2018年4月26日木曜日

教育における「おそれ」の必要性

前号で、教育の世界はポジティブ用語を好むという話を書いた。
ポジティブは必ずネガティブと裏表セットである。

教育において、恐怖という言葉は、忌み嫌われやすい。
しかし、安全・安心とルールを担保するために、恐怖は必要になる。
恐怖という言葉にどうしても抵抗があるなら、「こわさ」と表現してもいい。

先日の教員セミナーでは、某国民的マンガの横暴な少年を例に出した。
「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」
という名言をもつあのキャラクターである。

あの乱暴者が完全服従する人物がいる。
先生ではない。
「かあちゃん」である。
理由は「こわい」からである。

しかし、彼は「かあちゃん」を嫌いかというと、決してそんなことはない。
本当に寂しくなると「かあちゃ~ん」と泣く。

大好きで、こわい。
これは、両立する感情なのである。
親子間だけでなく、教師と子どもの関係、職場の人間関係にもいえる。

凛とした人がいる。
この人には、「こわさ」がある。
決して暴力的とか攻撃的とかではない。
穏やかなのに、内に秘めた迫力もある。
「畏怖」に近い。
「この人には逆らえない」
「この人を怒らせてはいけない」
といった感覚である。
学年団の教師の中の誰か一人には、この雰囲気が欲しい。

もちろん、柔らかさで惹き付ける人もいる。
そこに魅力を感じて、人がついてきてくれているとする。
しかし、好きになるほど、その人に嫌われたくないと思うものである。
つまり、そこも「こわさ」につながる。

本当に偉い人、魅力的な人に近付くのは、嬉しい反面、どこかこわい。
尊敬しているからこそのこわさである。
魅力的な人を「敬遠」したくなるのは、そのためである。

大抵、親はこわい。
大好きだけど、こわいのである。
特に父親や祖父などは、「父性」の言葉の通り、こわさの一面がその役割である。

こわい教師になれとは言わない。
しかし、こわさを感じさせない教師には、横暴を止める力はない。
「力無き正義は無力」ということを肝に命じる。
気は優しくて力持ち。
そこに、「悪」を行っている人間は「恐怖」を感じて、横暴を止めざるを得なくなる。
優しさだけでは、世界は救えないのである。

「こわさ」に救われるのは、力無き者たちである。
正しい心をもちながらも、搾取される民衆である。
ここを救うのが、「こわい」リーダーなのである。
誰にとってこわいかというと、暴力で支配しようとするものにとって一番こわいのである。

愛があるなら、怖さがある。
楽しい、優しいだけの教師生活は、天国以外の環境ではあり得ないと心得たい。

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