前号では「教えない」の大切さについて書いた。
教えすぎるから、聞かなくなるのである。
今号ではここについて取り上げる。
「聞く」に関する指導の悩みが存在するのは「聞けない」からである。
前提から疑う。
「聞かなくてもいい」という状況はあるか。
ある。
教師が時にリラックスしてはさむ雑談など、別に全員が聞いてなくてもいい。
下らない話であり、ただお互いのリラックスのためでもある。
話す側にとって必要でも、聞く側にとって必ずしも要るものではない。
(聞いてないでぼーっとしている方がむしろリラックスしているかもしれない。)
全員のいる場で、特定の一人に用があって話しかけることがある。
(「○○さん、連絡帳を提出してください」など。)
これも全員が聞いている必要はない。
この問題点を挙げるとしたら、全員が聞かなくていいことを、全員に聞こえるように話している側にある。
個別に声をかけるべきところである。
つまりは、話す側にとっての自己都合的なニーズがあって話すという場合、相手は聞かなくていいという状況があり得る。
無理矢理売ろうとしている下手なセールスマンのようなものである。
教える側が「テストに出るからよく聞いて欲しい」と思っていても、相手はそう思っていない。
相手側に聞くニーズがない場合である。
(教師の側は「子どものため」と主張するかもしれないが、その内実は自分のためであることも多い。
私は若い時分、テストの平均点にやたら拘っていた時期があったのでよくわかる。
とても駄目な行為であったと反省しきりである。)
ここで反論が予想される。
子どもは授業中ぐらい全てきちんと聞くべきではないかと。
それはその通りなのである。
その通りなのだが、その通りではないこともある。
教師がいつも訳のわからない話をしていたり、下らないことばかり言っていたとする。
そうなると「真面目に聞く価値なし」と聞き手である子どもに判断される。
集中力というリソースには、限界があるからである。
無駄づかいはできないのである。
厳しいことを言うと、いつも訳のわからない説明をしているから、聞かないということである。
客観的に見て「聞かなくてもいい」状況である。
つまり「聞く」という行為は、話し手と聞き手の両方で成立する。
「聞かない」相手の中に問題を探しがちだが、実は話し手の側に問題が存在することも多々ある。
逆に言えば、どんなに相手のためを思って話しているつもりでも、最終的に結局は相手次第である。
相手が「聞きたくない」と思っている以上、「聞く」という状況は成立しない。
「日常が全て」である。
「聞く」という行為も、損得の問題なのである。
聞いて得するなら聞くし、得をしない(=損をする)なら聞かない。
大人も子ども同じであるが、そこはむしろ、忖度しない子どもの方がシビアである。
それは決して不道徳な話ではない。
メリットとデメリットは、人間の行動を決定づける最重要の要因である。
聞く子どもを育てたいなら、「聞かなくてもいい」を促進するような話はなるべくしないよう心がけたい。
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