2013年6月26日水曜日

道徳の時間と教師の道徳性

道徳が教科化される方向に動いているようである。
この是非についてはここでは問わない。
今日は、他教科と道徳の時間との特異性と、道徳の授業のあり方について。

ある本に、次のように書いてあった。

算数や国語においては、子どもよりも教師の方が絶対的に学力が上である。
(そうでないと、教えようがない。)
しかし道徳については、
「教師である私は、生徒より確実に正直である」とか、
「生徒より確実に真心がある」
というわけにはいかない。
むしろ、大人になるにつれてずるいことも考えるようになる面がある。
例えば純真さや誠実さにおいて、子どもの方が上ということが多々あり得る。
(以上、『子供と語り合う「道徳の時間」寺門光輝著 モラロジー研究所』より要約)

この記事を書いていて、先日、私の尊敬するある先生が酒席で話していたことを思い出した。
宿題を毎日やることを子どもに課している。
だから、率先垂範して自分にも課題を、ということで毎日学級通信を出しているということだった。
その先生にとっては「毎日発行」にねらいと意義がある。
修行であり、修養である。
素晴らしいことだと思う。
(誤解ないように言うと、学級通信を毎日出す先生が偉いということでは決してない。
一切出さなくても全く問題ない。
あくまでねらいに対する手段の、たくさんの選択肢の中の一つである。)

子どもに宿題を出すからには、自分にも宿題を課す必要があろう。
そうでないなら、宿題をやってこない子どもを責められない。
徳目で言うと「努力」「誠実」「正直・明朗」あたりだろうか。
自虐的だが、自分ぐらいこの徳目ができていない人間はこの教室にいないのではないかと思う時がある。
集めた作文や提出物を見きれないとか、テストが返せないとか、あるいは授業の準備不足だとか。
それぐらい、自分もこの辺りが弱いと思う。

道徳の時間が避けられがちなのも、ここにあるのではないか。
つまり、自分ができていないことを白々しく教えられない、という思い。
ここに誤解がある。
道徳の時間は「教師も生徒も一緒になって理想を追求する」という学習活動である。
自分もできてないけど、一緒にここを目指したいという思いを教師は持って授業する。

大学時代、ある道徳の有名教授が講義で
「道徳を教える教師が必ずしも道徳的であるとは限らない(必要はない、だったかも)」
と話していたのを思い出した。

全ての授業の中で、学び合いが最も大切なのが、道徳の時間ではないかと思う。
一生学び続け、磨き続ける以上、教師の道徳性も完成されてはいない。

苦手から目を逸らさずに、道徳の授業は自分自身も見つめ直す時間にしたい。

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