽でもない。


光に当てて自然に伸びるのを見守りつつ、必要な水と栄養は与え、社会に適応した形に手入れをするのが教育の在り方である。


その内、それを必要としない大木に育つかもしれない。




人を育てるのは、信賞必罰。


醒めた目と温かい心。




どちらも教育の真理を突いた言葉である。

2020年12月5日土曜日

信賞必罰・醒めた目と温かい心

 教育における、褒めると叱るということへの誤解について。


褒めると叱るはバランス、というのは割と世に広がってきている。

一方、褒めてはいけない、叱ってもいけない、認めよというのがアドラー心理学の立場である。


どちらも理論としては正しいのだが、理解する側が誤解すると、どちらも誤りになってしまう。

褒めると叱るはバランスというより、使う場面次第で両者とも薬にも毒にもなり得る、というのが真理である。


ある考えは、自分というフィルターを通して自分のものとなる。

フィルターを通してどう解釈するかに全てがかかっている。

フィルターとは、観である。

観が大切なのである。


今回の話題に関連して、次の本を紹介する。


『愛と祈りで子どもは育つ』渡辺和子著 PHP文庫


著者の渡辺和子氏はシスターである。

累計200万部越えのベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』の著者といったらわかる人もいるかもしれない。


さてこの本の中に「醒めた目と温かい心」という項目があり、そこから引用する。

=================

(引用開始)

醒めた目で子どもをしっかりと見つめ、

叱るべき時には、はっきり叱り、

誉めるべき時には、しっかり誉めて、

どんな時にも子どもに変わらない愛情と、

導いていく温かさをもつ時、

子どもは、親の顔色や機嫌を見ることなく、

良いことと悪いことのわかる子に育ってゆきます。

(引用終了 改行は松尾による)

=================


教育とは、これである。

叱るべき時にはっきり叱る、誉めるべき時にしっかり誉める。

これはアドラー心理学でいう「認める」とも通じる考え方ではないか。

即ち、ある事象を「見て留める」である。


子どもは、他の動物と同様、小さな命を平気で殺してしまうことがある。

それは、善悪の基準というのが、文化的に定められたもので、教えられて初めてできることだからである。

(宗教で特定のものを食べるのが悪、と信じるということと根本原理は同じである。)


善悪の基準をもたない子どもに、それを与えるのが教育の役割である。

即ち、教育は文化的な行為であり、意図的な行為である。


ただ自然のそのままに育つ、というのは教育ではない。

もし自然のままが教育的に正しいなら、野生に放てば人間が立派に育つということになる。

完全に野生で育った場合、それは「ヒト」であっても社会的な人間とはなり得ないことを証明したのが「オオカミ少女」の実例である。


この本を読んだのと同時期に、師の野口芳宏先生が

「信賞必罰」

という話をサークルでしてくださっていた。(正確には、それを動画で見た。)

これこそが教育において大切ということである。


どういうことか。

私が話を聞きながらとった電子メモをそのまま以下に載せる。


===============

人を育てるには、信賞必罰でなくてはならない。(あるいは必賞必罰)

賞=ほめること

信=まこと

褒めるに値することを必ず褒めること。

叱るべき時には、遠慮せず叱る。

これは時代を越えた教育の原理。


何でも耳に心地よい言葉しか受けずに育った子ども。

社会はそうでない。


ただし、ケアの心も大切。

苦しんでいる人に信賞必罰は必ずしも当てはまらない。

相手の人格を尊重し、ケアする心遣いも必要。


信賞必罰とケアの両方を。=公平無私

これを日常生活の指針に。

その一日一日が積み重なること。

人生が慈悲に彩られる。

================


この逆をいかないことである。

褒めるに値しないことを褒めれば、子どもはそれがいいことと勘違いをする。

叱るべきところを叱らずにいれば、子どもはそれが悪いことではないと勘違いする。


もっとよくないのは、褒めるべきところで叱り、叱るべきところで褒めること。

こうすれば、自尊感情が傷ついた、受け身のひねくれものの出来上がりである。


そうしないためにはどうするか。

次号で続きを書く。

2020年12月3日木曜日

やる気いらない説

やる気を起こすにはどうするか。

自分のかつての著書のタイトルにもあるように、長年の関心事である。

最近でもこのテーマで何本か記事を書いて、ますますよく考えるようになった。


その中で辿り着いた一つの考え方は

「やる気の有無はどうでもいい」

というものである。

今回提案するのは「やる気いらない説」の考え方である。

(一応前置きしておくと、全ての方法は万人共通ではないので、数ある考え方の内の一つである。)


やる気はたくさんの人の関心事であり、どうでもいいはずがない。

それはわかっている。

しかし、それでも、どうでもいいという考えに基づいた説である。


どういう考え方か。


やる気を「物事を自らすすんで実行しようという気持ち」と定義する。

諸説あると思うが、自分として一番しっくりくるので、ここではそう定義する。


まず、多くの人が進んでやる気を起こすことは何かと具体的に考えてみる。


例えば、ゲームをすること。

放っておいてもやるどころか、禁止されていても何とかやろうとする。

何時間も熱中する。

文句なしにやる気を起こすものの一つである。


例えば、飲酒。(あるいは、甘い物など、好きな物を食べ過ぎるほど食べることでもいい。)

飲まなくていいのに飲む。

身体にもお財布にも優しいといえないほど、進んでたくさん飲む。

アルコール中毒でなくても、毎日のように飲む人がかなりいる。

翌日に支障をきたすほど飲む。

これも、かなりの「やる気」を起こしているといえる。


ネットショッピングもそう。

趣味の読書や音楽、車いじりやコレクションなどもそう。


他にも諸々、やりすぎてマイナスになるほどにやる気を出してしまうものは、身の回りに溢れている。

もし何もなくても、SNSを数分眺めていれば、それらのあらゆるやる気を引き出しまくってくれる。


もう既にこの時点で、やる気はない方がいいのではないかと思ってしまう。


しかしここで多くの人からツッコミが入る。

「勉強やエクササイズのような、役立つものへのやる気が必要なのだ」と。

その通りである。

では、ここについて考える。


なぜゲームのように勉強に没頭しないのか。

なぜ飲酒のようにエクササイズに没頭しないのか。

両者の違いは何なのか。


違いの一つは、やる気が出やすいものの方は、単に楽しむためのもので、かつ他者からの達成目標が義務付けられていないものばかりである。

ゲームにはクリア目標が無数にあるが、誰に強制された訳でもない。(そもそも達成目標自体はゲームの要素の一つである。)

飲酒時にはここまで飲むべしという規定もないし、誰も毎日飲めとは言っていない。

ただ、楽しんでいるだけだから、延々とやる。


一方の勉強やエクササイズには、自分を含めた誰かしらに義務付けられた達成目標がある。(場合がほとんどである。)

すると自分の中で「やらねばならない」という強迫観念が働く。

「やれば後々いいことがある」ということ自体はわかっている。

しかし、どこか「ねばならない」という義務感があるのである。

あまり楽しんでいないといえる。


逆に考えれば、その楽しさと義務感さえなければ、両者は「行動」という点では同じである。

ただただやっている状態。

ゲームに没頭し続けている時、飲み続けている時と、これはほとんど同じ状態である。

やり続けると体が疲れる、眠いなど、それなりに苦痛が伴っている点も同じである。


では、どうすればいいのか。


一つは、何も考えないことである。

やる気を出そうとかしないで、やる。

ただ、これがあるからやる。

それだけしか考えない。

考えれば考えるほど、やれない言い訳、やることによる苦痛を探し出すからである。

元々楽しいと思っているものではないのだから、考えるだけマイナスである。


洗い物などはわかりやすい。


やる気が出るまで置いておくと、溜まりまくる。

「今は食べた後の幸福感を無駄にせず味わいたいから」「次のものと一緒に一気にやった方が時間の節約になる」等々、非論理的な理由を並べたて始める。

結果、いつまでたっても、やらない。

一人暮らしなのに食器が結構な数あるような人だと、尚更やらない。

(家族がいる人は、強制力が働くので、どこかで必ずやる。しかし、他の誰かしらがやってくれるとなると、毎回やらない。)


一方、「食べ終わる→洗う」という流れを、自分の中で無思考で行うルールにしておけば、洗い物は終わる。

その時、途中で何も考えないことがコツである。


長くなったので、それをどうやって身に付けるか、ということを次号で考えていく。

2020年12月1日火曜日

理想形の例外を認める

 前号の続き。

良い理想形にも、落とし穴がある。


良い理想形を抱き、それを広げていくことは必要である。

しかしながら、それにより「同調圧力」という言葉に示されるように、「良い」「正しい」が押し付けられる可能性がある。

そうなってくると、元々は良かったはずのものも、やはり害悪と化す。


昨今の「自粛警察」などはそのわかりやすい例である。

他人への感染防止に気を払うこと自体は大変いいことだが、これを他に強制し始めると、おかしなことになる。

つまり、自分がやっている、できるからといって、他人にその価値観を押し付けることが間違いの元である。


前号で「良い習慣」として紹介した、整理整頓を例に挙げてみる。

実はこれとて、気を付けないと害悪にもなり得る。

世の中には、整理整頓が本当にできないという人がかなりいる。

ふざけている訳でもやる気がない訳でもなく、できないのである。


そういう人が一定数いることを理解しているのであればよい。

しかしながら、それが共通理解されていない場合、周囲は同一を求めることになる。

「何でできないの!?」「また散らかして!」という怒声とともに正義が振りかざされる。


冷静になって考えてみれば、周りの人には余裕でできるのに、自分にはできないことというのは、かなりある。

逆もあって、周りの多くの人にとっては苦手なことなのに、自分は大した努力もせずにすいすいできるということもある。


前者が、助けてもらうところで、「助けて力」発揮ポイントである。

後者は、助けてあげるところで、「任せて力」発揮ポイントである。

多様性の尊重、互恵の関係である。


例えば私は、子どもの頃から忘れ物が多い。

更に言うと、物忘れが多い。

別に病気とか大げさな話ではなく、昔から忘れっぽい性質なのである。

(代わりに、嫌なこともすぐ忘れる。)


自覚症状があるから、付箋メモや手帳、スマホのメモ・カレンダー機能は欠かせない。

更に、周囲の人の記憶力に頼ることもしばしばである。

(大概、いつでも、頼れる人が偶然そばにいる。)


きちんとした人にとっては「だらしない奴だ」と思われるかもしれない。

しかし、それが自分であると自覚している。

そうすると、自分に合ったうまく生きる術が身に付いてくる。


この自覚があると、他の人の欠点にも寛容になれる。

あらゆる他人の欠点も「自分よりはまし」とも思える。

相手もそう思ってくれていれば、なお有難いことである。


あらゆることに、この原則は適用される。

全員が同じようにできることなどない。

(あったら気持ち悪い。)

どんな簡単に見えることであっても、ある人にとっては困難なのである。


学校現場でよくあるのが「人前で発表できない」というものである。

ものを言おうとすると、過度に緊張するらしい。(場合によっては、固まる。)

そういう子ども(または大人であっても)に無理に発言させることはできないし、そこを矯正しようとする意味はない。

意見を書いてもらうとか周りが助けるとか、代わりの手段を用いればいいだけの話である。


過度に動く子どもというのもよく見られる。

これも、動きを制限することはできない。

動くものは動く。

他の子はきちんとしてるでしょ、などと比較して説教しても、できないものはできない。

その子どもが動いても問題ない環境を作る方が賢明である。


さて、これらの特質を認めるにあたり、前提がある。

前号までに大切だと言ってきた「当たり前」「常識」「理想形」の在り方である。


滅茶苦茶に散らかった教室の中だと、その子どもの特質を見抜けない。

集団の多くがだらしないので、その子どもも単にだらしない中の一部にしか見えない。

分からないので、支援できないということになる。


基本的にぎすぎすした雰囲気の中だと、緊張して発言できないという特質の子どもが見抜けない。

単に何を言っても嫌なことを言われるから言わない、という子どもが多数出るためである。


授業中に私語が飛び交い、誰彼構わず勝手に遊びまわる教室では、動いてしまう子どもへの支援はできない。

当り前基準が真面目に授業を受けるという状態だからこそ、動き回る子どもへの対応も、みんなで一緒に考えられるのである。


「滅茶苦茶な方がそういう子どもが目立たなくていい」という見方もあるが、それでは教育にならない。

本人の特質を見抜き、それに合った生き方を考えていくことが大切である。

うまくできないことを自覚できれば、対策の立てようがある。

単に滅茶苦茶な環境だから目立たない、となると、そのまま育つことになる。

結果、自覚症状も自信もないまま大きくなるので、社会に適応できなくなり、本人が不幸になる。

これは、教育の敗北である。


理想形をもつこと。

その上で、理想形に全く当てはまらない人も認めること。

この両立が必要である。


「清濁併せ呑む」という言葉があるが、世界の在り方からしてこうである。

世界にはS極とN極があるように、プラスとマイナスが両方存在して成り立っている。

理想を抱きつつ、一見マイナスに見えるものも許容し、それすら必要と思える教室を作っていきたい。

2020年11月29日日曜日

良い理想形を示す

 前号の続き。

同調圧力の利用について。


同調圧力は、そのチーム内の「常識」からくる。

常識だからこそ、そこから外れないようにしようと力がかかる。


つまり、良い常識を作り上げることさえできれば、良い方向に力が働くというものである。

例えばかつて災害時、日本人が混乱せずに整列することが、世界のニュースになった。

日本人にとって、整列して待つのは常識である。

みんなが困っている時に、並ばずに我先に、というのが日本では常識外れである。

そういう望ましくない行動が、日本の常識の力によって制限されたといえる。


学級内でも、常識、当たり前のラインをどこに設定するかで、学級が変わる。

望ましい常識を作り上げる働きかけに成功さえすれば、後は自動的に良い行動が増えていく。


例えば、整理整頓。

常にするのが当たり前になっていれば、乱れているのが放置されなくなる。

物の紛失も減り、トラブルが減る。


例えば、落ちているものを拾うこと。

床に落ちているものを拾うのは、「一苦労」である。

やらない方が楽である。

だから、大方の人は、やれない。

これを思考時間0秒で拾えるようになれば、学級は劇的に変わる。

(しかしながら、これはかなりハードルが高い。)


例えば、困っている人を助けること。

困っている人を馬鹿にするのが常識になっている状態とは真逆のことが起きる。

助けても別にほめられないし、すごいとも言われない。

代わりに「ありがとう」「どういたしまして」が互いにさらっと出てくるだけ。

理想形である。


良い理想形を示すこと。

リーダーの役割は指針を示すことだが、学級担任にはここが重要である。

掃除用具箱と用具の在り方一つにとっても、理想形を示しているのとそうでないのとでは、雲泥の差が出る。

(だから、視覚情報に訴える写真掲示は効果的である。)


どんな常識を示しているか。

初期状態は、学級担任の背中で全て決まる。

子どもの色を出すのは、その後でも十分と考える次第である。

2020年11月27日金曜日

同調圧力は使い方次第

 他人と近づく空間では、必ずマスクを付けるようになった。

誰しもが、そうする「当たり前」の話である。


なぜマスクをするのかというと、自分の身を守るためでもあるのだろうが、他人のためにもなる。

周りの人の安全・安心のためである。

手洗いもそうで、自分のためだけでなく、他人のためでもある。


みんながそうしている。

これは、みんなが他者への思いやりがあるから、と思いたい。


しかしながら、そうではないのかもしれない。

空気である。

そうしないと、自分が白い目で見られる、という意識である。

同調圧力というものである。


そう考えると何だかよくないもののように聞こえるが、これは意味がある。

同調圧力は、心の在り様に関係なく、一定の行動を引き起こす。

(逆にここへの反発心が強い人は、そのせいで無益な諍いを起こす傾向もある。)


