2018年5月2日水曜日

桜先生

今日はエッセイ。
(一月前のメルマガ記事からの転載なので、季節外れであることはご容赦願いたい。)

関東は、お花見シーズンのピークである。
桜の花を眺めていると、不思議と心がわくわくしてくる。
別に何がある訳じゃないのに、不思議なことである。

花を見て、心が満たされるというのが大切である。
花を見ても何も感じない、ましてお花見で怒っているとかだと、無意味、あるいは害悪ですらある。

要は、心持ちである。
余裕がないと、何もいいと思えない。
余裕があると、何でもいいと思える。

この心持ちというのは、自分でしか決められない。
幸せや穏やか、平安は、意識的な選択である。

無意識に任せていては、不幸や不満、不安、怒りに流される。
本能は、生存すること自体を第一義に考えるため、不安や恐れのある状態の方が、生き延びやすいという。
(大自然の中で何の恐怖心も警戒心ももたずにうろついてたら、他の生物に食い殺される可能性が高い。)

だから、意識を放っておくと、人間は自然とネガティブを選択することになる。
無意識状態は、ネガティブなのである。

わかりやすく、身近なSNSを使用する場合を例にする。

桜並木でも何でもいいのだが、美しい風景をSNS上にアップしようとするとする。
満たされた心で「この素晴らしい景色をあの人にも見せてあげたい」と思うか。
欠けた心で「私のリア充生活」をアピールしたいがために行うのか。
まずこの発信の時点で心持ちが分かれる。

次に、受け手である。
満たされた心で「何て美しい風景だろう。シェアしてくれてありがとう。」と純粋に思うか。
欠けた心で「羨ましい。それに比べて私なんて・・・こんな自慢して腹立たしい。」と受け取るか。

この辺りが、SNSの難しさを作っている。
純粋な心で行っても相手にマイナスに受け取られたら「そんなつもりじゃなかった」となる。
そもそも傲慢な心持ちで発信した場合、確実にマイナスに受け取られる。
自分の心持ちまでは決められるが、受け手の心持ちは決められないのである。
見た相手を無駄に嫌な気持ちにさせる可能性があるなら、そこのリスクは敢えて負わないという選択肢もある。

要は、花を見るにしても、極論自分の中だけで満たされれば良いのである。
外向けにアピールする必要はない。
外に意識が向きすぎるから、自信がなくなり、自身がなくなる。

子どもにもいえる。
本物の自信のある子どもは、落ち着いていて、公平で優しい。
他で決まる「自信」、何かができることで価値を決めている子どもは、自慢や他人の卑下、いじめという形で現れる。

大人でも同じである。
すごいことをしているのに、常に淡々としている人がいる。
自分の中に、本物の自身がある人である。
逆に、妙に偉ぶっている人や高圧的な人、仕切りたがりや支配的な人は、自信がなくて不安なのだと考えて間違いない。

桜は、誰もいない山奥でも咲く。
褒められることを求めていない。
評価を求めていないからこそ、純粋な美しさがある。
評価を求めない美しいものにこそ、高い評価がついて引きつけられる。
厳しい寒さに耐えるほどに、美しい花をつける。
そして、散り際も潔い。

桜は「美しさ」という教科の最高の先生である。

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