2018年5月4日金曜日

感覚が鈍くなる恐ろしさ

3月末に参加した「鍵山教師塾」での学び。

会の冒頭に、鍵山秀三郎先生の講演があった。
その中の「人間の感覚が鈍くなっている」というお話が最も印象的だった。

人間は、便利なものができると、不器用になる。
簡単に調べてわかるようになると、頭を使わなくなる。
そして、様々な感覚が鈍くなる。

「すれ違う人をよけようとしない」というお話があった。
立派な体格をした高校生たちが、集団で道を広がって歩いてきて、そのまま突っ込んでくるという。

相手が「歩くのもきつい」という状態が想像できない。
恐らく「邪魔」「よけろよ」という感覚である。

本質は、人間としての感覚が鈍っているということだろうと解釈した。
相手を思いやったり、譲ったりすることができないということ。
「こうすればこうなる」という想像力の欠如。
いきすぎた暴力やいじめも、この一環である。
あらゆる自己中心性、自分勝手も、この一環である。

高校生を例に挙げていたが、それは私たち教育に関わる人間の問題だと突きつけられたように思う。
結局、社会の問題の全ては、教育が第一義の責任を負うものである。
そもそも、私たち教員をはじめとした社会の大人に欠如している感覚かもしれない。
何でも「便利」「楽」「早い」を追求した結果、利己主義に走り、大切なものを失っている気がする。

4月から、新しい学級が始まった。
新しく出会った子どもたちに何を伝えているか。
どんな子どもに育って欲しいのか。
そのために、どんな自分で「在る」のか。
真剣に向き合っていきたい。

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