月に一度程度だが、様々な場の清掃活動をやらせてもらっている。
「ボランティア活動」と勘違いされそうだが、明確に違う。
単純に、それをやっている人と仲間が好きだからである。
そこに行くと、楽しいからしているのである。
早朝の活動に間に合うように、わざわざ近くに前泊して向かうこともある。
好きでやっている趣味や学習の一環である。
大体そういう場に集まる人は、みな一様に明るく社交的でエネルギーに溢れている。
そういう場にいるからそうなるのかもしれない。
ニワトリが先か卵が先かはわからないが、そういう場である。
こういった活動に参加する時は、やることがないという手持ち無沙汰状態が最も困る。
勿論そうならないよう、自分でやれる仕事を自分で探して動くのが基本である。
清掃の場合、あまり綺麗すぎる場よりもそうでない場の方が仕事が多く、取り組みやすい。
この活動の場で誰かに「これをお願いできますか」と言われると、嬉しい。
自分の役割が明確化するからである。
わざわざ何かしに来ているのだから、やれることが多くあった方がいいのは当たり前である。
学校や職場全般でもこれは言える。
遠慮して頼めないという人は、実は相手にとって有難くないことが多々ある。
全部自分でやれる能力のある人、責任感のある人ほど、陥りがちである。
それをやれる人、得意な人にはどしどし頼んで、自分は自分がすべきこと、得意なことに注力すればよい。
『不親切教師のススメ』では、ここを強くすすめている。
子どもが自分でやれそうなことは、一切やらない。
子どもができそうなことは、全て頼みまくる。
結果的に、やっている子ども自身に力がつき、自信につながる。
では一方で教師は何をするかというと、教師にしかできないことをする。
ここのみに集中する。
例えば、授業をすること自体は、明確に教師の仕事である。
学びの主役はもちろん子どもだが、授業自体は教師の仕事である。
例え子どもが中心となって進める授業のファシリテーター役であっても、やはり明確に教師の仕事である。
また、学校におけるグランドルールの担保も教師の仕事である。
「廊下を走らない」は子ども同士が声かけをすることはあれど、その秩序を破って事故が起きた場合、責任は教師にある。
つまり、子どもの行動に対する責任を取るのが仕事ともいえる。
この責任は絶対に子どもに委ねられない。
そして最終的に教師が処理できない場合は、管理職の責任となる。
教室でも学校でも「上の立場」というのは、人間的に偉いとか尊いとか関係なく、仕組み上そういうことで上なのである。
(それをしてくれるからこそ、偉いともいえるし、多少口うるさく言う権利もあると言える。)
一方で、学級会で決めたルールであれば、子どもたち自身が責任を担保する必要がある。
自分たちで選び取ったものなのだから、当然である。
子ども同士のけんかもそうである。
子どもが自分で解決できること、解決せねばならない課題であり、本来教師がやるべきことではない。
(教師がいつも解決してあげていると「けんかしてます!」と子どもが嬉しそうに報告するようになり、悪循環にはまる。)
授業をするのは教師だが、学習そのものは、子どもの課題である。
子ども自身が自分の課題と自覚して取り組まない限り、真の学力向上はあり得ない。
学級経営は教師の仕事だが、教室とその人間関係は子どもたち自身のものである。
教室のあらゆることについて自分たちでケアして、改善して、楽しいものにしていく権利がある。
教師はそこを助けることはあるとしても、中心となって手出し口出しをすべきことではない。
教室のことを、どんどん子どもに頼むこと。
大抵のことは気持ち良くやってくれる。
いや、頼む、やってくれる、という表現さえもおかしいのかもしれない。
教室のあらゆることは、子どもたち自身のものだからである。
学校そのものが、子どものために存在するものだからである。
『不親切教師のススメ』における不親切とは、単なる不親切ではない。
哲学のある不親切である。
学校は、何より子どもが成長するために来ている場である。
子どものできる力、伸びる力を信じて、積極的に任せていきたい。
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