ところで、「心の教育」が叫ばれて久しいが、一向に望ましい効果が出ていない。

それもそのはず、心というものが外部から変化させられるものではないからである。


一方で、行動というものは、心とは別に外部からの働きかけで変化が起こせる。

卑近な例を挙げると、優先席が必要と思われる人が近くにいる場合、そこにほとんどの人は自ら座ろうとしない。

「常識」的に考えて、周りの目が気になるのが「普通」だからである。

それは優しさとはまた別の話である。


常識や同調圧力は、本人が道徳的であるかどうかとは無関係に、使い方次第で社会的に望ましい行動を引き起こすことができる。

ここが一つポイントである。


要は、どこを変化させるか、というところである。

心のようにコロコロ変わって、かつ外からは支配・コントロールができないものがある。

そこを直接どうにかしようとするから、無理が生じる。


変えられるのは、行動である。

道徳的どうこうは関係なく、慣習に沿って動いている。

新しい慣習ができれば、そこに合わせた新しい行動様式をとる。


いじめの認知件数がまた増えて、過去最多54万人ということでニュースになっている。

ちなみにこれは文部科学省が発表した

「平成30年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について」

からの数である。

大分正しい認識が広がったが、学校が陰湿化している訳ではなく、些細なことでも学校が取り上げるようになった「成果」である。

その意味では、以前よりも学校が開かれた明るい場になっているともいえる。


このいじめ行為をなくしたいと、誰しもが思う。

だから心を教育しようとする。

ここに無理が生じる。

心は外的に変化させることはできない。


ここに、先の同調圧力をプラスに使えればいいのである。

「人をいじめて楽しむ人とか、かっこ悪すぎる。信じられない」という常識である。

「いじめ」が常識からの逸脱行為になっていれば、「おいおい、あなた空気読みなさいよ」ということになる。


そこをプラスの同調圧力にするためには、助け合いがスタンダードになっている必要がある。

「人を助ける・親切にするのは、普通」という状態である。


それをずっと遡ると、「仲間の物が落ちていたら拾ってあげるのが普通」という常識がある。

さらに「何かしてもらったらありがとうを言うのが普通」「人にはあいさつをするのが普通」という常識がある。


それらの些細なことから逸脱していくと、少しずつ逆の方向にいく。

先のように「弱い人をいじめるのが普通」という誤った状態になり、同調圧力が違う方向に働いてしまう。

一番落ちた状態が、正しい行動をとる人を「いい人ぶって」「かっこつけちゃって」と排除していく状態である。

変な同調圧力がかかって、あらゆる正しい行動を取りにくくなる。


これは教室だけでなく、荒れた職場など社会全体でも、この原則は同じである。

「悪ぶっている」人が幅を利かせているのは、多くの人にとって生きにくい状態である。

(だから、テレビのようなメディアに出演する人の言葉づかいやふるまいが、教室の子どもに与える影響は大きい。

人気がある=社会的にそれが「よし」とされている、ということを学ぶからである。)


同調圧力自体に善悪はない。

それよりも、この強力な同調圧力をどちらの方向に使うか。

学級経営においても有用な視点である。

2020年11月25日水曜日

誰しもが、やるからこそできる子

前号で、やる気について、私は次のように書いた。


====================

子どもの立場に対してアドバイスできること。

「誰かが自分のやる気を引き出してくれる」

「上手に教えてくれたら自分は勉強ができるようになる」

という幻想を一切捨てることである。

真実は「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」である。

自らの手足を動かしてやることでしか、できるようにはならない。

=====================


ここの

「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」

について「間違いではないか」とご指摘を受けた。


間違いではないのである。

しかしながら、誤解を生む表現だったことに気付いた。

熟読していただければわかるかもしれないが、それを読者に依存するのは、書き手の甘えである。

わかりやすい解説が必要である。


「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」

この言葉の真に指すところは、次のような意味である。


やればできるは、やっていない証。

やってみたら、できないということもあるかもしれない。

それが怖い。

だから、やらない。

いつまでも、やらない。

やりさえしなければ、いつまでも自分の「可能性」を示せるからである。

つまり「やればできる」は、卑屈な言い訳なのである。


これをひっくり返して肯定的な表現に直すと

「誰しもが、やるからこそできる子」である。

やるから、できるのである。

やってもすぐにできないこともあるかもしれない。

むしろ、その方が圧倒的に多いだろう。

だけど、やり続けることはできる。


つまり、やり続ける限り、できる可能性が、永遠に広がるのである。

本来のポジティブな表現にするならば、「やり続けていけば、いつか必ずできる」である。

この確信をもっているのは、継続にとって大変に意味がある。

この言葉を用いる時、本人は既にやっているというのが最大のポイントである。


やったらできるかできないか。

そんな保険をかけてやるかやらないか判断するようでは、到底できるようにはならない。

できるかできないかという結果など脇に置いておいて、やる。

失敗するからやりたくない、絶対できる保証がないからやらない、という人間が、果たして大成するか。

子どもの頃だからこそ、肚の底へ叩きこんでおきたい真理なのである。


「やればできる」とは、いつまでもやらないための、永遠の言い訳にしかならない。

できるかどうかは、やってみてから考えればいいのである。

十分にやってみてから判断すべきことである。

やる前からやればできるか否かなどと考えることが、行動のストッパーになっているのである。


私は、吉田松陰が黒船への密航を企て失敗した後の次の言葉が、人間の生き方としての真理を表していると思っている。


かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂


例え、うまくいかないと結果がわかっていることであっても、やる。

それは、やるべきことだからである。


ただし、それは全員がそうすべき、ということではない。

吉田松陰の生涯を見てもわかる通り、それは傷付く生き方でもある。

得をしない生き方である。

人間は、基本的に楽をしたいし得をしたい。

だから、おすすめはできない。


それでも、そうやって生きようとする人間を、潰さずに育てたい。

それが嫌だという人は、そういわれても、きちんと避けるであろうと思う。

それでいいと思っている。


誰しもが、やるからこそできる子。

この確信こそが、教育にあたる者に必要な心構えでないかと考える次第である。

2020年11月23日月曜日

勉強へのやる気が出る方法は存在するか

 やる気を出すにはどうするか。

勉強ができるようになるにはどうするか。


こういった質問を受けることが、最近特に多い。

直接受けることもあるし、メールでもちょくちょく来る。

多くの人の関心事であり、悩みなのである。


これに答える前に、誰が悩んでいるのか、ということも考慮しなければならない。


教える側なのか。

親なのか。

本人なのか。


さらには、自分の悩みなのか自分以外の他者の悩みなのか。


これによって、回答は全く異なる。


先に言うと、他者の悩みは、周りが悩んでもどうにも仕方ないことが多い。

そもそも本人の問題になっていないからである。

この場合は、申し訳ないがどうにもできないと答えるしかない。


本人の在り方について悩んでいる場合である。

自分がそこに関してどうあるべきか悩む、ということには、多少なりとも相談を受けることはできる。


教える側に言えること。

やる気に関しては、自分自身を内発的に動機付ける以外にない。

自分は何のためにこれを教えるのか、何を目指すのか。

ここがはっきりしないのにやる気が湧くのは難しい。

(娯楽のように、単なるレジャーとして楽しめるなら別である。)


親という立場の人に対してアドバイスできること。

自分自身に対してやれることをやるしかない。

子どもに「やらせる」という発想をもっている間は、何もできない。

子どもが親に求めることは、勉強を教えてくれることでも、勉強へのやる気を引き出させてくれることでもない。

親の役目は、外で精一杯がんばっている子どもにとっての、安全・安心の補充基地である。

自分の在り方として、どういう親だとそれが果たせるか、考えてみてくださいと伝えるぐらいしかできない。


子どもの立場に対してアドバイスできること。

「誰かが自分のやる気を引き出してくれる」

「上手に教えてくれたら自分は勉強ができるようになる」

という幻想を一切捨てることである。

真実は「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」である。

自らの手足を動かしてやることでしか、できるようにはならない。


子どもによく言って聞かせる諺がある。

「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」

これが真実である。

教える側や親のできることは、水辺に連れて行くこと、つまり環境の提供までである。

実際の行動である水を飲む、という行為は、完全に主体的な行為である。


この辺りの甘えというか勘違いが、教育の世界に蔓延しているように思えてならない。

学習塾への考え方についても同様で、難関校に多数合格者を出している塾が、我が子の頭を良くしてくれる訳ではない。

それはあくまで、水辺の一種である。

教え方がものすごい訳ではなく、難関校を目指すような子どもが集まる水辺なのである。

その水が本人に合っているかどうかは、よくよく考える必要がある。


拙著(共著)『やる気スイッチ押してみよう』も、第一章の冒頭に書いたのが

「主体変容・率先垂範」である。

これがすべてのベースである。

本を読んでやる気が出るかどうかは別として、本を置いてでも早く行動せよと書いているのである。


解決方法は、自分の中にある。

古来より言われる、普遍の原理原則である。


2020年11月21日土曜日

人間関係がすべて

 前号書いた通り、人間は周りとの関係でペルソナを付け替える。

これは、当然教える側、担任自身にも当てはまる。


ある意味、役割演技である。

新卒という役割と学年主任という役割で、演じ方が変わるのは当然である。

管理職と他が一緒の役割演技では困る。

幅はあれど、それ相応のものが求められる。


学級担任に絞って考える。

学級担任として、望ましいペルソナを出すにはどうするか。

ペルソナは関係性で決定するので、どういう関係性が望ましいかを考える。


これはいつもの逆思考発想で、望ましくないペルソナと、それを出さざるを得ない状況を考えればよい。


例えば、やたらと細かくて強制・統制的なペルソナが出る場合。

担任が、周囲にそれを求められている場合がある。

「もっと厳しくしてくれないと」

「周りに合わせて」

「もっと細かく見てください」

これらの要望が強いと、本人が本来どうこうに関わらず、統制的なペルソナが出やすい。


例えば、暖簾に腕押し、全然やる気がないようなペルソナが出る場合。

「がんばっても無駄」

「言われたことを黙ってやればいい」

「余計なことをしないでください」

こういった声かけや職場風土がある場合、このペルソナが生きやすい。

一生懸命やっても「目立とうとして」「鬱陶しい」と浮くだけである。


平たく言うと、一般的にも望ましくないペルソナが出るのは、その場の人間関係に信頼感がない時である。

出したい自分をペルソナとして出そうとすると、損害を被ると予想される関係である。

子ども同士でも同様だが、安全・安心がベースにない限り、他者貢献より自己防衛を第一に考えるようになる。


総じて、望ましいペルソナが出る場とは、人間関係が良い場、これに尽きる。

互いが他者貢献をしようという風土。

自ら動いた時にそれが認められる風土。

仲間が失敗してもお互い様、挑戦して失敗しても大丈夫と励まし合える場。


担任の元気は子どもから、と思いがちだが、実はその考えでは不十分である。

管理職をはじめ同僚の重要性はかなり高い。

また、保護者が担任をどのように見守ってくれているかも大きい。

どちらも、いちいち細かく口出しされ、批判されるようだと、防衛的なペルソナを付けざるを得ないからである。


つまりは、人間関係が全てである。

良い仲間に恵まれること。

その良い仲間の一人に自分がなろうとすること。

学級担任としての望ましい在り方と子どもへの教育は、その本質においては同様である。

2020年11月19日木曜日

ペルソナは集団で決まる

教育に関連する心理学の話。


個人の性格は、集団の人間関係で決まる。

だから、この人はこういう性格、とは言えない。


正確には「○○と一緒にいる時はこういう性格」である。


当り前だが、子どもが家庭にいる時と学校にいる時は、別人である。

例えば家庭だとぐずぐずでわがまま放題だが、学校だと品行方正、やる気と思いやりに溢れているという子ども。

これは、子どもが嘘をついているのではない。

その場にあった仮面(ペルソナ)を付け替えているだけ、という考え方である。


ちなみに、ペルソナというのは有名な心理学者のユングが提唱した用語である。

この「persona」は「個人」を意味する「person」の語源でもある。

他者の前に現れる個人というのは、一つの仮面なのである。


これは大人でも同じで、社会に出ている自分と家庭にいる自分が同一だと、色々と困る。

友人の前の自分と上司の前の自分が同一だと、やはりこれも困る。

必要な場面に応じてペルソナを付け替えるというのが大切なのである。

ペルソナは偽りの自分ではなく、他者の前で必要な自分であり、それも本当の自分の姿の一つである。


余談だが、ここには「シャドウ」という概念もセットである。

他人の前に一切出さない自分である。

普段人前では抑え込んでいる自分である。


シャドウも紛れもなく自分であり、しかしながら自分としてはあまり良くないと思える個人である。

シャドウの自分は、ペルソナの自分と正反対の性質を備えていることが多い。

シャドウの自分を認めてあげないと、苦しむことになる。


社会で真面目で通っている人は、実は不真面目にしたい自分をもっているというのが健全なのである。

社会でシャドウの面を出すと受け容れてもらえない可能性が高いと思っている。(信念として思い込んでいる。)

