2017年1月7日土曜日

幼児性は、オール・オア・ナッシング

次の本を読んだ。

『ないものを数えず、あるものを数えて生きていく』
曽野綾子著 祥伝社黄金文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/4396314639

本の中で、次の言葉が心のフックに引っかかった。

「幼児性は、オール・オア・ナッシング」

つまり、幼児性の高い大人は、白黒はっきりで、グレーを認めない。
差別される者とする者とに分ける。
しかし実際は、どちらにもなるのである。

この文中にある
「平和は善人の間には生まれない」
という言葉(カトリックの司祭の言葉とのこと)も、含蓄がある。

即ち、真の大人になるということは、人間としての幅を広げるということである。
前に野口晃男先生の回で紹介した「清濁併せのむ」という姿勢である。
そしてこれを、子どもへの教育として行っていく必要があるということである。

以下は私見。
「正義のヒーロー」が存在するには「悪の権化」が必要である。
(これは、松下幸之助氏も生前に言明している。)
例えばテレビでもう35年以上続いている戦隊ヒーローものも、悪の組織あってのことである。
アニメも映画もドラマも、どれも悪玉あっての構造である。
少し違った視点だと、健康を「善」、病気を「悪」としている感動ものもある。
私たちは、善悪について、分かりやすすぎる構図で刷り込まれている可能性がある。

実際は、完全な悪者も完全な善人も存在しない。
正義の味方が裁く悪にも、家族や子どもがいたりする。
まさに戦争の構図である。

白黒つけようとすると、争いが起きる。
互いの正義がぶつかり合う。
これは「愛があるから争いがある」という解釈にもつながる。
互いに守るもの、愛するもの、信念の正義がなければ、争いにはならないのである。
(守るものが何もなければ、すべて欲しい相手に譲れる。)

学校で起きる様々な出来事も、そうである。
教師の立場の正義。
子どもの立場の正義。
ぶつかり合ったら、どちらが「正義」か。
強い方が「正義」である。
多くは、教師の側である。
これが怖い。

本来は、擦り合わせるべきところである。
誰かが完全に100%満足する方法は、確実に他の誰かが強い不満を抱く。
折り合いをつけるところである。
「クラス会議」などは、まさにここをねらっている。

「アクティブ・ラーニング」の一番の要件は
「対話的な学び」である。
対話とは、創造的コミュニケーション。
つまり、白か黒か、AかBかに決定するのではなく、灰色やCを新たに生み出すコミュニケーションである。
(このCを生み出す理論は、上越教育大学の赤坂真二先生からの学びである。)

オール・オア・ナッシングの思考になっていないか。
自分自身を常に注意してみたい。

共感と勘違い

「インクルーシブ教育」に関連した話。 最近、刺さった本。 『跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること』 東田 直樹 著 イースト・プレス (2014/9/5) http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=21...

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