2020年6月14日日曜日

ふれあいの価値

相撲遊びが好きである。
テレビで観たり、まして両国国技館へ観覧しに行ったりもしないが、相撲遊びは子どもの頃から好きである。

小さい頃から割と力が強かった方であった。
小3ぐらいの時に、図工の先生をよくいたずらでおんぶして持ち上げて歩いていた記憶がある。
たまに家に父親がいれば、狭い家の中で相撲をしてもらい、投げ飛ばされていた記憶がある。
体格の差に、手も足も出なかったが、何度でもやってもらっていた。

学校が再開しても、相撲遊びは当分できない。
相撲は、密接中の密接な遊びである。

思えば子どもの遊びや体育での運動というのは、とにかくくっつくものが多い。
おしくらまんじゅう、花いちもんめのような昔遊びしかり。
夏の暑い盛りに「虫見つけた!」と誰かがいえば、とんで一か所に集まって頭をくっつけ合う。(この逆に虫的な姿が、好きである。)

子どもは、互いにくっつくことによって、学ぶ面が大きい。
そもそも赤ん坊の脳は、母親に密にくっつくことによって発達する。
大人になったって、仲間を励ます時には、ポンと肩をたたく。
ふれあうということは、社会性そのものである。

今回の「接触禁止」の学校教育というのは、この根本が揺らぐ。
「相手に感染させない」という視点から、自ら離れなければならない。
仲間同士もふれあって遊べないし、当然教師も子どもとふれあえない。

ふれあって遊べない、学べないということは、寂しいし、何かと不便である。

しかしながら振り返ってみれば、実際今までもこういう状況で過ごしていた人たちがいたということでもある。
世の中には、かすり傷を負っても致命傷になるような病気や、人から隔離されて生きるしかない病気がある。
ふれあいたいのにふれあえない。
一緒に遊びたいのに遊べない。
今とは違い、自分だけがそういう状況というのは、寂しいことである。

不便というピンチは、気付くというためのチャンスである。
今までの当たり前が、いかに幸せなことで溢れていたかを知るためのチャンスである。
今気付かなければ、長い目で見てもっとピンチになっていたかもしれない。

人とふれあえるということや、集まれるということ。
その当たり前の価値に気付いた後の学校や社会は、今までとは違う価値観が生まれてくるはずである。

何かと不便ではあるが、今は気付きのための期間として、大切に過ごしたい。

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