よってこれは無暗に出さずに、しかし自分の中では否定せず認めるという姿勢が大切である。


学校だと素晴らしいのに家だと正反対で残念になる子どもというのは、家庭でシャドウの面を出せているという解釈もとれる。

それは家庭的には残念かもしれないが、社会で活躍する分にはいいのである。

家庭の本来の役目である「補充と安全・安心」という基地の役割をしっかり果たしているともいえる。

やがて成長するにしたがって、家族に対してもシャドウを出し過ぎるのは良くないと思うようになり、調整するようになる。


ちなみに、イラっとする相手というのは、自分のシャドウの面をペルソナとして用いている人である。

だらしない人にイラっとする人は、本当はだらしなくしたい自分がシャドウにいる。

自分の子どもに対してイラっとしてしまうのは、自分のシャドウを素直に出してくるからかもしれない。


話を戻す。


そう考えると、その子どもがどういう子どもであるかは、集団そのものに左右される。

望ましい個人(ペルソナ)を出しやすい集団の雰囲気を作る必要がある。


悪ぶった方が優位に立てそうな集団だと、賢い子どもほどそれに合ったペルソナを付けてくる。

逆に、真面目な方が良いことが起きそうな集団だと、それに合ったペルソナを付けてくる。


つまり学級担任は、集団にとって望ましいペルソナが出やすい環境を整えることが大切である。

真面目や他者の尊重が優遇される風土か、批判や揶揄、ふざけやいい加減が幅を利かせる風土か。

従順で黙っていることがほめられる風土か、自由闊達な意見が尊重される風土か。


授業でいうと、不真面目にやっていた方が構われたり心配されるのか。

真面目にやっていた方が構われたり賞賛されたりするのか。

これによって、子どもは必要な(最適解と思われる)ペルソナを付け替えてくる。


話を聞けば簡単にできることにも「わからなーい」「もう一回言ってー」が出た時に対応する授業なのか。

多少難しいことに対しても「挑戦すべし」「諦めずに取り組むこと」と鍛える授業なのか。

子どもが自分でできることも教師がやってあげるのか。

できることはもちろん、困難なことにも簡単には手を貸さない教師なのか。

ここの対応の違いで、子どもの用いるペルソナは180度変わってくる。


集団の在り方で子どもの性格は決まる。

どういう集団にするかは、実は担任がかなりの裁量権を持っている。


時々「子どもの元々の性質がダメ」という理由で、学級を否定する意見を耳にすることがあるが、これは全くの誤りである。

ストレートに言うと酷なようだが、ダメ集団にしたのは、直接的には、学校と教師である。


望ましい集団づくりこそが、担任の仕事である。

子どもの性格どうこうを言う前に、集団としての在り方を見直すことが大切である。

2020年11月17日火曜日

「〇〇ファースト」は天国か地獄か

 「○○ファースト」という言葉がある。

これは、一つの観であり、世界の見え方に関わってくる。


世界は 思い通りである



自分だけが 得をしたい

自分だけが 先に行きたい

自分だけが 楽をしたい

自分だけが すごいと言われたい


自分だけが 大事にされたい


周りを見れば

「自分だけ」の人があふれ

争い合う世界がある



みんなに 得をさせたい

みんなに 先に行ってもらおう

みんなに 楽をしてもらおう

みんなに すごいと言ってあげたい


みんなを 大事にしたい


周りを見れば

周りを大切にする人があふれ

自分を助けてくれる世界がある



世界は 思い通りである



集団全体が相互扶助の関係というのが理想形であり、十数年に渡り、いつも子どもに話していることである。

何のことはない、日常の些細な出来事の一つ一つが、これである。

学級経営そのものが、これである。


日常のものすごく些細な例を挙げる。


プリントを列毎に配る。

配る側が数え間違えて、足りないとする。


「自分」の世界で固まっている集団は、自分の分をとるので、最後の人が足りない。

列から最も遠い、一番後ろの子どもが「足りません」と取りにくる。


「みんな」の世界の人は、先に相手に渡すので、途中で気付いた子どもが自分の分をもらいにいこうとする。

列の一番後ろの子どもにはプリントは既に行き届いている。

しかし気付いた子どもが取りに行こうと思った瞬間に、その前にいる他の子どもが気付き、さっとそれを渡してその子どもが取りにいく。

あるいは、足りなくて困っている子どもではない子どもが、代わりに取りにくる。


些細なことだが、こういう場面が一日の中で連続的に現れる。

当然、後者の方が気分がいいし、日々が過ごしやすい。


注意点は、誰かを犠牲にしないことである。

よく気が付く子どもが一人二人という状態だと、この子どもたちが犠牲になりやすい。

全体にその傾向があれば問題ないのだが、少ないとやはり少数の「みんなに」が多数の「自分だけが」に搾取される形になってしまう。


学級経営の肝は、この「みんなに」の気風を強めていくことである。

これは全体に行き渡ると、自己犠牲の精神ではなくなる。

逆に個性尊重の動きになる。

互いが互いの良いところを生かそうとするので、自然と互恵の関係になる。

授業中にできないことを恥じる風潮や、挑戦できない雰囲気もなくなっていく。

いじめも自然と減っていき、何かあっても集団に解決できる力がつく。


「自分だけが」の人間を育てたいなら、学校はいらない。

授業中の交流も話合いもいらない

係活動も給食当番も掃除も何もいらない。


「みんなに」という人間、つまりは社会で活躍する人間を育てるために、学校は意義がある。

個性が生きるのは、社会に自分を必要とする人がいてこそである。

だから、自分の能力を磨く価値がある。


教育基本法の第一条が全てである。


教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、

個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


繰り返すが、「みんなに」とは、自己犠牲の精神では決してない。

社会へ自分を役立てて生かそうという考え方である。

究極的に、誰よりも自分のためになってしまう考え方である。


「○○ファースト」という言葉は、使い方次第で天国にも地獄にもなる言葉である。

2020年11月15日日曜日

いじめをなくすには

 いじめ問題についての一考察。


11月は、その発生頻度の多さなどから、いじめ防止のための取り組みが全国でも多い時期である。

最近あまり世間で大きく取り上げられていない気がするので、逆に問題意識としてあげるべきと思い、書く。

(いじめのニュースがブームとして波のように来るだけで、いじめ問題自体はそれに関係なく常に存在し続けてる。)


いじめ問題に限らず、学校における問題というのは学校だけの問題に留まらない。

学校を卒業して社会に出ればその問題が解決するかというと、全く逆で、社会に出てからこそ深刻な問題になる。


いじめは、社会に出てからも対象と形を変えて続く。

社会や人間への恨みが続くといってもいい。

ひどい場合だと、学校への恨みを無差別に無関係な人にまき散らす攻撃行為となる。


いじめは、心の奥底、無意識レベルまでを浸食する。

いじめは、解決されないままだと、した側、された側両方の心を歪める。

それは、人や社会への攻撃行動となって現れる。


SNSや掲示板等による誹謗中傷も、過剰な自己承認欲求も、根は同じである。

いじめの快感と、いじめられないようにするために上に立とうとする心理。

大人になってもなお、誤った競争意識が働いてしまう。

弱肉強食の動物的行為であり、人間としての成熟した姿ではない。


そう考えると、いじめ問題というのは、社会をよくするという面からも、学校で最優先事項として解決すべきことである。

そしてこれだけ長年にわたり問題としてあり続けているのだから、根本的に考え直さないと解決できないということである。


いじめをなくすには、道徳や正しい在り方、みんな仲良くといったことを口で説いてもだめである。

みんなで合言葉にしても、結局お題目にしかならない。


具体的行動である。

ほんの些細な日常の行動が全てである。


例えば、言葉遣い。

乱暴な言葉遣いが容認されている空間では、いじめはなくならない。

言葉が心と人間関係を規定するからである。


例えば、掃除。

汚れて荒れた空間では、いじめはなくならない。

環境が人の心を左右するからである。

自分の始末を自分でつけることで、人のお世話になっていることに初めて気付ける。


例えば、ちょっとした親切。

誰かが物を落とした時に自然とひょいと拾ってあげられる。

「ありがとう」の一言が言える。

たったこれだけのことでも、教室の雰囲気は変わってくる。


小さな小さな具体的行動の積み重ね。

こうした些細なことが、相乗効果で教育的効果を生む。


「当たり前」の些細なことを大切にする。

そういったベースの上でこそ、言うべき時に「言う気」=勇気が湧くというものである。

正しいことすらまともに通らないような風土では、言う気も勇気も湧いてこない。


いじめ問題のような大きなことにこそ、日常の小さなことが大切になると考える次第である。

2020年11月14日土曜日

苦しみは「○○が正しい」と決めつけることから

 以前、私の意見をテレビで都合良く編集されて放映された話を書いた。


箒か掃除機かお掃除ロボットか。

どれがありかなしか。


根本的に、間違っている。

なぜ同族、仲間同士で争わねばならないのか。

どれも掃除道具であり、得意の相互提供による役割分担である。


低コストで電力いらず、一斉にみんなで行うなら自在箒。

階段のように一段ずつが狭い場所も、幅がちょうどいい大きさの自在箒。

(ほこりを吸着するちょうどいい大きさのモップがあるなら、モップも便利。)


昇降口や玄関のように、砂が多い場所は土間帚。

トイレのタイルのような場所も箒か土間箒。


カーペットのように、ほこりが入り込んでしまうものは、吸引力のある掃除機かお掃除ロボット。


狭いフローリングならワイパー型の掃除シート。

体育館のような大きなフローリングの場合は、大きなモップ。


窓やドアのレールのような砂の入り込む細かい場所や、黒板の下の粉が溜まる場所なら、小帚。


どれも、ほこりやごみを取り除く道具だが、得意分野が異なる。

役割に応じて、それぞれ使えばいいのである。

どれか一つだけが掃除道具として絶対的に正しいと決めることに、全く意味がない。


また、実態の違いもある。


予算がものすごく潤沢にあるなら、全教室掃除機か、ロボットもあり得る。

もう少し抑えて、多少の予算があるなら、化学モップ。

または、子どもの数自体が少なくて掃除が無理なら、予算を組んででも機械や外の手を多少借りる手もある。


そうでなくて、子どもの数は多いが予算が少ないなら、教室掃除では役割分担も多くできてコストのかからない箒を主力に用いる。

あるいは、自分の手を使ってきれいにすることや、仲間と協力して頭を使って順序よく事を進めることを学ばせたいなら、やはり箒。


それだけのことである。


考えるべきことは、物事の真理として、二者択一論や絶対解の思い込み、対立の無意味さである。


あれがよくてこれはだめ。

○○の方がよい。

○○が絶対正しい。


そんなことは、絶対的には言えないのである。

多くの物事は、相対的である。


例えばこれを読んでいるあなたは今、どんな髪型をしているだろうか。

それに対し、ある人から「人間の髪型は○○に限る」と言われたら、どう思うか。

恐らく、大きなお世話と思うか、あるいはその人は相当偏った人なのではないかと疑うだろう。


子どもの将来の進路は、何が正しいのか。

大きな会社に勤めることと、規模は小さいが堅実な会社、あるいは新しく立ち上がったばかりのベンチャー企業、どれが正解なのか。

あるいは、就職をしないで、起業する方が正しいのか。

はたまた、生産者側に回る方が正しいのか。


そんなこと、絶対的に言える訳がない。

人それぞれである。

例えば全員が社長になってしまうと、社員がいなくて困ることになる。

あるいは全員が同じものの生産者だと、買い手がいなくて困ることになる。


世の中、絶対の解というのは、ほとんどの場合、ないのである。

人によって、状況によって、よりよいと思われる解は違う。

異なる者同士の相互扶助の関係であり、役割分担である。


だから、自分と違う選択をする人を、否定しない方がよい。

「○○すべき」「○○が絶対正しい」は、大きなお世話になりやすい。

それぞれ、事情があるのである。


生きる上での苦しみの根源的な部分であると思い、書いた。

2020年11月13日金曜日

自分で調整して走る子どもに育てる

 主体的に学習に取り組む態度と、個々の成長について。


ランニングをする場面をを考える。


ランニングは、自分のペースで走る。

レジャーで友達と話しながらでもいいが、その場合双方に余裕が必要である。


成長の機会、トレーニングとしてのランニングがある。

実力があまりに違いすぎる者同士だと、一緒に練習するのが難しい。

集団で走っている場合、実力が近い者同士なら切磋琢磨になる。


ペースが速い者にとっては、遅い相手に合わせてゆっくり走ることが無意味になる。

ペースが遅い者にとっては、速い相手に合わせること自体が困難である。


もしこの両者が一緒に走れている状態があるとしたら、速い方が遅い方に合わせているのである。

あるいは、遅い方が速い方に、後先考えず死にもの狂いでついていっているのである。

いずれにしろ、不幸である。


成長は、このランニングに似ている。

成長のためには、あくまで、自分のペースで走ること。

それも、自分をストレッチしてくれる程度の「少しの無理」をするペースに自ら設定していく。

それが「自己調整」の一面である。


その点、一緒に走る集団の実力が近いと、よい意味での競争が生まれる。

集団の全員が一団となって走る必要はなく、あくまで個々のペースで近い者同士が互いに励まし合い、高め合えばよい。


ここまでは、学習集団の在り方という話である。

次は、教えるという側面から。


コーチとして子どもと一緒に走ることもある。

しかしその場合、一緒に走って励ますことはできても、代わりに子どもの分を走ってあげることはできない。

走るのは、あくまで子ども自身なのである。

息が上がって足が重くなって辛い思いをするのも、子ども自身なのである。

どんなにこっちに余裕があっても、そこの代行はできない。


教えるというのは、そういう面がある。

走るのはあくまで子どもである。

励ましても何をしても、本人に走る意思がなければ何もできない。


人間は、本質的に孤独である。

一人として生まれ、一人として死んでいく。

支えあうことがあっても、誰も自分の代わりには生きてくれない。

人間は一人では生きられない一方で、一人としてしか生きられないのである。

主体的に生きていくしかないのである。


やたらに群れたがるのは、生き物として弱いからである。

あくまで一人で生きた上で、必要な時に必要な協力をすればよい。

他の協力が必要な時は助け合い、そうでない時は一人でいるのが自然である。

(だから、トイレぐらい一人で行きなさいと、やたらつるみたがる子どもに対して言う。)


主体的に学習に取り組む態度の育成は、授業だけで成立するのではない。

普段のあらゆる生活全てで育んでいくものである。

2020年11月12日木曜日

セーフ!はアウト

 

「セーフ!」という言葉がある。

多分、広まる前の大元を辿れば、野球である。


野球における進塁は、多くがギリギリの勝負である。

そのために、野球では滑り込み(スライディング)の練習があるぐらいである。

審判がいないとセーフかアウトかが判定できない。

その緊張感が、野球の面白さの醍醐味である。


しかしこれは、そういう勝負の世界だからいいのである。

日常生活において「セーフ!」という場面があったら、実質はアウトだと思った方がよい。


日常生活においてギリギリになるというのは、多くが計画性のなさ、不甲斐なさの表出である。

それは、時刻の場合もあるだろうし、相手の反応どうこうということもあるかもしれない。


会議ギリギリに間に合って「セーフですよね!?」と言ったとする。

まあ、周囲にいい印象を与えないのは間違いない。

実質、アウトである。


明らかに自分に落ち度があって失敗をしたのに、許してもらえた。

「セーフ!」と言ったとする。

明らかに、アウトである。


ねらった電車に駆け込み乗車した。

閉まるドアに鞄を挟ませて、駅員さんにドアを再度開けさせて乗り込んだ。

乗り込んだ電車としては「セーフ!」である。

社会的には、アウトである。


食器棚の高い所に無理に食器をしまおうとして、服に引っ掛けてコップを落としてしまった。

その時、割れなかったから「セーフ!」である。

しかし、そもそも落ちるような状態になっている時点で「アウト」である。


学校の場面で考える。


子どもが何か提出してきて「これでいいですか?」と聞いてきたとする。

それは「審判」である教師に対し「セーフですか?アウトですか?」ということである。

ここでいいか悪いか(セーフかアウトか)答えると、次からも審判を求めてくる。

ちなみに、あまり出来がいいとはいえないが「いいんじゃないですか」と答えると「よっしゃー!セーフ!」と言ってくることがある。

かなりアウトな反応である。

(ちなみに、そうならないための切り返し対応は「あなたとしてはどうなの?」である。)


