2022年5月7日土曜日

「聞かなくてもいい」はあり得るか

前号では「教えない」の大切さについて書いた。

教えすぎるから、聞かなくなるのである。


今号ではここについて取り上げる。


「聞く」に関する指導の悩みが存在するのは「聞けない」からである。


前提から疑う。

「聞かなくてもいい」という状況はあるか。

ある。


教師が時にリラックスしてはさむ雑談など、別に全員が聞いてなくてもいい。

下らない話であり、ただお互いのリラックスのためでもある。

話す側にとって必要でも、聞く側にとって必ずしも要るものではない。

(聞いてないでぼーっとしている方がむしろリラックスしているかもしれない。)


全員のいる場で、特定の一人に用があって話しかけることがある。

(「○○さん、連絡帳を提出してください」など。)

これも全員が聞いている必要はない。

この問題点を挙げるとしたら、全員が聞かなくていいことを、全員に聞こえるように話している側にある。

個別に声をかけるべきところである。


つまりは、話す側にとっての自己都合的なニーズがあって話すという場合、相手は聞かなくていいという状況があり得る。

無理矢理売ろうとしている下手なセールスマンのようなものである。

教える側が「テストに出るからよく聞いて欲しい」と思っていても、相手はそう思っていない。

相手側に聞くニーズがない場合である。


(教師の側は「子どものため」と主張するかもしれないが、その内実は自分のためであることも多い。

私は若い時分、テストの平均点にやたら拘っていた時期があったのでよくわかる。

とても駄目な行為であったと反省しきりである。)


ここで反論が予想される。

子どもは授業中ぐらい全てきちんと聞くべきではないかと。


それはその通りなのである。

その通りなのだが、その通りではないこともある。

教師がいつも訳のわからない話をしていたり、下らないことばかり言っていたとする。

そうなると「真面目に聞く価値なし」と聞き手である子どもに判断される。


集中力というリソースには、限界があるからである。

無駄づかいはできないのである。


厳しいことを言うと、いつも訳のわからない説明をしているから、聞かないということである。

客観的に見て「聞かなくてもいい」状況である。


つまり「聞く」という行為は、話し手と聞き手の両方で成立する。

「聞かない」相手の中に問題を探しがちだが、実は話し手の側に問題が存在することも多々ある。


逆に言えば、どんなに相手のためを思って話しているつもりでも、最終的に結局は相手次第である。

相手が「聞きたくない」と思っている以上、「聞く」という状況は成立しない。

「日常が全て」である。


「聞く」という行為も、損得の問題なのである。

聞いて得するなら聞くし、得をしない(=損をする)なら聞かない。

大人も子ども同じであるが、そこはむしろ、忖度しない子どもの方がシビアである。


それは決して不道徳な話ではない。

メリットとデメリットは、人間の行動を決定づける最重要の要因である。


聞く子どもを育てたいなら、「聞かなくてもいい」を促進するような話はなるべくしないよう心がけたい。

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