前回の続きを。
学びのシェアができる時、教師は一方的に知識を伝達するのではなく、教師自身も子どもから学ぶ。
新美南吉の「てぶくろを買いに」という作品がある。
きつねとわかっていたのにてぶくろを売ってくれた人間に対して
「人間って、ちっとも怖くない」と子ギツネが母ギツネに伝える場面がある。
これを読んだある子どもが、次のように発言したという。
「たった1回の体験で、人間をいいと決めつけていいのかなぁ」
それを受けた他の子どもが
「やっぱり、親子だね!」
「何で?」と先生。
「だって、母ギツネも1回の体験で、人間を怖いと決めつけたじゃん。」
これらの発言に、担任教師は子どもに脱帽したという。
ちなみにごんぎつねの授業でも、最後の場面で「ごんがかわいそう」という子が多数の中、
「兵十がかわいそうだ」と発言する子ども。
「だって、兵十はもうお礼を言えなくなっちゃったから。」
子どもは、色々な見方をするものである。
教師のように先行知識がないだけに、発想が自由である。
それらの自由さの中から、教師も学んで欲しい。
大体、そういう内容だった。
2011年3月6日日曜日
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