廊下を走っていたとする。

たまたま注意する教師に見られなかった。

セーフ!である。

また次も走る。

いつかアウトになる。

ちなみにこれは、車における信号無視でも同じである。

いつか覆面パトカーに当たる。


学級経営でもいえる。

明らかにつまらない授業、理不尽な指導をしたのに、子どもが特に不満も言わずに、事なきを得たとする。

その時は「セーフ!」である。

しかし、これを続けていれば、確実にアウトな事態が待っている。

それが、学級崩壊や授業崩壊と言われる事態である。


「セーフ!」な事態に自分がなった時に、何をすべきか。


まず、「セーフ!」な事態とは、とりあえず今回は事故に至らなかっただけなのである。

その時、天に預けてある「事故ポイントカード」には1ポイント以上加算されたのである。

30ポイント以上たまると、もれなくアウトな事故となって出現する。

そんな感じである。

だから、「セーフ!」は「アウト!」へ一歩近づいた事態といえる。


「セーフ!」な事態になってしまった時は、アウトに至る前に対策を練るべき時である。

「セーフ!」は、適切で余裕な状態では出てこない言葉なのである。

「セーフ!」は、天からの注意、警告である。

直ちに対策を取るべきである。

そのままの習慣で生きていれば、確実にアウトに至るからである。


最近「セーフ!」と言った、あるいは思ったことがあったか。

そここそが、生活習慣等においてテコ入れすべき部分である。

2020年11月7日土曜日

成長する人は、変わろうとする人

 成長する人は何が違うのか、ということをよく考える。

子どもでも大人でも、自らどんどん成長する人がいる。


成長する人の性質を考えても、案外わからない。

本人に聞いても、本人もわからない。

それが本人にとって「普通」で、自覚がないからである。

普通の人というものは実は存在せず、全ての人はユニークである。


逆思考で「それをこの人がするか」という望ましくないことを考えるとよい。

それをしない人が成長するということである。


ずばり、成長する人は「周りのせいにする」ということが一切見受けられない。

本来、環境要因はものすごく大きいのである。

特にうまくいかないこと、自分の思うようにならないことがある時、どう考えても「あのせいで」と思うのが人情である。


ただ、それが真実でも、うまくいかないことを周りのせいにする人は、確実に伸びない。

なぜなら、自分を正当化すれば、自分を変える必要がないからである。

それは、成長の必然性にさらされないということと同義である。


ちなみに仏教の教えでは、人生は基本的に「苦」であるという。

何だか後ろ向きに聞こえるが、真理はそうではない。

どちらにせよ苦であるのだから、それを受け入れ、生きていくのが自然であるという、究極に前向きな教えである。


苦は、自分のためにあると考えるのを基本にしてみる。

そうすると、そこへの対処を自然と考えることになる。


「克服」は一つの方向性ではあるが、何でも必ずしも克服しないといけない訳ではない。

逆に、受け容れるというのも一つの方向性。

受け容れるの一種だが、「諦める」=「明らかに認める」というのも一つの方向性である。


見方ややり方を変えてみるというのも一つの方向性で、これは成長につながる。


成長するには、自分の認識と行動を変えることである。

うまくいかない相手がいた時に、自分の何を変えるといいか。

うまくいかない仕事が出た時に、自分の何を変えるといいか。


相手が変わってくれたら楽だが、それを求めるのは難しい。

子どもの立場であれば、教えてくれる人が変われば勉強をできるようになる気がする。

また、あの教科が、あのテストがなくなってくれたら、と思う。

実際はなくならない。


だったら、今の自分の勉強の仕方を、自分から変えるしかない。

うまくいかない方法をただがむしゃらに続けるのではなく、勉強の仕方を変える工夫をする。

学習の調整である。

それこそが、今学校で求められている主体的な学習への態度である。


成長する人は、自分から変わろうとする。

子どもに教えるべきことであると同時に、大人の働き方改革においても心がけることである。

2020年11月5日木曜日

教員採用試験の倍率を考える

 少人数学級の実現に向けての考察。


少人数学級の実現に向けて、大量に新規採用する必要が出る。


ここで考えるべきことが出る。

採用試験というのは一般的に、採る側からすれば、倍率が高いほどいい。

適性の高いと思われる人物を厳選できるからである。


採用枠が広がるということは、この質の部分が甘くなるということでもある。

一般的に、選抜試験では倍率5倍以上が適正と言われている。

5倍が4倍になるぐらいならまだ質は担保できるが、「危険水域」といわれるのは3倍である。

(地域によっては、教頭試験の倍率が1倍を切ったという。そうなると数の確保最優先で、質の担保は不可能である。)


実際、現状の小学校の教員採用試験の倍率はどうなっているのか。

これについては、文科省が公表している。

【参考PDF】令和元年度公立学校教員採用選考試験の実施状況


小学校の倍率は、「2.8倍」である。

既に「危険水域」と言われる3倍を切っている。


これも自治体ごとに見てみると全く実態が異なる。

5倍を超えているところも少しある一方で、2倍を切っているところもかなり多い。

それらを平均しての「2.8倍」である。


何ゆえの不人気なのか。

世間に流れるニュースや噂をきいていれば、当然かもしれない。

教員の仕事については、ろくなニュースが流れない。

あれだけマイナスの情報ばかりが流れていて、大変そうだ、なりたくないと思わない方がある意味おかしい。

(今日〇〇先生は子どもたちと平和に楽しく過ごしました、なんてニュースが流れることはないので当然である。

しかし、現実は大変なことももちろんあるが、こちらの方が圧倒的に多い。)


自分の通ってきた学校の先生たちを見てきての不人気なのかもしれない。

子どもから見ても、大変そうに見えているのである。

「先生、いつも暇そうだね」と子どもに声をかけられるようになる必要がある。

実際に暇になることはないのだが、そう見せるためにも職場の働き方改革が必要になる。


さて、それでもなろうと思うような人は、どうやっても来てくれる超優秀で貴重な人材である。

つまり、今の新卒採用のような人は、学校全体でかなり大事に育てないといけない。

とにかく、やる気のある人は、希少価値なのである。


だから授業が下手でも一生懸命やっているような人を、挫けさせるような扱いでは、学校教育の未来が危うい。

(適当なやる気のない人を甘やかせというのではない。一生懸命さが前提である。)


新卒に高い技術を求める方が間違っているのである。

ある程度年齢を重ねた人には真似できないような、溢れる情熱があるだけで最初は100点満点である。

それらの人材を、時間をかけて鍛え、励ましながら育成していくのが、現状の学校の役目である。

つまり人間関係の良さが、仕事のやる気や技術の向上に直結する。


まとめると、教員の仕事を魅力的にして、それを周囲に見せていくことが、学校教育の未来を明るくすることにつながる。


小学校教員という仕事の、最大の魅力は何か。

思うに、それは、子どもと関わる面白さである。


子どもは、とんでもない発想をする。

意味のわからない行動、理屈に合わない行動をいっぱいとる。

自分ではとても思いつかないような、素晴らしいアイデアを出してくることがたくさんある。

さらに、工夫しないと乗り越えられない難題をどんどん出してくる。

身体と脳みそが退屈する暇がない。

ここが最大の大変さでもあり、楽しさでもある。


また、子どもの姿に教わることがとても多い。

立派な子どもたちの姿を見て、反省することしきりである。

自分の経験では、争いを全く好まない子どもを見て、勝負ごとが大好きだったかつての自分の人生観が変わったということもある。

多様な人間と多く関われることから、人生観が変わる仕事でもある。


小学校教員は、大変だけど、楽しい。

少人数学級の効果的な実現のためにも、全体でもっとアピールしていきたい点である。

2020年11月3日火曜日

学級のルールはどうやって作るか

 本日11月3日は、日本国憲法公布の日で「文化の日」である。

憲法というのは、国家の根本・基本となるきまりである。

ここにちなんで、学級のルールについて。


以前学校へ観察で学びに来た学生に質問を受けた。

「学級のルールはどうやって作るものなのですか?」


次のように答えた。


1.まず大枠だけ担任が示す

例:仲間が全体の場で話をしている間は、黙って聞く。

  給食のお代わりは、最初に1品だけ選ぶ。多い場合はじゃんけん。

  等々、必須のものや、放っておくと大きな混乱になりそうなもののみ設定。


2.とりあえずやってみる

あまり細かいルールがないので、色々と問題が起きてくる。


3.子どもたち発でルールを新設する

問題となっている事柄に対し、話合ってルールや取り組みを決める。

全体で決めたことは全体で守る努力をする。


4.ルールをなくしていく

これまでに決めたルールが不要になってきたら、それ自体をなくす方向で話し合う。

「ルールはそれ自体をなくすことを目指してつくる」を基本理念にする。

例:整列係が整列させてから移動することにしていたが、自分たちでできるので係による整列をなくす。

等々。


ちなみに経験上、給食に関するルールのみは、ある程度担任が担保し続けておいた方がよい。

食は根源的な欲求であり、好みや量もバラバラで、子どもの手で平等に考えるのがなかなか難しいからである。

また「黙って話を聞く」などという心がけに関するものは、定着すれば当たり前になってルールという意識ですらなくなるので、放っておいてよい。


逆に私が学生に尋ねたのが

「なぜ授業前と終わりに号令をかけさせるのか」(ちなみに私は授業前後に礼と挨拶はするが、号令はかけさせない)

「なぜ小学生は一般的にランドセルで登校しないといけないのか」

「上靴が指定されているのはなぜなのか」逆に「それらに自由な学校があるのはなぜなのか」

というようなことである。


当たり前になっているようなルールや慣習にも、見直してみると色々と発見がある。

ルールについて考えると、当たり前の壁にぶつかることがしばしばある。


常識に囚われない視点で、学校を見直してみることも必要である。

2020年10月31日土曜日

少人数学級は実現できるか

 学級担任の時間的労力の大きさは、どこで決まるか。

これは、学級の人数である。

当り前だが、10人程度しかいない学級と40人いる学級では、日々の時間的労力が全く違う。

個々の対応の大変さももちろん違うのだが、それ以前に、単純な作業量が違う。


私自身も両方経験していて、この点については保証する。

11人の学級担任だった時は、テストの採点も日記の返事もあっという間である。

評価の目も行き届きやすく、通知表もあっという間に出来上がる。

当然、各種書類関係の処理時間も少ない。

提出物があってもあっという間に集まるし、集計できる。


これが40人の担任であれば、全てに先の4倍かそれ以上の時間がかかる。

今までのペースでやろうとしていたら、当然、残業という力技でカバーすることになる。

結果、多くの学校では慢性的残業が習慣となっていく。


算数の問題だと、次のようになる。

「A先生はテスト1枚あたり1分で採点ができます。

10人を担任した時は何分かかるでしょう。

40人を担任した時は何分かかるでしょう。

40人の時にかかる時間は、10人の時の何倍でしょう。」


小学生レベルの算数で考えても、当たり前のことである。


さて、現状の40人学級を、30人学級の実現へということで政府が動いている。

これ自体は、望ましいことである。

先の話でいうと、40人から30人では、25%減であるから、時間的労力が全く違う。

一教師の視点から見ると、これに越したことはない。


しかし、何事も、部分最適ではなく、全体最適として見ることが肝要である。

この教師個人にとって望ましい傾向が、全体としても望ましい結果になるか、ということである。



以下、突然30人学級が実現するという、架空の想定をしてみる。


A先生は、40人学級を担任している。

A先生にとって、30人になること自体は助かる。

そしてA先生がもつはずだった10人は、別の人が担任することになる。


同じことが全ての先生にいえる。

そうなると、一人の先生ごとに10人もてなくなる子どもが出る。

その分、他の人がもつことになる。


校内に余剰人員はいないので、新しく大量に採る必要が出る。

単純計算して、現状の担任3人あたりに1人の増員である。

全体の4分の1は、増員した人が担任することになる。

増員されるのは、新規採用の人たちである。


そうなると、育成に時間と費用がかかる。

育成期間中は、やりながら鍛える、という方向をとることになる。

これも当然である。


支援級を除いて各学年5学級、現状で30人の担任がいる児童数1200人の大規模校だと、10人増員することになる。

さて、この10人全員が30人の学級を担当できる力があれば何も問題はない。

実際は、急募されたほぼ未経験の10人であるので、それを望むのは難しい。


つまり10学級は、常にケアが必要な状態である。

各学年7学級中2学級にケアが必要な状態。

集団を扱う技術が未熟なのだから、荒れる学級も当然出る。


これは、担当人数25%減の恩恵ではカバーしきれない。

火消しや治療に費やす労力は、予防の労力より何倍も大変である。

元々が各々労働時間がオーバーしていたのだから、無理が生じる訳である。

結局、全体最適という観点からしてもマイナスだし、個々にもしわ寄せがいくのは間違いない。


以上は、非現実的な架空の想定である。

現実は、一気に採用を増やすということはできない。


だから「段階的に採用」という方向になる。

政府の出した方向だと、実現に10年間かけるという。

現時点の採用試験でも2倍を切っている自治体が多いという現状。

そこで余剰人員が全くいないために講師に頼っているという現状からすると、10年でもかなりの急ピッチである。


「教育は人なり」という言葉が示すように、成否の鍵は人次第である。

教育におけるICTの活用は、あくまで人の補助である。

工場やシステム管理のように、ロボット中心になることはない。

だから、未来になってもなくならない職業なのである。


30人学級の実現は、担任の現状からすると、夢のような話である。

今回は理想、ビジョンを明確に掲げている以上、時間をかけて必ず実現はする。


素晴らしい試みであるものの、現場から見た問題点も数多くあるので、今後の動向が気になるところである。

2020年10月28日水曜日

学級は環境づくりが第一

 前号で「子どもの裁判所」について書いた。

要は、集団には子どもが自主的に守ろうとするきまりが必要という話である。


今回は、そこに関連して、学級の「荒れ」やトラブルについて書く。


子ども集団の話をする前に、まず自分自身を振り返ってみて欲しい。

自分は、意志力が強く、忍耐力がある方か。

あるいは、継続力がある方か。

社会生活上のルールや約束、〆切等をきちんと守れる方か。


多くの人は、ここに「No」と答えるのではないだろうか。

前にも書いたが、これらには環境が大切である。

安きに流れやすい環境があれば、意志を貫くのは難しい。


いつもついテレビを観てしまう人が、それをせずに勉強しようと思ったとする。

しかし夕飯時にテレビを観る習慣がある家庭であれば、そうでない家庭に比べ、一気に遂行が難しくなる。


明るく前向きに生きようと決意する。

そのために、嫌な言葉を使ったり、他人にマイナスな感情をなるべくもたずに生きようと決意する。

しかし、マウンティングや言葉の暴力に溢れているようなSNSにすぐふれることができる環境にあれば、これは難しい。


つい飲み過ぎてしまうので、付き合いの酒を減らそうと決意する。(ここ最近はその心配は不要かもしれないが。)

しかし、車で通勤の人に比べて、電車通勤の人は、道すがら飲みにいきたくなる可能性が格段に高まる。


その仕事の〆切日より、大幅に早く仕事を終わらせようと決意する。

しかし、進捗を確認する人がいなければ、〆切ぎりぎりにならないと、やる気が起きない。

途中経過を報告しないといけない上司や顧客がいる人に比べて、早めに取り掛かる確率は大幅に下がる。


どれも、環境のなせる業である。

個々の人間がだらしないとかしっかりしているとかだけではなく、環境の影響がかなり大きい。

同じ人間でも、環境次第で、行動は180度変わる可能性がある。


ここまでを前提に、学級集団の話に戻る。

学級集団が「荒れる」原因は、この環境要因が大きい。


例えば、ルールについて。

いちいち細かなルールが決められている割に、それらが平気で破られ、破った場合も特にお咎めなしだとする。

こうなると、坂道を転げるように、一気に様々なルールを破るようになる。


対策の方向は大きく二つ。


一つは、ルール順守の推奨。

ルールをきちんと守っているかのチェックをし、きちんと守っている人が認められる。

逆にあまりにひどい人には、何らかの制限、ペナルティが粛々と課される。

「子どもの裁判所」は、ここをきちんと担保しているため、集団づくりへプラスに機能する。


もう一つは、ルール撤廃の方向。

守られないでも何ら問題ないようなルールは、そもそもルールとして不要である。

全員で、撤廃を検討すべきである。

前号の話でいうと「子どもの法典」の見直し作業である。

これを全員で検討した上で「やはり必要」と議決された場合、初めて本物のルールとして作用し始める。

「以前からある」「そういうものだから」というような誰にも明確な理由が言えないルールは、ルールとはいえない。


こういったルールに対する適正な環境を作るのが、担任の仕事である。


また、トラブルが多い学級は、不要な物が多い。

端的にいって、散らかっている。

もっとはっきり言うと、ぱっと見た瞬間から汚い。


物も環境である。

高学年によくあるが、不要な物を多くの子どもが持ってきている環境。

それを持ってこないと、仲間に入れてもらえない感じがする状態。

それを放置していたら、将来的なトラブルの種が育つのは目に見えている。


ひも類が、いたる所にだらしなく床に垂れ下がっている教室。

誰かが足を引っかけて転ぶのは時間の問題である。

これも、ケガを誘発する環境である。


集団がだらしないほど、いちいち細かく指示するのが、担任の仕事である。

(私はよく子どもに言うが、「何度もいちいちしつこい」のは、何度も言ってる側ではなく、何度言われても直さない側の方である。)

