2023年6月4日日曜日

歴史を否定して肯定する

 6年生で歴史の授業をする。

そうすると、子どもたちからは当然

「何でそんな馬鹿なことを?」

という疑問が出る。


一番わかりやすいところだと、卑弥呼の時代はシャーマンが最高の地位であり占いで全て決めていた、というようなことである。

あるいは、平安時代は病気になると悪霊が憑りついているとみなして、お祓いで治そうとしたことなどである。

どちらも、論理的とも科学的とも言い難い方法である。


しかし、当時としては意味があるし、実際にそれで世の中が動いていたのである。

雨雲レーダーなどない時代の人々にとっては、雨乞いの効果を信じることは心の救いになる。

ウィルスの概念など到底ない時代のお祓いによる病気の治療に関しては、プラセボ効果があったと考えれば、無意味とは言えない。


戦国時代に国内で殺し合って天下統一の平和を目指すことも無意味に見えるし、他国と戦争をしたこと自体も過ちにしか見えない。

(実際は天下統一が世の平定への道筋にもなっている。刀狩りも実は人々の無用な争いを防ぐことに貢献している。)


野口英世が発見した数々の研究実績は現代では誤りとなったが、それらが無意味だったということでは決してない。

科学は常に否定を繰り返してきており、現代では量子力学の登場によってニュートン力学は既に「古典力学」と呼ばれている。

地球が丸いとわかるまで、かつて地球は平らだったし、海の果てには全てを食らいつくす怪物がいたのである。


つまり、後の世で「間違いだった」というものでも、その時代にとっては正真正銘の「解」なのである。

タイムマシンで過去へワープして正すべきことではない。


実際その当時生きていた人たちになってみれば、考え方は全く違うはずである。

歴史を学ぶ上で「過ち」と感じるのは、それが既に過去となった未来にいるからこそである。

事が起きた後に「自分はこうなるとわかっていた」と言うのと同じレベルである。


正誤の判断は、その時代の価値観がベースである。

つまり、今から見て過去を非科学的とか誤りと見えたとしても、大切なのは、それを今にどう生かすかという視点である。


前置きがとんでもなく長くなったが、『不親切教師のススメ』で主張していることもそれなのである。

今それをやり続けるのは、もう誤りになるのではないかということである。

かつての時代に、それに対し全身全霊かけてやっていたこと自体を否定しているのではない。


例えば私は、集団競技に熱中していた時期がある。

「クラスみんなで」「一丸となって」を信条としていた時期がある。

今は、ほぼ一切やらない。

やらざるを得ない場面になっても「ぼちぼち楽しもう」という感覚である。

一方で、その当時の子どもたちに申し訳なかった、とも思っていない。

その時考え得る最善を尽くしたつもりである。


初任者の時にもった子どもたちが私から受けた授業レベルは私史上最低だったが、やり直すべきとも思っていない。

ただ、同じ授業を今目の前の子どもたちにやりますかと言われたら、明確に「やらない」と答える。


全ては、過去に最善と思われる解だったのである。

今やっていることだってそうである。

やがては否定される時が来る。

そうでなくては困る。


だから、変わる必要がある。

かつて良かったからといって、過去と全く同じままというのはまずい。

一方で、過去を全否定して全部変えてしまえばいいというのも違う。

「不易流行」の言葉の通り、不易と流行の二つは同根である。


ルールを見直す必要があるという主張もそこからである。

例えば、服装や行動様式その他に関して厳密なルールがある学校も存在する。

それは、かつて必要だったのかもしれないが、今にマッチしているだろうか。

学校が滅茶苦茶に荒れていた時代の基準を今にもってきていないだろうか。

また一方で、学校の掲げる理念によっては、それが今も明確に必要という場合だって十分に有り得る。


否定と肯定は正反対の概念ではない。

禅問答的に表現すれば、否定とは肯定である。


例えば子どもを叱り正すことも、否定を伴う肯定である。

叱る行為を全否定するのも違うし、全肯定するのも違う。

叱る行為一つをとっても、否定であり肯定なのである。


不親切教師のススメ』は、現在の教育について否定しながら肯定している。

教育の未来は必ずよくなるのだから、その一助になりたいと切に願う。

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