2017年9月30日土曜日

「定型発達」を考える

最近、本を読んでて考えたこと。
ちなみに、少し前に紹介した、東田直樹さんの本からである。

「定型発達」という言葉をご存知だろうか。

Wikipediaによると
「自閉コミュニティにおいて造り出された用語で、自閉症スペクトラムに当てはまらない人々を指し示す」
とのこと。
要するに「健常者の発達」を指す言葉のようである。

では、どういうことが定型発達なのか。
簡単に言うと、その年齢の平均値内だと、定型発達ということになる。
〇歳だとこれができるのが「普通」といわれるアレである。

世に出る「平均」の数値というのは、妥当性を考えると、かなり怪しい。
例えば、適当にネット検索して、日本の40歳の年収の平均を調べると、あるサイトでは「561万円」というデータが出る。
561万円周辺の人の絶対数が多いほど、この平均値の妥当性が高いといえる。
(いわゆる、数学で言う「ばらつき」や「偏差値」である。)
しかし、実際は、かなり困窮している人から、世界的大富豪レベルの層まで、かなり幅広い。
年収100万円以下だってざらだし、100億円以上だってゴロゴロいる。
しかも、それが「特異」な数人ではなく、相当な数がいる。
この場合、平均値の数値は、あまりあてにならない。

学校というのは、都合により学習指導要領で最低限身に付けるべき内容が決まっている。
これは、少数の教員で多数の子どもを教える以上、一面で仕方のないことである。

しかし、個人の発達を考えれば、年齢で一律の発達を想定して教えるというのは、全くナンセンスな話である。
「時速90kmで東京から360km離れた名古屋に向かって車で走ったら何時間でつくでしょう」という問題と同じである。
そんな一定の速度で予定通り行ける訳がない。
実際は、その日は東名高速道路が渋滞しまくって半日かかりましたという話である。
そんな算数の問題ばりに「〇歳でこうなる」という「右肩上がりの成長直線」が設定されているように思う。

個人的には、2歳児の成長発達曲線とか、ない方がいいと思っている。
あれを見ると、平均値から外れた場合に親は過剰な心配をしてしまう。
2歳ぐらいで皆が同じように発達したら、ロボットじゃあるまいし、それこそ「不自然」である。
(逆にあるから安心な面もあることは否定しない。)

現実には教育システムの基本が「定型発達」を前提に組まれている訳である。
例えば文字言語一つとっても、これがいえる。
平仮名と片仮名を覚えるのは小学1年生。
あの漢字は「難しい」から6年生。
この漢字は「簡単」だから2年生。

現実には、ある子どもにとっては3歳で平仮名も片仮名も無理なく覚えられるし、ある子どもにとってはその時は小学一年生よりずっと後である。
学級担任を数年やったら誰しもがわかることである。

「発達」を考える時は、植物を育てるとわかりやすい。
同じように同じ植物の種を育てても、個によって芽の出る時期も育ち方も全く違う。
栄養をやたら与えてもダメ。
やらなすぎてもダメ。
時期を外してもダメ。
無理にひっぱって伸ばしてもダメ。
心配になって掘り返したりしたら完全にアウト。

子どもは(大人もだが)、個の中にある「自然」の時に合わせて発達する。
「〇歳だから●●ができる」という大人の作った時計(枠)とは別の時間の流れである。

だから、特別支援教育が必要だし、インクルーシブ教育や授業のユニバーサルデザインの必要性が台頭してきている。
全体主義から「個」へ視点が移ってきている傾向にある。

平均の拠り所とは、要は「比較」である。
平均を重んずるということは、自分よりも他との比較の方が重視されている訳である。
本来、馬鹿馬鹿しい話である。

目の前の唯一無二の子どもには、可能な限り比較でない見方をしてあげたい。

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