逆に、集団がしっかりしてくるほど、細かい指示は一切不要になる。


だから、担任として楽しく快適に過ごしたいのなら、よい環境ができるまでは、苦労し続けることである。

それまでは、楽しい学級担任ライフはお預けである。

細かく物やらルールやらの環境の指導をして、いちいち同じことを何度も言って、やっと良くなったと思ったらまた物が散らかって。

その繰り返しで、だんだんと良くなるものである。


何事も、環境づくり。

具体的には、手をつけやすい物の環境整備から。

学級の荒れが心配になるなら、まずはそこからである。

2020年10月26日月曜日

子どもの裁判所

9月22日は「孤児院の日」で,そこにちなんで書いた記事。

岡山の医師である石井十次という偉人が、1887年に日本初の孤児院を創設した日だという。

まだ憲法も制定されていない明治の時代に、そのようなものをつくった人がいたということに、ただただ敬意である。


偶然、私も海外の孤児院創設者の本を読んでいたところだった。

最近、子どもの権利や教育に関することを記事にしていたのも、その影響である。


「子どもの権利条約」に大きな影響を与えた、ヤヌシュ・コルチャックの伝記である。

(参考:日本ユニセフ協会 T.NET通信


一年前にも、このコルチャックの作った孤児院を舞台にした本をメルマガ・ブログ上で紹介している。

(参考:「教師の寺子屋」自治的学級づくりと信頼関係


教育における子どもの自治の原型を作った人といえる。

孤児院という、ほとんどが子どもだけの空間の中で、子どもの子どもによる子どものための生活と学びの場を作っている。


コルチャックは孤児院を「ホーム」と呼ぶ。

「ホーム」の子どもたちが共同生活をしていく中で、次の3つを作ろうとしていた。


それが

「子ども議会」

「子どもの法典」

「子どもの裁判所」

である。


「子ども議会」では、クラス会議のような自治的教育が、生活に密着した形で既になされている。

「子どもの法典」は「子どもの裁判所」と連動して、かなり細かく決められている。

中でも特に深いのが「子どもの裁判所」である。


裁判というといかめしいが、その強調されるところは

「人間はまちがいを犯す」

「まちがいを赦す」

という二点である。


つまりは、まちがいを自覚させ、それを赦すための裁判といえる。

それを、子どもの中から選出された裁判官が中心となって行うというものである。


裁判の一例が書かれている。

例えば、三人の少年が、小鳥の卵の入った巣を興味本位で分解した。

これを見た子どもが「ひどい」と咎めて、訴えられた。

それぞれの言い分も聞いた上で、裁判の判決は、有罪。

ただし少年の中の一人は、実際に壊していない上に十分に反省が見られるということで、無罪。


有罪の少年には罰として「今晩、みんなと一緒の部屋で夕飯を食べらない」というものである。

つまり、反省は促すものの、最終的には罪を赦すという方向である。


この裁判には「正直な人、一生懸命に努力している人を守るべき」という考えがベースにある。

他人を傷つける、怠けて真面目な者に不利益を生じさせるようなことがあってはならないという考えである。


ちなみにこの裁判、先生も子どもと全く平等に法定に立つ。

子どもを訴えることもできるし、逆に被告人として立たされることもしばしばである。

このコルチャック氏自身も何度も裁判にかけられ、「裁判官から叱られる」という割と重い罰を受けたこともあり、子どもに謝っている。


このような仕組みがあれば、保護者が介入するような、妙なもめ事にならないのではないかと思う。

きちんと子どもと先生が向き合える仕組みである。

先生の方からも不服申し立てができるというのもいい。


100年以上前に、このような進歩的教育思想・システムが機能していたということは、特筆すべきことである。


このような真の自由を愛する教育を施していたにも関わらず、最終的にはナチスによるホロコーストの犠牲となる。

国家間戦争は、全ての理不尽がまかり通る最悪の暴力である。


話を自治、子どもの権利に戻すと、権利には義務がセットということである。

子どもの個人の権利を最大に尊重するためには、集団内の各子ども個人の権利を侵害してはならない。

「何をしてもいい」というのではなく、権利を得る集団の一員としての責務を果たし、他人の権利を侵害しないという前提がある。

これは、ここに携わる大人も同様である。


この「ホーム」における子どもの権利の大原則を、学級集団に落とし込んで考えてみる。

学級の自治に必要なのは何か。

きまりである。

それも、子どもによる子どものためのきまりである。

また、きまりを単なる理想論にせず、それを機能させるだけの仕組みも必要である。


現代において、子ども同士の「裁判」は難しいかもしれない。

しかしながら、子ども同士のけんかを大人が解決する、というのではなく、子ども同士の話合いで解決するというのは、理想形である。

仲間や先生への不満を子どもが公的に訴え、反省を促し赦す場が学級内にあるというのは、理想的である。


そのためには、集団内のきまりが作用すること。

適切なきまりが自治をつくる。

この重要性を改めて感じた次第である。

2020年10月24日土曜日

「泣いている」にどう対応するか

 ちょっと注意したら、子どもが泣いて(あるいは暴れて)困ったという経験をした人はかなりいるだろう。


私は以前から再三述べているが、ふてくされる子どもというのが一番大変だと思うタイプである。

どんなに泣いてもわめいても、後できちんと反省できる人ならいいのだが、ふてくされて逆恨みするタイプは、正直大変である。


泣くという行為と怒るという行為は、目的がある。


感情の素直な表出という面が一つ。

これは必要である。

感情的に傷ついたから泣く、あるいは怒る。

表現である。


本当は泣きたいのにぐっと我慢する。

あるいは、嫌なのに嫌といわずに笑顔で対応してしまう。

「いい子」はこれが行き過ぎることがある。

感情の表出を抑え込んだその結果、とんでもなく心を痛めていることがある。


こういう人には

「泣いていい」

「怒っていい」

と、優しく穏やかに伝えればいい。


もう一つは、人を操作する手段としての泣きや怒りである。

こちらが注意すべき、厄介な方である。


元々、赤ちゃんは泣くことしか要望の伝達手段がない。

だから、赤ちゃんにとっては、泣いて人(特に母親)を操作するのは、正当な手段といえる。


しかしこれを、言語を操れるようになった年齢になっても使い続けてしまう。

いわゆる「泣けば通る」というものである。

(大人でも、相手に罪悪感を植え付ける手段として使う人がいる。

「そんなつもりじゃない」と無意識の人の場合だと、余計に厄介である。)


だから、大人でも感情を目的遂行の手段として使う人は「幼稚」と言われる。

子どもに対する際、何でも怒って何とかしようとするのは「下手」「未熟」と言われる。

(これは、教員でもコーチでも親でも同じである。)


子どもが、自分の落ち度を脇に置くために、泣いて誤魔化す。

これは、教育で正すところである。

泣いてもわめいても、通さない。

昔ながらの「おもちゃ場でひっくり返って泣く」は、この場面である。

感情的に傷ついているのではなく、相手を操る手段なのである。

(これは、要望が通らなくて怒っている場合も同じである。)


つまり「泣いていいよ」と「泣くな」は、相手の状況が違うのである。

感情の表出か、要望を通すための手段か、という違いである。


「痛いから泣く」も、要は訴えの手段である。

泣くことで、助けを求めている。

この時に助けるべきか否かは、先週号でも書いたが、状況によりけりである。


注意して泣く、怒る、ふてくされるという相手は、その場で教育するのは無理である。

なぜなら、幼稚だからである。

あまり育ってない幼児を相手に論理的な説明をしても、無駄なのは自明である。


ここは誤解されがちだが、年齢が低いから通じないのではない。

わかる子どもは、就学前だろうが、何歳でも通じる。

一方、わからない人には、何十歳でも通じないのである。


泣いても怒っても一旦放っておいて、落ち着くまで放置しておくしかない。

とにかく「泣いたから(怒ったから)うまくいった」という誤った成功体験を積ませないことである。

これは、大人同士の人間関係においても全く同じことがいえる、重要なポイントである。


「平等に扱う」とは、全ての子どもに同一の対応をすることではない。

相手に応じた、合理的な対応をする、ということである。


それでは、その手段を使ってくる相手をどうするか。


カウンセリングマインド的には、徹底的に話を聞いてあげるところである。

これは、癒しという目的のためである。


一方、教育的には、相手をしないことである。

これは、矯正という目的のためである。


家庭の状況が悲惨で、心が荒れている子どもなら、優しく包み込む必要があるだろう。

一方で、十分な環境に育っているのにも関わらず、単にわがまま放題が目に付くようなら、相手はしない。

(注意すべきは、一見裕福で何不自由ないと見える家庭の中に、心が荒んでいる子どももいることである。)


原則はいつも同じ。

弱っている相手なら、癒し、支援の方向。

健全な相手なら、鍛え、育てる方向。


その子どもは、何で、どういった背景で泣いているのか、あるいは怒っているのか。

たった一つの場面でも、見極め、見抜く力が大切である。

2020年10月22日木曜日

「子どもを大事にする」とはいかなることか

子どもは大事にすべきである。

「児童の権利に関する条約」は、ちょうど30年前の9月2日に発効された。

世界では、長らく子どもは大人の下の劣等なものとして扱われてきた。

つまり「この子どもを大事にする」というのは、比較的最近の考え方である。


今、女性差別や人種差別を口にすれば、たちまち袋叩きにあう。

子どもの権利も、近代に入ってからのスタンダードである。

そういう意味では、世界は良くなってきているのではないかと思う。


さて、問題はこの「子どもを大事にする」ということを、教育で行う時である。

保護するという面はもちろんあるのだが、教育においては育てる、鍛える、伸ばすといった視点が必要になる。

(保護が優先的に必要なのは、様々な事情で劣悪な環境下に置かれている不幸な子どもたちである。)


子どもが転んだ。

大声をあげて泣いている。

その子どもを抱き起こして「痛かったね」という。

これは、子どもを保護するという視点からは、正解である。

確かに、大事にしているといえる。


しかしながら、教育においては、この反応は必ずしも正解ではない。


子どもが転んだ。

泣いている。

しかし、しばらく黙って見守ってみる。

自分で立ち上がる。

「よく自分で立ったね」と認めて、軽く砂をはたいてあげる。

この場合は、ほめてあげてもいい。

子どもは涙が乾ききらない目で「うん!」と精一杯の返事をする。


しばらくして、次も、同じ子どもが転ぶ。

今度は、泣かない。

むくりと立つ。

「おお、平気なの?」と聞いてみる。

「うん!」と力強く返事し、膝の砂をぱっぱと払って、また遊び出す。


またしばらくして、次も、同じ子どもが転ぶ。

転んだことも気にならないぐらいにすぐ立ち上がって、また走り出す。

こちらが声をかける暇もない。


子どもを鍛え育てるという、ごく単純化した縮図的な例が、これである。


これは、大人からすると、少し寂しいぐらいである。

どんどん、自分を必要としなくなっていくからである。

しかし、これが教育である。

子どもが自分自身で生きていく力強さを身に付けさせるのが、教育である。


師の野口芳宏先生の言葉の中に、次のものがある。


「子供には、支援よりもむしろ鍛えを。」

「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」


『心に刻む日めくり言葉 教師が伸びるための 野口芳宏 師道』 さくら社 

  より引用)


子どもを大事にしているからこその言葉である。

子どもを、なめていない。

厳しい困難を乗り越えられる力強い存在、自ら伸びようとする存在という子ども観がないと、何でも保護の方向になってしまう。

何でも甘やかして保護の方向は楽だし、大人の側の自己有能感を味わえるので、中毒になりやすい。

(ちなみに、管理や指示が細かいのも、甘やかしと同じくロボット教育の方向である。子どもを常に命令で動かせる。)


子どもは大事にすべきである。

それは言い換えれば、子どもを決して甘やかさないということ。

それを乗り越えられる子どもには、少し高い壁を提示することである。

転んでも、自ら立ち上がる力のある者に、力強くエンパワメントしていくことである。


それは、実は大人の側にも痛みを伴う行為である。

厳しすぎる、口うるさいと避けられたり、反抗されたり、非難されることもある。

それは、必要な痛みである。


何なら甘ったれには、もっと褒めて欲しいと言われたり、優しさが足りないなどと言われることもあるかもしれない。

はっきり言おう。

褒めないのは、褒めるに値しない程度のことだからということ、あるいは、あなたが褒める必要のない相手だからである。

もっと心底弱っていて、どうしようもない状態なら、きっと褒めてあげるし、もっと優しくしてあげるのである。

「あなたはもっとできる人」「強くなれる人」だから、褒めないのである。


大人の側が逃げてしまっては、子どもの側が育ちようがない。

真意がわかってもらえるのが、すぐの時もあれば、10年、20年後のこともある。

一生、わかってもらえないことだってある。

それでも覚悟して、やる。


「それは認められない」と、はっきり言う。

「自分でやりなさい」と、はっきり突き放す。

教育において、肯定と同じぐらい、否定は重要な要素である。

心身共に健全な相手であれば、否定も立派な教育として成り立つ。

(ただし、部分否定であること。「あなたはダメな人間だ」というような全否定は、非教育的である。)


今しているその行為は、誰のためなのか。

真の意味で、子どもを大事にしていきたい。

2020年10月20日火曜日

大人は子どもより偉いか

 かの松下幸之助氏は

「周りのみんなが自分より偉くみえるから、ぼくは素直に人にものを頼める」

と常々話していたという。


また「身体が弱かったことが強み」というようなことも言っている。

自分の身体が弱いから、人に頼まざるを得なくなり、結果的にその人が良い成果を出してくれる。


これは経営者としての話である。

しかしながら、これは学級を運営する立場の教師にとっても、大変有益な考え方である。


同じ発想で、子どもにも対する。

つまり、自分一人の力よりも、子ども集団の方が力がある。

このことをまず認めることである。


また、目の前にいるのは子どもであるが、子どもが大人よりも優れていないという訳ではない。

たまたま、自分の目の前に子どもとしているだけである。

私はよく冗談半分、本気半分で

「目の前にいる子どもは、将来口をきいてもらえないぐらいになる人かもしれない」

と考える。


授業で行き詰まる。

これは、困る。

しかし、子どもたちに委ねると、上手く料理してくれることが結構ある。

教師が必死に掴んで離さないから、子どもは手出しできないだけなのである。


自分が一生懸命やっていると、疲れる。

年齢を重ねると、ますます疲れるようになる。

疲れる割に、子どもには全く力がつかない。

だから、子どもがやれることは、全部子どもに任せる。


子どもは、かなりの運動量を求めても、なかなか疲れない。

多分、子どもが疲れているのは、そういったものとは全然違う別のことである。

(高学年だと「塾疲れ」というのが一番多い。その手のストレスは、友達などの人間関係悪化の連鎖をも引き起こす。

ちなみに、自発の目標をもって主体的に取り組んでいる子どもは別で、塾でどんなに大変でも真っ直ぐでへこたれない。)


