2023年6月11日日曜日

哲学ある不親切

 月に一度程度だが、様々な場の清掃活動をやらせてもらっている。

「ボランティア活動」と勘違いされそうだが、明確に違う。

単純に、それをやっている人と仲間が好きだからである。

そこに行くと、楽しいからしているのである。

早朝の活動に間に合うように、わざわざ近くに前泊して向かうこともある。

好きでやっている趣味や学習の一環である。


大体そういう場に集まる人は、みな一様に明るく社交的でエネルギーに溢れている。

そういう場にいるからそうなるのかもしれない。

ニワトリが先か卵が先かはわからないが、そういう場である。


こういった活動に参加する時は、やることがないという手持ち無沙汰状態が最も困る。

勿論そうならないよう、自分でやれる仕事を自分で探して動くのが基本である。

清掃の場合、あまり綺麗すぎる場よりもそうでない場の方が仕事が多く、取り組みやすい。


この活動の場で誰かに「これをお願いできますか」と言われると、嬉しい。

自分の役割が明確化するからである。

わざわざ何かしに来ているのだから、やれることが多くあった方がいいのは当たり前である。


学校や職場全般でもこれは言える。

遠慮して頼めないという人は、実は相手にとって有難くないことが多々ある。

全部自分でやれる能力のある人、責任感のある人ほど、陥りがちである。

それをやれる人、得意な人にはどしどし頼んで、自分は自分がすべきこと、得意なことに注力すればよい。


不親切教師のススメ』では、ここを強くすすめている。

子どもが自分でやれそうなことは、一切やらない。

子どもができそうなことは、全て頼みまくる。

結果的に、やっている子ども自身に力がつき、自信につながる。


では一方で教師は何をするかというと、教師にしかできないことをする。

ここのみに集中する。


例えば、授業をすること自体は、明確に教師の仕事である。

学びの主役はもちろん子どもだが、授業自体は教師の仕事である。

例え子どもが中心となって進める授業のファシリテーター役であっても、やはり明確に教師の仕事である。


また、学校におけるグランドルールの担保も教師の仕事である。

「廊下を走らない」は子ども同士が声かけをすることはあれど、その秩序を破って事故が起きた場合、責任は教師にある。

つまり、子どもの行動に対する責任を取るのが仕事ともいえる。

この責任は絶対に子どもに委ねられない。


そして最終的に教師が処理できない場合は、管理職の責任となる。

教室でも学校でも「上の立場」というのは、人間的に偉いとか尊いとか関係なく、仕組み上そういうことで上なのである。

(それをしてくれるからこそ、偉いともいえるし、多少口うるさく言う権利もあると言える。)


一方で、学級会で決めたルールであれば、子どもたち自身が責任を担保する必要がある。

自分たちで選び取ったものなのだから、当然である。


子ども同士のけんかもそうである。

子どもが自分で解決できること、解決せねばならない課題であり、本来教師がやるべきことではない。

(教師がいつも解決してあげていると「けんかしてます!」と子どもが嬉しそうに報告するようになり、悪循環にはまる。)


授業をするのは教師だが、学習そのものは、子どもの課題である。

子ども自身が自分の課題と自覚して取り組まない限り、真の学力向上はあり得ない。


学級経営は教師の仕事だが、教室とその人間関係は子どもたち自身のものである。

教室のあらゆることについて自分たちでケアして、改善して、楽しいものにしていく権利がある。

教師はそこを助けることはあるとしても、中心となって手出し口出しをすべきことではない。


教室のことを、どんどん子どもに頼むこと。

大抵のことは気持ち良くやってくれる。

いや、頼む、やってくれる、という表現さえもおかしいのかもしれない。

教室のあらゆることは、子どもたち自身のものだからである。

学校そのものが、子どものために存在するものだからである。


不親切教師のススメ』における不親切とは、単なる不親切ではない。

哲学のある不親切である。


学校は、何より子どもが成長するために来ている場である。

子どものできる力、伸びる力を信じて、積極的に任せていきたい。

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