本日は大晦日だが、勤労感謝の日に書いた記事である。
今年一年の勤労に感謝するという意味から載せる。
子どもたちには、まず「感謝」とはどういうことかを教える必要がある。
感謝できることは身の回りにあふれているのに、放っておいてもなかなか自然には気付けないことだからである。
当たり前にあることが実は「有り難い」ことと気付かないとできない。
だからといって「感謝しなさい」と直接教えても駄目である。
謝れと言われて不承不承謝るのと同じで、それでは意味がない。
人々の勤労に対し、感謝するのが本来当然のことである。(故に気付けない。)
外を安全に出歩けるのも快適な暮らしができるのも、どれも人々の弛まぬ勤労の賜物である。
自然の恩恵への感謝はそれらの大前提にあるものだが、これにもなかなか気付けない。
やはり、きちんと教える必要がある。
蛇口を捻ったら、当たり前のように水が出る。
これは、驚異的なことである。
もし水道管が壊れたり、濁った水しか出てこなくなったら、私などには手も足もでない。
配管工の技術も水の浄化の技術ももっていない。
全て、他の職業の方々の技術による恩恵を受け続けている結果である。
もっと言えば、その仕組みを考えて作って下さった先人の努力の賜物である。
そして、そもそもが雨という天からの恵みであり、大自然の恩恵の賜物である。
これが、電気だろうがトイレだろうが、病院だろうが美容院だろうがスーパーマーケットだろうが全てに言える。
全ての生活のインフラ整備は人々の勤労の賜物である。
自然災害のような大な出来事に遭遇して初めて気付けることでもある。
大自然の恩恵も脅威にもそこで気付く。
私の職能からすれば、学校教育の分野で貢献するしかできない。
だからそれを用いて全力で社会に貢献することで、見返りとして他の方々の勤労の恩恵に与ることができている。
一方で、様々な理由で勤労に携われない人々もいる。
この人々も、他の人々の勤労の恩恵に与る権利がある。
そもそも「ヘルパー」という類の仕事は、助けられる人、介護される人等がいなくては成り立たない。
助ける相手がいるからこそ全ての仕事は成り立つ。
全ての人が生きる権利があるという所以である。
教える仕事も同様である。
教える相手、子どもあってこそである。
(全員が万能選手で、全知全能の存在だったら、勤労も教育も貢献も存在できない。)
日本においては、その教わる子どもたちに、勤労(賃金を伴う労働)は不要である。
むしろ「児童を酷使してはならない」と法で禁止されている。
学問に興じて恩恵を受け取る存在であっていいと規定されている。
これ自体が、幸福な証である。(ただし本来は、という話であり、現実は何かが大きくねじ曲がっているが。)
日々、人々の勤労の多大な恩恵に与っていることに気付かせること。
これ自体が教育である。
何のために学ぶのかというのも、結局ここである。
学ぶことを究めれば、それは後々に大きな社会貢献に繋がる可能性がある。
学問の徒となる道である。
一方で、勤労は直接的な社会貢献である。
働くことそのものに意義がある。
人間は社会的な生き物であり、他者との関係の中でこそ生き甲斐を感じられる。
働けるということは、自分を生かして人々の役に立てるということであり、喜びである。
学校でも、自分たちの受けている豊かな恩恵に気付き、将来の勤労への意欲をもつ教育の機会をもてるようにしたい。