授業は、子どもが子ども自身を鍛える場なのである。

教師が自分のためにやる授業では意味がない。

塾や習い事も同じで、親のためではなく、本来は子どもが子ども自身のために取り組んでいるはずである。

教師や親のために子どもが頑張っているというのは、本末転倒である。


大人である自分は、大人であるだけで、別に子どもより偉い訳ではない。

子どもは子ども自身で、自ら伸びる力をもっている。

この自覚をもつことが、教育ではかなり大切である。

2020年10月18日日曜日

教育は、サービス業か否か

教育は、サービス業か否か。

かなり前から意見が分かれて議論されているところである。


人にプラスの働きかけをするという視点からすると、サービス業である。

しかしながら、あれこれお膳立てするツアーパッケージや、楽しませる遊園地のような場所かというと、これは違う。


学校に限らず、教育という名のつくものの必須条件は、自力でできる力をつけていくことである。

あれこれお世話をしてあげることは、サービスにはなるが、自力はつかない。

だから、保育や介護は、教育とは区別されている訳である。


自力ではできないことを、自力でできるようにさせる。

あるいは、上達させる。

ここが教育に求められている機能である。


自力でできないことを、いつまでもやってあげている。

上達するはずの能力がそのままにされている。

こうなると、教育とはいえない。


別に必ずしも相手を喜ばせなくてはいけないというものではない。

辛いことを辛抱させるのも、楽をとって避けたいことに挑戦させるのも、教育の一つの役割である。

やりたくなくても相手の成長のためにやるべき課題を与えるのも、教育である。


こうなると、やはり通常のサービス業とは大分性質を異にする。

相手が「お客様」であるならば、意に沿わないご機嫌を損ねるようなことはできない。

旅行やレジャーに快適を求めて来ているのに、苦難を与えられたら、次に来なくなってしまう。

しかしながら、それはサービス業だからであって、鍛える要素のある教育の場合、辛いことも避けて通れない。


授業や学校行事が、教員プロデュースのツアーパッケージ化していないか。

子どもがツアー参加のお客様になれば、サービスが悪いと不平不満も出るようになる。


子どもたちを、池の中の鯉のような状態にしていないか。

エサが欲しければ自分で取りに行くことを教えるのである。

他人が与えてくれた一つのエサに、我先と群がるような集団にしてはならない。

池でのんびり暮らすことを教えるのではなく、自由に泳ぎ回る力をこそつける。


教育がサービス業か否かの議論は難しい。

ただ教育は、単なるサービス業とは一線を画す。

短期的・即時的な享楽ではなく、長期的・将来的な幸福を考えてなされるべきことである。

2020年10月14日水曜日

挨拶は身を救う

最近の気付き。


自分の力だけで生きていると思えるのは、幼稚な証である。

だから、幼稚であるほど、誰の世話にもなっていないと思っている。

(子どもに「今日お世話になった人」を思い浮かべさせても、誰も思い浮かばないというあり得ないことが結構ある。)


実際に我々は、自分だけでは何もできない。

身の回りにあるありとあらゆる物は、人様が作ったものであり、それも元を辿れば、自然からのお恵み、贈り物である。


「自分でお金を稼げる」というが、それがどれほど生産的なことをしているのか考えると、かなり怪しい。

単純にお金を使えることだって、あくまで、周りの人のお陰様あってこそである。


そう考えると、今の社会で生きていく上で必要なのは、周りに支えてもらえることである。

流行りのフォロワー数どうこうだって、要は人支えの数である。


現実の社会でも、周りに応援される人が最終的には強い。

どんなに本人の実力があろうとも、周りから人として疎まれるようでは、先々は覚束ない。


これは、周りを従えることができるという権力や、業務を効率よくこなすことができるという能力の類とは、全く別ものである。

どちらかというと、この人についていきたいとか、そばにいたいと思わせる、人徳に近い要素である。


さて、ここから教育メルマガとしての本題。

そんな難しい要素を、学校教育においてはどう磨いていけばいいのかという話である。


挨拶である。

よい挨拶ができるようになる。

これだけでも、大きくアドバンテージである。


特に知識面や技術面の実力がない内は、よい挨拶は大きな力になる。

挨拶がとてもいいというただそれだけで、ありとあらゆるマイナスをかなりカバーしてくれる。


相手や状況に合わせたよい挨拶というのは難しい。

人によってはこういう時の挨拶はどうこう、という細かい要望がある。


だから、考えないでやる方がいい。

これまでも再三書いてきたが、「とにかく誰が相手でも、同じように、先にやる」と決めてしまうことである。

相手が上司だからとか子どもだからとか考えて調節していると、判断が0.2秒以上遅れる。


とにかく会ったら即やる。

それだけである。

さっき挨拶をした相手にうっかりまたしてしまってもいい。

判断に迷って挨拶すべき相手にし損ねてしまう方が、はるかに大きなリスクである。


特に実習生や新卒など若い人にアドバイスするのは、「ちょっとわざとらしいかなと思うぐらい、礼儀正しく」である。


「元気に」も付け加えて言いたいところだが、なかなかそれを出すのが苦手な人もいる。

しかし、礼儀正しくなら、がんばれば全員できる。

まずは形から入れるからである。


私自身、挨拶が上手いのかというと、到底自信をもってそうだとはいえない。

しかしながら、出会う人様にお世話になっていると意識している分、人後に落つということはないはずである。


とにかく、人に応援されるような人に育つよう、というのは、担任する子どもたちに対して最重要視している部分である。

頭がいいとか実力があるというのも大切なのだが、将来的に人に応援される人、あなたがいてよかったと思ってもらえる人になって欲しい。


だから、私は子どもに対しても、多少口うるさい面がある。

自分のものを散らかして放置しているとか、後始末が悪いとか、そうすべきでない場で大騒ぎしているとか、全部素通りできない。

そういう自己中心的な行動が見える人を、人は応援したくなくなるからである。

注意された側がその時自分に対してどう感じるかは置いておいて、将来的に見ればそれでよいと考えている次第である。


本当に自分を大切にしている人は、自分が本当に大切なので、周りの人にも大切にされるような自分を目指すはずである。

そうなると、必然的に、周りの人を大切にすることになる。

つまり、自分を大切にすることと他人を大切にすることは、本質的に同義であり、両方が成立していないと矛盾が起きる。


つまり与えてもいいが自己を犠牲にするほどではいけないし、頂いてもいいが他者を犠牲にするほどではいけない。

自分の利益のみを追求して、他に損益を被せるようなビジネスモデルは、必ず破綻する。

両者のバランスのとれた共栄以外に永続的な繁栄はない。


話を学校教育に戻してまとめると、とにかく自他を大切にするのは、挨拶からである。

ただこれは、よくある「あいさつ運動」などをして改善される面は、ほとんどない。

個々における、日々の心がけ一つである。

十把一絡げというような安易な方法で何とかなる類のものでは決してない。


難しいからこそ、もしも身に付ければ価値があるというのが、挨拶である。

2020年10月12日月曜日

教育的に意味があるとは

 前号の続き。

私のコメントが悪用された例の番組だが、教育において考察すべき点があるので記す。


コメンテーターの一人が次のように述べた。


「俺は自分が掃除の時間に学んだこと一つもない」


もう一人は次のように述べた。


「無駄なことをやらせたがっている人が

教育的に意味があるとか言っちゃう」


恐らく、この二人の実感自体は、「やらせ」ではない。

多分本音である。

これが、今まで学校教育を受けてきた大人の内の相当数が抱いている悪感情である。

学校教育への恨み、憎悪ともいえる。


ちなみに、後者の一人が述べている

「無駄なことをやらせたがっている人」とは、

この場において恐らく私を指している。

この番組内で捏造された使い方において、私は時代遅れの頭のカタい人にしか見えない。

さもありなん、である。


さて、そこは百万歩譲って置いておくとして、なかなかここが考えどころである。

学校における様々なことが子どもに「無駄なこと」と捉えられていないか、という点である。

突き詰めると、教える側がきちんと意義を腹の底から理解し実感し、教えているかという点である。


子どもに「罰」として何かやらせる、という古くからの手法がある。

罰の対象となる行為は、その本質的価値に関わらず貶められ、忌み嫌われる。


掃除。

漢字の書き取りや計算。

ランニング。

給食。


どの行為も、本来悪いことでは決してない。

むしろ、意義を感じて毎日進んでやる人もいるようなことである。

成長するという視点から「教育的に意味がある」行為である。


しかし、「罰」にしたり「強制」と感じさせたりした時点で、これらは教育的な意味を瞬時に失う。

無意味などころか、害悪にすらなり得る。

結果、あのような残念な捉え方しかできないようになる。


もし教師が清掃や勉強に対し、そのような見方をしていたとしたら、恐ろしいことである。

恨みつらみの大量再生産である。


自分の才能を磨く素晴らしい権利行為であるはずの勉強が、義務になる。

自分の心と向き合う機会であるはずの清掃が、単なる苦役、労役になり下がる。


子どもが

「今日もいいこと学んだ!」

「これには意味がある」

と実感できるようになるには、教える側の教育観次第である。


教える立場にある人は、自分に問う。

自分は、今教えていることの意義を理解しているか。

本音で必要だと思って、子どもの真の成長を願って教えられているか。


教育実習生には、毎度次のように教えている。

「自分が受けてつまらないと思う授業はしない。

自分が受けたい、面白いと思えれば大丈夫。

今まで受けきたやり方とかは一旦忘れて、それを思い切りやろう。」


それは、私の教育観そのものである。

自分が楽しい、意義があると思って教える。

教師の仕事の魅力を高めるに、それをみんなで実践していく。

そうして意欲溢れる若い先生が増えれば、学校教育は明るいものになる。


学校教育を本当に意味のあるものにしていきたい。

2020年10月10日土曜日

木配りと多様性

 クラス会議を実践していると、心から思うことがある。

それは、色々な特性の子どもがいた方がいいということである。


リーダーシップがある。

これは、とてもいいことに見える。

だから、みんなに身に付けて欲しいと願いがちである。


違うのである。

先頭に立つタイプのリーダーシップの強い人間が二人以上集まると、対立が起きやすい。

「船頭多くして船山に上る」の諺の通り、一つの集団において先頭に立って引っ張るタイプは、一人でいい。

逆に言うと、そのタイプも一人出てくれないと、色々と困る。


フォロワー型リーダーシップの得意な子どももいる。

全体に意見をふっていきながら、まとめていく。

しかしながら、このタイプは、自己主張をしないために、自己犠牲にもなりやすい。

そこへのフォローを入れてくれる、あまり目立たないが気遣いのできる子どもも必要になる。


突拍子もない変なことを言う子どもがいる。

これがまたいい。

話合いが膠着した時の起爆剤になる。


あまり積極的に発言しない子どもがいる。

しかし、ぽそりとつぶやく発言が鋭いことが結構ある。


また、会議中には発言しないが、決まったことを、やるとなったら黙々とやるタイプもいる。

逆もあって、会議中は勢いがあるのだが、実行となったらあまり動かないというタイプもいる。


本当に色々いた方がいいのである。

自治を目指すクラス会議に至っては、スムーズに決まらないぐらいがちょうどいい。

様々な角度からの視点で見るからこそ、多数の賛成案に対しての問題点も見つかるので、簡単には決まらない。

(一般的な会議は、原案への承認が主な目的だから、基本的にはさっさと決まった方がいいのである。)


ところで、「木配り」という言葉がある。

建築における木材の配置のことである。

木目や癖によって、配置や向き、見せ方が変わる。

様々な特徴の木が組み合わさることで、強い住宅ができる。


法隆寺の棟梁、西岡常一氏の言葉がある。

「木のことは木に聞け」

「木には癖がある、右に捻れる木と左に捻れる木を組み合すのが極意である」

参考H.P.:「宮大工が語る 世界最古の木造建築」 



要は、どんな人間同士でも、木と同様、使い方、組み合わせ方次第なのである。

適材適所というが、個々の人間には、必ずその特性が生きる場がある。


特に一見すると組み合わせにくそうな木もある。

これはいわゆる「平均」の値から大きく外れた子どもである。

他と明らかに違って組み合わせにくいように見えるが、実は唯一無二の力をもっている。

しかしながら、扱う側にそれを見抜く目がないと、単なる扱いにくい、よくない木材とみなされる。


私は常々「長所進展、短所無視」が大切だと考えている。

短所克服は、労多くして功少なしということが多い。

(しかしこと受験勉強に関しては、不得意な部分が一番点数の伸びしろがあるので、無視できない面があるのも事実である。)

長所を見出し、伸ばすことが教育の要点である。


その特徴は、どう生きるか。

一見欠点だと思っているところは、無視するか周りのフォローで何とかならないか。

あるいは、実は長所に転じられないか。


これは子ども集団だけでなく、職員集団にもいえる。

色々な特徴のある人が集まっている方が強い。

自分が全然ダメだと思っている人もいるかもしれないが、意外なところでみんな役に立っているものである。


多様性を認め合う。

クラス会議は、その入り口として有効な実践である。

ぜひもっと広まって欲しいと願う。

2020年10月8日木曜日

テレビメディアの害悪

ご存知の方もいるかもしれないが、昨日テレビ番組にてコメント依頼をされて放映された。

テレビ番組とは「情報」を発信する媒体である。

つまりは、感情の入った報せ。

意図があり加工されたものである。


私が依頼された内容は以下の通りである。


===============

(引用開始)

企画内容 特集「なぜ? 学校の掃除 掃除機でなくホウキなの?(仮)」

(中略)


▼なぜ掃除機ではなくホウキを使うの?

▼なぜ海外みたいに専門スタッフが掃除するのではなく生徒が掃除するの?

上記2つの質問に、現役教員の立場から

学校教育上での掃除の狙い、目的などについてお教え頂ければと思います。

(引用終了)

===============


「(仮)」が最も姑息なところで、実際に放映される際には


「学校に掃除機の導入 あり?なし?」


となっていた。

一見似ているようで、全く違う内容であることに注意してほしい。

そして私は、あたかも「なし」の立場でコメントする人であるかのように放映された。


上記依頼内容(▼)と併せて見比べてもらえばわかるが、質的に全く異なる内容である。

元々の依頼内容はつまり「日本における掃除の教育的意義とその歴史について」である。

私はここについて、荒れていた子どもが清掃を通して変わっていった姿など、1時間近く熱く語ったのである。

しかし、そんな素敵エピソードは全て不要だったらしい。

完全に相手の都合よく加工された形で、切り取って使われた。


元々の依頼に対し「掃除機の導入はありかなしか」というのは、テーマのレベルが低すぎる。

そんなの、両方うまく使えばいいというだけの話である。

というより、私もインタビューの中で「人手が足りない学校は使えば良い」とはっきりコメントしている。

何なら、現任校でも十年前に勤務していた学校でも、カーペットの部屋など必要な箇所ではとっくに導入している。


ほうきと掃除機の二者択一なぞ、馬鹿馬鹿しくて議論のテーマにすらならない。

「給食は全て米にすべきかパンにすべきか」と同じくらい無意味なテーマである。

小学生に討論を教えるために練習として扱う

「毒にも薬にもならない、どっちでもどうでもいい議題」

である。


とてもいい質問だと思って、間隙を縫って真摯に誠実に答えただけに、大変遺憾である。

学校現場で頑張っている全国の仲間たちの一助にと思いやったのが、裏目である。

真面目に頑張っている子どもたちと先生方に大変失礼な内容にされており、大変憤慨している。


今回の最大の学びは、メディアの教育への害悪である。

テレビの教育問題へのコメンテーターは、大概全く学校現場に携わっていない人たちだけである。

制作者も同様である。

今回の番組でも、現場で必死に何年も清掃指導をしてきたという人は、当然皆無である。

それら「業界人」や「芸能人」の意見が「正しい意見」として世間に通っている限り、メディアは教育にとって害悪でしかない。


また、メディアの意図に踊らされているのは視聴者だけではない。

実は出演者たちも、ずれたものを提示されて、それに対してコメントしているのである。

そう考えると、番組制作者に全ての人が踊らされているといえる。


唯一、清掃の意義は自分の手を汚して周りをきれいにすること、というところだけは放映された。

(勝手に「奉仕の心」などという口にもしてないテロップが入ったのは癪であるが。)

