2011年9月12日月曜日

教育を食べ物にたとえると?

個性を尊重しよう。
違いを認める。
大変結構である。

だから、水を飲みたくない馬には飲ませなくてよい、となる。
・・・果たして、本当にそうだろうか。

その水を飲まないと、これから先の旅の途中で倒れるかもしれない。
何とかして飲ませないといけない。
そういうことも、ある。

教育内容を獲得していくことを、食べ物を消化することとたとえてみる。

あれもこれもと全部食べろと求めると、消化不良を起こす。
そこには、体に合っていないものも含まれる。
でも、試しに提供してやる必要はある。
食わず嫌いなだけで、すごく好きになるかもしれない。
逆にレバーみたいなクセの強いものを、体にいいからと言って無理矢理食べさせられたら、迷惑である。

一方、水は、好むと好まざるとに関わらず、確実に全員が吸収する必要がある。
これは、あの手この手で何とか飲ませる。
ニンジン嫌いの子どもに、母親がニンジンをみじん切りにして料理に混ぜて食べさせるのと同じである。

教育はこの辺りの見極めが結構大切ではないかと思う。
全てバランス良く食べてくれたら最高。
嫌いな野菜や食べ物がいくつかあるのは、正常。
しかし、異常に摂取量が少ない、水を全く飲まないとなると、これは病気になるので認めない。

水にあたる部分は、道徳ではないかと思う。
米やパンが、基礎学力。(種類は少なめ。たくさんとればエネルギー値が高い。)
肉や野菜は、各教科の力。(苦手がいくつかあるのは、あり得る。)
デザートは、遊び。(大抵は好きこのんでいくらでも食べる。)
コーヒーなどの嗜好品は、それぞれの趣味によるので、サッカーや野球、ピアノや習字などの習い事にあたる。
(楽しめれば人生が豊かになるが、別に食べなくても支障ないもの。)

そんな風に考えてみると、違いを認める部分と認めない部分が見えてくる。
(次号に続く)

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