自分を汚して周りをきれいにすることで、自分を役立たせると言ったのである。

それは、結果的に、本物の自信につながる。


テレビをはじめとするメディアはこの真逆である。

自分の手を汚さずに事を行う。

しかも周りを更に汚す。


私は、自分の手が汚れてでも、この教育の世界をきれいにしたいと強く願っている。

それは奉仕の心からではなく、自分の命を最大限に輝かせたいからである。


根本・本質・原点という、師の教えに従い、これからも精進していきたい。

2020年10月6日火曜日

正解主義が意見の出なくなる原因

 学級会、あるいは授業で、意見が出ない。

この根本的原因を考える。


一般的に、低学年はどんどん意見を言う。

相当に変な意見やまとまらないものも含まれるが、とにかくどんどん言う。

それが、高学年に近づくにしたがって、減ってくる。


まずここの理由の一つは、節度である。

敢えて自分が言わずとも、周りが言うとわかっている場合、言わなくなるという面がある。

話合いを円滑に進める上で、これはこれで必要である。


もう一つの理由が問題で、正解主義の空気である。

これは、作りたくなくても、よほど意識していないと、自然にできていってしまう。

正しい意見が優先的に賞賛されるようだと、人は自信がなくなって、言わなくなる。


一番わかりやすいのは、正解がはっきりとわかりやすいもので、教科でいえば算数である。

算数では答えが一つである。

したがって、知識・技能面では評価もしやすい。

しかし本当に評価すべきは、考え方、道筋の方である。


最も意見が言いやすいのは、はっきりとした正解がないものである。

例えば、道徳では話合いの柱となる価値項目はあれど「正解」は一つにならない。

価値観の多様性を学ぶ場だといえる。


授業者が、日常的に何を評価しているかである。

正解を尊重して取り上げているばかりなら、正解主義になる。

多様な意見を取り上げて尊重しているようなら、意見は出やすくなる。


特に、誤答と思われるものや、他とは変わった考えに価値を置いて評価する。

真剣に言ったのであれば、一風変わった意見でも検討する。


この「真剣に」の部分は大切である。

明らかにふざけただけの意見や悪意のある意見と、真剣に言った意見とは、明確に区別する力量が必要である。

そこを平等に扱うのは、悪平等である。

「自由に意見を言い合える」というのには、その土台にみんなでよりよくなろうという気風があることが大前提である。


そして大人社会を見るとわかるが、変に学識が高い人がいる場合、意見がしにくくなることがある。

学識の高い人の中には自分が「正解」だと思っており、心のどこかで見下す傾向のある人がいる。

そこに自分の知見の低さを指摘されるのが嫌だからである。

当然の心理である。

つまり、メンバーに皮肉屋(ニヒリスト)がいると、発言は一気にしにくくなる。

全体の利益を考えると、ここはリーダーが制していく必要がある。


自由に意見を言い合える場というのは、その点で平等でなくてはならない。

知識は平等でなくてもいい。

知識があろうがなかろうが、発言の機会が出席者全員に保証され、真剣に発せられた個々のどんな意見も尊重される。

その点においての平等こそが重要である。


職員会議などであれば、管理職やベテラン教員が、どれぐらい新卒や若い先生方の意見を真剣に受け止めて尊重するかである。

例え知見の浅いものであっても、その思い自体は受け止めて、採用できない理由を真摯に説明した上で、議論を進める。

「市井の声をきく」という姿勢が、どの時代でもよきリーダーと呼ばれる人物に求められる所以でもある。


正解主義の空気をどう変えていくか。

ここに現代の日本の教育の、抜本的に改革すべき根幹があるように思える。

2020年10月4日日曜日

楽だと思う方の逆をやると楽

 思考法で何度か紹介しているが、「逆」を考えるというのは、物事を明確に捉える時に便利な考え方である。


例えば「なぜこれがあるのか」を考える時は、「ないとどうなるのか」を考えるとよい。

ルールの存在意義を考える時などにも有効である。


同じように、行動様式にもこれを採用してみる。

思い込みの逆をいってみると、うまくいくことが多い。


何でも使えるのだが、例を挙げて考える。


身体が疲れるから、姿勢を崩す。

実は逆で、姿勢を正して立腰を心掛けると、負担が減って腰が疲れなくなる。


お腹が空くから、たくさん食べる。

これも逆で、たくさん食べているのが、もっと食べたくなる原因である。

胃が拡張する。

食べる量を少しずつ減らしてゆっくり食べるようにすると、お腹が空きにくくなる。


疲れているから、不機嫌な表情、声になる。

これも意識的に表情を変えることで、逆に元気になる。

次のウィリアム・ジェームズの名言の通りである。

「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ」

We don’t laugh because we’re happy. we’re happy because we laugh.


毎日ランニングを続けるのはきついから、週1で走ろうと決意する。

そうすると、続かない。

実は、週1よりも毎日走る方が続けられる。

毎日やることには意志力も判断も不要なので、精神的に楽である。

他のあらゆることがそうである。


さっぱり勉強しようとしない我が子に、勉強をしろという。

これはほぼ確実に、余計に勉強を進んでしなくなる。

ここへのアプローチ方法は様々にあるが、少なくとも正攻法ではうまくいかないのはもはや自明である。

逆説的に考えると、勉強しようとしないのは、十分に遊んでいない可能性がある。


・・・挙げればきりがないが、そういう考え方もある。

楽だと思う方に流していることが、実は苦を生んでいるというのが基本パターンである。


自分がつい安きに流しているものに対し、試しに実行してみると、何か変わるものがあるかもしれない。

2020年10月2日金曜日

やり抜く力は根性か技術か

前号、評価の在り方について書いた。

そこに関連して、関心や意欲、態度といった心の面をどう評価するか、あるいは向上させるかという点について。


新学習指導要領の3つの柱は、以下の通りである。


「知識・技能」

「思考力・判断力・表現力等」

「学びに向かう力・人間性等」


一方で、ここにおける学習状況評価の3観点は次の通りである。


「知識・技能」

「思考・判断・表現」

「主体的に学習に取り組む態度」


学校での勤務経験のある人はご存知の通り、以前の4観点が3観点に整理されたわけである。


「技能」の観点が独立していたのが、知識と統合されたのは大きい。

知識なき技能、技能なき知識(「畳の上の水練」)というのは、存在自体がややこしい。

統合してみるべきものである。

その点、以前よりは評価がしやすくなったように見える。


さて、どれが一番、評価が難しいか。

言わずもがな「主体的に学習に取り組む態度」である。

これによって「学びに向かう力・人間性等」を育む方向にもっていくのである。


ちなみにここへの評価は、話をよく聞くとか挙手回数が多いとかノートをきちんと書くとか、そういう目に見える類のことではない。

学習の調整や試行錯誤等、学び方そのものを見るというのだから、その評価の難しさは他とは桁違いである。


さて、自分自身を振り返ってみてみる。

大人である自分は、学びに向かう力・人間性等が、十分に成熟しているだろうか。

あるいは、学生時代に「主体的に学習に取り組む態度」に「A」評定をつけられるだろうか。

ここに自信をもって答えられる人は、そういないのではないかと思う。


とにかくこの「学びに向かう力・人間性等」は、対象が広範なのである。

そして、「主体的に学習に取り組む態度」という観点だけでは、到底計りきれない力なのである。


それでも、部分的には測定ができる。

ここから、心理学の話。


何度か紹介しているが「マシュマロ・テスト」の話である。

将来の2個のマシュマロ獲得のために、目先の1個のマシュマロを我慢できた幼児は、将来的にも成功する。

ここには、れっきとした結果が出ている。


さて、これを「意志力(グリッド)」とみなすこともできる。

目標に向けて、やり抜く力である。

やり抜く力は、学びに向かう力・人間性の一つである。


しかし、違う観点もある。

マシュマロを食べなかった子どもは、対象から気を逸らす工夫が上手だった、という観点である。

余計なものから関心を逸らす「見ない技術」ともいえる。

これが高いと、余計なものを見なくなるので、それに誘惑自体をされなくなり、当然目標達成の確立は高まる。


「根性」と見るか「技術」と見るかの違いである。


「根性」でいくと、鍛えるのがなかなか難しそうである。

昔の部活動のように一切水分をとらずに運動し続けたり、滝に打たれたりするのを想像してしまう。

意志力を、筋肉のように文字通り「鍛える」のである。


「技術」と見ると、何とかなりそうな気がする。

知っているか知らないかという知識ベースで、明暗が分れるのが技術である。

(泳ぐということへの知識を科学的に解明しているから、技術となる。従って、新しい知識からは新しい技術も生まれる。)


マシュマロを食べない根性。

我慢の力である。

目標のために、甘い物、お酒、たばこといった嗜好品、あるいはショッピングや動画閲覧をはじめあらゆる娯楽にふけらない力である。

誘惑が多い現代の中においては、かなり辛い状況である。


マシュマロから気を逸らす技術。

マシュマロのこと自体を考えない技術である。

これがあると、誘惑されないので、目標に近づける。

何かしら工夫のしようがありそうである。


ちなみに、食べなかった子どもの多くは、この気を逸らす工夫をしていたという。

違うことをしたり、違うことを考えたりする。

生得的なのか後天的なのかどうかはわからないが、それが身に付いているのである。

(ちなみに食べてしまう子どもは、とにかくマシュマロを凝視している。見ていて可哀そうなぐらいである。)


現実的に考えて、社会で誘惑されないための一番の方法は、それから離れることである。

SNSを惰性で見ていれば、当然誘惑の機会は格段に増える。

目標に向けて集中することも難しく、気が休まることはないと思われる。


何事もやり抜ける人というのは、根性があるというより、余計なものにふれていない、選択肢がないと思われる。

何事もやり抜けないという人は、選択肢が多すぎるのではないかと思われる。

お寺の修行で山に籠るという論理的な理由には、こういう側面が強くありそうである。


集中を妨げるものが多くある中で、学習に集中するのは難しい。

もしも授業をしてその学び方を評価をするのであれば、その授業に集中できるような環境づくり自体が大切といえる。

ぼーっとネットを眺めてしまうのを許すような環境を作ってしまっては、一人一台タブレットも泣くというものである。


そして評価できるのは、あくまでその結果である。

学びを調整できている子どもは、そのやり方が身に付いているのである。

言われるがままにやるしかできない子どもは、そのやり方が身に付いているのである。

(これは多分後天的である。ある意味、学校教育や学習塾等の訓練の賜物である。)

タブレットは刃物と同様、使い手のリテラシー次第で善にも悪にもなり得る強力な手立てである。


人間性といわれているものすら、技術的な側面がありそうである。


評価できるかどうこうを考える以前に、どうやればその力がつくのかを考えるのが前提として大切である。

2020年9月30日水曜日

通知表や評価はどうあるべきか

 小学校は学習指導要領改訂の完全実施に伴い、各地で大きな変化が起きている。

その中で、通知表の改訂等も行われている。

小学校の通知表でいえば、評価の観点がかつての4観点から3観点に変化した。


それに対し、評価の分け方を変えたところや、ある項目を記述に変えた、あるいは記述をなくした等、様々である。

中には、通知表自体をなくしてしまったという学校もある。

伝統的に通知表も定期テストもない中学校や高校というのも存在する。


参考:外部記事

「定期試験なし、通知表なし」を50年前から続ける学校 桐朋女子中・高等学校(1)

おおたとしまさ |



根本・本質・原点で考える。

評価は、教師にとっての振り返り材料という面がある。

しかしその本質は、子どもの成長である。


子どもの成長にとっての評価は、どうあるべきなのか。

評価されて褒められたからやる気が出る、というだけのものでいいのか。

逆に、厳しく評価されていたらやる気が出るといえるか。


実はこれら評価に対する反応は、個々の人間の特性によるものが大きい。

褒められてますます頑張る者がいれば、逆に図に乗って手を抜く者もいる。

厳しくされて奮起し、負けん気で上昇する者もいれば、落ち込んでやる気をなくしてだめになる者もいる。

つまり、一律の基準に則って評価をすること自体、個に応じた教育とは相反する面が生じる。


また、評価が難しいものもある。

例えばずっと議論が続く、道徳を評価するとは、どういうことなのか。

道徳は、押し付けられない。

しかし、教える側の基準の存在なしに、評価はできるのか。


主観的でない、本当に客観的な評価というのは、存在しない。

全ては、主観的評価である。


小学校における評価がどうあるべきか、改めて考えるべき時にきている。

2020年9月28日月曜日

少人数学級に効果をもたせるには

 今、少人数学級実現に向けて、議論が様々に起きている。

以前にも書いたが、少人数学級を急激に実現しようとすると、歪みが生じる。


次のベストセラー本にも、少人数学級のことが書いてある。


『「学力」の経済学 』中室牧子 著  ディスカヴァー・トゥエンティワン


「その教育に本当に効果があるのか」という切り口で、様々な教育の施策や手法を調査している本である。

この本のすべての根幹は「科学的根拠」=「エビデンス」である。


この本における少人数学級、学力向上への効果の評価はどうなのか。

結論だけ言うと

「少人数学級は効果があるが、費用対効果が低い」

となっている。


これは、学校において最も費用がかかるのはどこかを考えると納得がいく。


建物の改築でもICT関連の整備でもない。

人件費である。

人を一人雇うというのは、とてつもなく高い予算確保が必要になる。

まして正規雇用するとなれば、その費用は一年間で終わらないからである。

人間も、費用がかかるという点では設備や物と同様である。

「10年間で5000万円以上」の費用がかかるものに対し、一体いくつ買えるかということである。


単純な費用対効果でいってしまうと、人間はあらゆるロボットに勝てない。

ロボットは「作業能率」でいえば、最強だからである。


例えば多少高価なコピー機であれば、両面印刷からホチキス止めまで全てをボタン一つで自動で終えられる。

学校でも、20ページほどある冊子を何十部と作ることはままある。

これを人の手でやるとなると、かなりの時間がかかる。


職員会議がペーパーレスでないのなら、毎月のようにこの作業がある。

これを印刷して、並べて、一枚ずつとって、綴じて、という作業をやると、膨大な時間と手間がかかる。

教職員一人あたりにかかっている費用を考えると、かなりの無駄である。

高性能なコピー機に頼めば、1分以内の操作で終わる作業である。


こういう無駄なことが日常的に行われている学校がかなり存在する。

なぜなら、そもそも、そういう高性能なコピー機が配備されていないからである。

日本の学校の予算は、いつでもぎりぎりである。

(あるのに使わせてもらえない、という冗談のような事態も結構あるかもしれない。)


話を戻すと、少人数学級の費用対効果は、これら機器の導入と比較しても低くなる。

効果以上に、導入費用自体がものすごく高いからである。


その効果を高めるには、従来の在り方とやり方を変える必要が出るということである。

今のまま急に採用を増やしても、仕事に魅力がないのであれば、良い人材が集まらない。

また、機器が優秀だからといって、今のまま高性能タブレットを導入しても、活用の仕方がわからない。

(教科書配付のコストがなくなるのは大きい。印刷と配送料だけでも相当な費用である。)


新しいやり方には、新しい在り方がある。

新しい生活様式になって久しいが、環境が変わると、あらゆるルールががらりと変わる。


新しいことの導入は歓迎しつつ、どうあるべきかを探っていきたい。

2020年9月26日土曜日

「お願いします」「ありがとうございます」の礼儀

 日本の首相が辞任という、大きなニュースが世界を駆け抜けた時に書いた記事。

首相へのインタビューが横柄・無礼すぎるということで一部問題になっていたが、同感である。

これだけ長きにわたり日本の政治のリーダーとしてやってきた相手なのだから、どういう立場にせよ、対する時の礼儀はあって然るべきである。


政治的な立場や上下関係云々を抜きにして、人に接する時の当たり前の礼儀というものがある。

これが今、日本の世の中に欠けてきているものである。

日本がリベラル化していくということと、国際的にも通用する礼儀をもつというのは、別問題である。


そもそも、日本を動かすほどの立場の苦労なぞ、市井の身にはわかりようもない。

自分よりも重い責任ある立場を務めてきた人に対し、労いの念と礼儀をもって接するのは至極当然である。

そういう人に聞きたいことがあるのなら、一言「お疲れ様でした」と付けるぐらい、できたのではないかと思ってしまう。

自分の用事優先、自分軸中心になってしまっている感は否めない。


この辺りの「平等」を勘違いしてはならない。

人間が生まれながらにして平等であるということの意味と、相手を人間として尊重するということは同義である。

全ての人間の年齢や能力、生まれた時の地位や財産が同じだと言っているのではない。

全ての人間には人権があるといっているのである。

子どもに対して尊敬の念をもてないという人は、この辺りの人権感覚がズレている。


すべて、人に対して、礼儀をわきまえる。

自分の上司のような、立場が上の人に接する時は、普通誰でも意識する。

しかしそれで自分よりも立場が弱い人に横柄になるのであれば、上の人への礼儀も偽物である。

特に子どもなどの立場が弱い相手に接する時には、意識的に相手を最大限尊重する態度をとる努力をすべきである。

(一方、どんな立場の相手にせよ、横柄な相手にこちらが無理にへり下る必要はない。)


だから、子どもには、礼儀を教える。

何か頼む時は「お願いします」、してもらったら「ありがとうございます」の一言を添える。


それに相手の立場や自分との関係性は、一切関係ない。

友だちだろうが先生だろうが、親だろうがコンビニの店員さんだろうがバスの運転手さんだろうが、近所の小さい子だろうが、すべて同じである。


誰が相手だろうが、何かしてもらう時は「お願いします」とセットで「ありがとうございます」

それを習慣化する。


これは、教える側にも当てはまる。

例え子どもに頼むのであっても、自分の頼みごとであればお願いの一言を添え、してくれたことにはお礼を伝える。

(ちなみに、子どもに「勉強をしてくれてありがとう」というような馬鹿な話はない。

子どもが勉強するのは、あくまで子ども自身のためである。周りの大人がお礼を言うのは筋違いである。)


つまり、立場の上下とは別の話なのである。

人と接する際の、当たり前の基本のキの話である。


こういうことを、今は学校が教えるしかなくなっている。

家庭内が核家族化し、親と子しかいない関係性だと、教えられないことも多々ある。

だからこそ、学校がやるべきことである。


善意の強制、価値ある強制とは、師の野口芳宏先生の言である。

知らぬなら、知るように教えればよい。


自国における世の中の乱れの責任の一端は、常にその国の学校教育の結果にあることを忘れずにいたい。

2020年9月24日木曜日

教材研究なしの俳句の鑑賞指導

久しぶりに授業実践の記録。


5年生で、次の句を鑑賞した。


目には青葉山郭公初鰹 山口素堂


このまま出されても、小学生には読めない。

いや、大人でも知らなければまず読めない。

だから、教科書には振り仮名が振ってある。

(敢えて漢字を読めないままで進める鑑賞の方法もある。)

特に「山郭公」の部分だが、読みは「やまほととぎす」である。

(ちなみに「ほととぎす」という漢字は山ほど種類がある。)


私は3学級分の国語を担当しているので、3回実践できる訳だが、それぞれ違った鑑賞になるので面白い。


今回、私は敢えて教材研究をしないで授業に臨んだ。

俳句は少しの間だが自分が句会に属してやっていたこともあり、鑑賞については即時であっても一日の長があると踏んでのことである。

(そもそも、句会で出てくる句に投票する際には、その場で作られた句に対して行うのだから、先行知識などありようもない。)


俳句などは、知れば知るほど深く味わえるようになる。

一方で、デメリットとして、知れば知るほど、教えたくなるというのがある。

そうなると、子ども自身による鑑賞のつもりが、こちらの知識先行の指導になってしまう。

先入観があって読むことで、子どもと同じ未知の目線に立ちにくくなると考えて、敢えての挑戦である。


さて、これがなかなか面白かった。


まず、視写した後に、全員で読んでみる。


さっぱりわからない様子。

私も、一読した感じだけでは、正直意味がよくわからない。


とりあえず、景色を見たままを書いている感じは伝わった様子。

いわゆる叙景句であるということだが、その用語はここでは指導しない。


次に、俳句のルールについて確認した。

1 五・七・五

2 季語が入る 

さらに、「季語は原則として一句に一つのみ」ということも教えた。


すると子どもが「文字数(音数)が当てはまっていない」という。

その通りである。

最初の「目には青葉」からして、いきなり六音である。

そこは後で扱うためにとりあえずスルーして、次の問を出した。


「季語はどれか」


当然、子どもは迷う。

出している私も迷ったが、一緒に迷って考えるために出したのである。

(これが、結果的には鑑賞の肝となる主発問となった。)


A 青葉

B 山郭公

C 初鰹


どれも、全て初夏の季語である。

つまり、季語が3つも入っており、これも原則外れである。

子どももそれに気付いている様子。


「季節はいつ?」と確認すると「夏」とくる。

どれも夏のものだという。

「初夏」という言葉を伝え、確認した。


実はどれも季語なので、次のことを教えて問い直した。

「実は、皆さんの予想通り、3つとも初夏の季語です。

しかし、一句に季語は原則一つ。

つまり、どれか一つだけが中心となる季語ということです。

それが、作者の一番伝えたいものです。

さて、どれでしょう。」


きいているが、きいている本人もまだ迷っている状態である。


こうすると

A:B:Cで1:2:4という比率になった。


理由をそれぞれ聞く。


Aの青葉は「最初に出てくるから。大切なものは最初。」

「青葉だけ『目には』とはっきりついているから」ときた。


Cの初鰹は逆に「最後に出てくるから。大切なものは最後。」ときた。


Bは明確な理由が出ない。


ここで、Aの理由を拾って、次のように問うた。


「青葉だけ『目には』とあるけど、他のものも、目で見ているの?」

自分がそう思ったから、きいてみたのである。


子どもは「う~ん?」と唸る。

私も「う~ん?」と唸っている。

改めて、句全体をよく読み始める。


続けて、もう一つ自分が疑問に思っていたので、きいてみた。

「この初鰹は、泳いでいるやつなのかな?」


「そう、泳いでる」

「いや釣っているところだ」

「いや、食べるためじゃ・・・」

私が「刺身!?」ときくと、「そう!」という賛同の声と「え~!?」という声。


散々迷ったので、辞書で「初鰹」を引いてみると

「初夏に市場に出る」とある。

さらに考えてみると「鰹が泳いでるのって・・・目で見たことないよね・・・」ということになった。

つまり、最低でも水揚げされた後である。


さらに「青葉と山ほととぎすは山の中なのに、鰹は海でおかしい」

という意見。

「川に鰹はいないよね?」という話になり、「どこかの山小屋?」「山の中の旅館?」ということになった。

山の中で見られる、さらに日常で見る状態の鰹となると「刺身」が一気に有力説である。


これに続いて「山ほととぎすは、音じゃない?鳴いている声」という意見が出た。

これまた電子辞書でほととぎすを引くと、音声が出るので、鳴き声をみんなで聴いた。

なるほど。いい鳴き声である。

一気に「鳴き声」が有力説である。


これまでの意見をイラストで整理した。

どこでそれを感じているかである。


青葉←目

山郭公←耳

初鰹←舌


となる。

どうやら伝わってくるのは、青葉の素敵な感じ、ほととぎすの美しい鳴き声、それ以上に、「初鰹旨し」という「食いしん坊」な感じの句であるということになった。

「花より団子」である。


単なる文字の羅列でしかなかった一つの句から、命の入った句へと生まれ変わった瞬間である。

子どもと一緒に、鑑賞の面白さを味わうことができた。


読み終わって子どもがいったのが「教科書の句は、原則を全然守っていない」という指摘。

いい指摘である。

そこで「プロになると、原則から外れた、離れ業ができるようになる」という話もした。


その意味を、イチローのバッティングフォームで説明しようとしたが、伝わらず失敗。

ピカソで例えたら伝わるかと思ったら「ピカソはああいう変な絵(キュビズムを指す)しか書けない」と思っていたらしく、撃沈。

何かもっといい例えができたら良かったのだが、とにかく「基本を外れるのは上手になってから」というのは伝わった(はず)。


これは、今回の授業にも当てはまる。

少なくとも、私も小学校教員としては、20年選手に届こうかというところである。

さらに俳句に関して、私自身に多少の知識があったことは、授業成立の要因の一つであることは否めない。

「教材研究しないで授業に臨む」というのは、大いに原則外れであり、通常は失敗する。

指導者が無知に適当に寄り添っていればいい、というものでもないことだけは強調しておきたい。


授業は、面白い。

この授業での発言した一人ひとりに、点数をつける必要はない。

みんなでうんうん唸って考えたから、面白い時間が共有できたのである。

(そして興味をもてずに眠りかけている子どもがいたかもしれないことも、常に念頭に置いている。)


子どもと共に作り上げる授業を、なるべく多くしていきたいと願う昨今である。

2020年9月22日火曜日

再生能力だけでなく、問題発見・解決能力を

 

「頭のよさ」に関する教育観について。


子どもたちの「〇〇さんは頭がいい」という認識を見ると、偏りが見られる。

単純に、テストの点数で見ていることがかなりある。


この見方は、子どもに限らないかもしれない。


テストで点数が取れる。

これについては、大抵は「再生能力」に左右される。

要は、お手本通りに再生できるかどうかである。

レコーディング機能のあるものや、CDプレーヤーやDVDプレーヤーなどは、この面において最強である。


漢字テストはその最たるものであるし、算数、数学のテストのほとんどはそれである。

だから、取り組んだ回数がものをいう。

多く問題に取り組んでいる方が、再生能力は高まる。


あらゆる「習い事」も、読んで字のごとく、やはりこれである。

習うのだから、倣うこと、模倣からである。

お手本を見て、型を覚える。

そのために、同じ練習を繰り返し繰り返し行っていく。

単純作業である。


つまりは、小学校や中学校段階で周りから「頭がいい」昔なら「神童」と評されるには、いかに繰り返すことができるかである。

当たり前だが、単純にそれを好きでやっている子どもが最強になる。

あるいは、ひたすら単純作業を淡々と続けらえる子どもも、この能力は強化される。

親の命令に従順な場合、親の願いを読んでしまう場合も、しばらくはもつ。


要は、あらゆる学習の第一段階をクリアするには、量をこなす必要がある。

この第一段階クリアの状態が、小中学校時代に「頭がいい」と評される条件である。


だから、テスト自体には意味がある。

テスト、試合、本番があるからこそ、そこに向けてクリアしようと意欲も湧く。

一つの能力を高める側面があるといえる。


再生能力が高いというのは、それはそれで大切である。

特に、決まった動きが必要になる仕事やスポーツなどでは、最も重要な力である。


しかし、今の時代に求められている本質的な賢さというのは、そこだけではない。

端的に言って、問題を自分で発見し、解決する能力である。


問題を発見するとは、気付けること。

気付けるかどうかというのが、勝負の分かれ目である。

例えば日常生活の中でも、問題があるのに気づいていないということはかなり多い。


一旦問題に気付いて課題設定できれば、解決には集団の力で向かうことができる。

課題を細分化し、役割分担する、といったチームリーダー的な力が求められる。


これは、再生能力とは違う。

社会に出てから「頭がいい」と評される人は、こちらの能力の高い人である。

(依頼した課題をさっと上手に解決できる人は「腕がいい」と評される。)


学校教育に、高い再生能力が求められた高度経済成長期。

それらが通用しなくなってきたという反省に立ち、現在の学校教育はその在り方を大きく変えようとしている。

文科省の指針自体は正しいはずなのに、具体が追い付いていない状況が続く。


せめて小中学校現場では、テストの点数で子どもの頭の良し悪しが評されるような風潮をやめにしていきたい。

テストの点数は、あくまで再生能力という一つの側面である。

テスト中心で子どもが、人間が評価されるような学校教育を、どうにか変えていきたいと考える次第である。

2020年9月20日日曜日

仕事に誇りをもつには

 今回は、具体ではなく、とても哲学的な話。

仕事術ではなく、教育観に寄った話である。


仕事に誇りをもつというと、大上段に構えているという人もいるし、そんな大した仕事をしていないと謙遜する人もいる。

確かに、こういう高尚な感じのする言葉には、そういう嫌味な面が見えることもあるのかもしれない。

しかし、特に現代の教職に就く人には、それぐらいの意識がある方が働きやすいのではないかと考えている。


日本において「小学校教師」ときいて、社会一般はどのように反応するだろうか。

あるいは、現役の小学校教師たちは、どのように認識している、あるいは、認識されていると感じているだろうか。


残念ながら、あまり良い印象をきかない。

今まで働いてきた身近なところできいてきても、

「この仕事は好きだけど、社会に認められているとは感じられない」という人が多い。


試しに、Googleで「小学校 教師」と入力してみる。

そうすると、このワードに続いて、予測ワードが出てくる。

上から順に

「給料」「おかしい」「資格」「苦情」「大変」「大学」「服装」

ときた。

何だか、残念な気持ちになるワードがいくつか並ぶ。


この社会的な認識のもとで、誇りをもてというのは、なかなかに難しい。

そうなると「どうせ」「自分なんて」と思いやすい。


ただ、もしもそんな認識の大人に教わる子どもたちは、どう感じるのか。

どんな職業観や倫理観をもつ人間に育つのか。

あまり良い影響を与えられなそうである。


やはり、人に教える職業である以上、仕事には誇りをもちたいところである。

子どもにとって最も間近で仕事の姿を示す大人である以上、生き生きとしている方がいいに決まっている。

だから、教師は周囲の認識より高めの意識をもつぐらいで、ちょうどバランスがいいのではないかと考えている。


特にまだ新卒などの若い人なら、鬱陶しがられるぐらい元気だったり、たとえ静かでも熱心すぎるぐらいだったりする方がよい。

がんばろう、挑戦しようという心がなくなり、楽を求め始めると、やがて枯れて、腐っていく。


諦めて気持ちが枯れてしまうぐらいなら、頑張って挫折した方がずっといい。

折れても直せるが、枯れたものは、再生が難しい。

また折れた状態からしっかりと立ち直れた場合、以前より格段に強くなる。

一方、生活の保障がある程度約束されている分、枯れる方にゆっくりと転げ落ちていくのは容易である。


だから、仕事への誇りなのである。

誇りをもっていれば、自分の仕事をないがしろにはできなくなる。


仕事に誇りをもてると、それに従事している自分にも誇りをもてるようになる。

目の前の子どもに、どういう価値のある人間として立つのか。

自分が教えることで、他にないどういう価値を提供できるのか。

そこに、教科書通り、マニュアル通りでないオリジナリティが出てくる。


仕事への誇りは、心の支えになる。


いくつになっても、挑戦している人は若々しい。

私がかつて見てきた、尊敬したくなる現場の先生方は、50代以降にしてなお輝きを増す魅力溢れる方々だった。

枯れる兆しもなく、気持ちが張っている先生方である。

何なら、80代なのに、20代よりも精神的にずっと若々しい人もたくさんいる。

(肉体はさすがに別らしい。腰とか膝とか目とか耳とかにくるようである・・・。)


ご本人たちは意識していないのかもしれないが、そういう人たちと話すと、やはり仕事に誇りをもち、それが好きなようである。

「もうこんな年だけれども」とよく言う。

「けれども」なのである。

「だからどうせ」「でも」「だって」の対極である。

「けれども」からは、表面には見えない奥底から沸々と湧き上がってきそうなエネルギーを感じる。


どうすれば仕事への誇りをもてるのか。


まずは自分が今目の前でやっていることに、少しでも自信がもてることである。

それには、自分のやっていることが、誰かの幸福に貢献できていると感じられること、自覚していることである。

これは、仕事の本質であり、全ての職業に共通してい言えることである。


ちなみに外的要因でいうと、「管理職」「同僚」「保護者」のいずれかが「敵」に見えると、かなり萎える。

特に同僚の励ましや承認がないのは厳しい。

もし職場の若手が元気がない、大人しすぎるとしたら、同僚である自分がやるべきことをやっているか振り返る必要がある。

「安全・安心」の信頼ベースがないと、たとえ高い志があっても、人間は挑戦できないからである。


何となく暗い日本の現状を打破して、明るい未来をつくっていくのは、教育の力である。

そのための重要な任務を背負っているという自覚と誇りをもって、仕事をしていきたい。

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