前号の「一人の権利は全員の権利」の続き。
そして七夕に「もっと私の人生を幸せにしてください」と願う人にこそ伝えたい内容。
どんな上司、あるいは先生が理想かを考える。
上司や先生に限らず、自分がその教えや指示・命令を受けるべき相手である。
あなたを見ると、いつも良いところを見つけて伝えてくれる。
がんばりを認め、失敗した時には改善の仕方を示すと同時に励ましてくれる。
顔を合わせれば、いつも温かい言葉をかけてくれ、ユーモアや余裕を感じさせてくれる。
体調を気遣い、不調を見とったらすぐに「今日は早く帰って休みなさい」と労わってくれる。
平時にも「楽しむ時間も大事だ」といって気持ちよく帰してくれて、自分自身も仕事に趣味にと楽しんでいる。
いかがだろうか。
「そんな上司や先生がいるはずあるか」と怒りを覚える人もいるかもしれない。
多分、現在進行形でひどい目にあっている人、あるいは自分が嫌いな人は、その種の怒りや絶望的な諦めを感じると思う。
さて、逆に、次のような上司や先生はどうだろうか。
あなたを見ると、いつも悪いところを見つけて伝えてくる。
がんばりを無視し、改善できる点も放置し、「やっぱりあなたはダメな人だね」と蔑むか、無言の態度でそれを示す。
顔を合わせれば、いつも冷たい嫌味で皮肉な言葉をかけ、焦りを感じさせる。
体調に無関心で、不調を見つけても「みんなも忙しいんだからがんばって」と休ませずに無理を強いられる。
平時から「自分が楽しむのは後回し」「私ががんばればいいから」といっていつも無理してがんばっている。
それが実は無言の圧力で残業を周りにも強くことにつながっており、本人も生きてて楽しいように見えない。
いかがだろうか。
「そんなひどい上司や先生がいるはずないでしょ」と呆れる人がいるかもしれない。
逆に「それが普通」と思っていて、実際にそんな人の元にいて、辛い日々を送っている人もいるかもしれない。
さて実は、この上司や先生というのは、他でもない、自分自身のこととして考える。
自分の自分自身への接し方のことである。
自分自身こそ、自分が指示・命令を絶対に聞かざるを得ない直属の上司である。
理想の上司と嫌な上司、どちらの扱いに自分は近いか。
自分を宝物のように大切にしているか、自分を人権のない奴隷のように扱っているか。
もし先の「嫌な上司や先生」の例で怒りや哀しみを感じたら、自分自身をこそ、そう扱っている可能性が疑われる。
前号の言葉を繰り返す。
「一人の権利は全員の権利」
である。
つまり、自分の権利を認めない人は、他人にもその権利を認めていない。
「私が辛いんだからあなたも辛い思いをするべきだ」という不幸と負のスパイラルである。
そしてそれは鏡の法則で、周囲の人の自分への態度としても跳ね返ってくる。
逆である。
自分の権利を認め、他人にもその権利を認めるのが本質的な在り方である。
私の権利を認め、周りの人にも当然それを認める。
「お互い様」が+の、正のスパイラルで働く。
自分を労わることが先決である。
自分自身すら労われない人に、他人を心から救えるはずはない。
私が今でも尊敬して止まない学年主任の先生や管理職の先生は、どの方も例外なく自分を大切にしている人たちである。
仕事にも一生懸命だけれど体調管理や自分自身へのご褒美を忘れず、自分の趣味をもち、周りにも寛大である。
平日「私、これからコンサート行くから!」と部分年休をとって北海道に行き、翌日早朝便で帰ってきたというツワモノな人もいる。
「年休」とは病気だからとるものではなく、本来こういった使い方も認められているものである。
自分自身の人権・権利を認めること。
心と体の健康管理はもちろん、運動やご褒美なども大切である。
自分自身を奴隷のように扱っていないか。
それこそが、なぜか自分の人生に奴隷の主人のような、人権無視の嫌な人物が多く登場する根本的原因かもしれない。
自分自身を大切にすることは、周りの人を大切にすることと同義である。
自分の内側から元気が外に溢れるようにしていきたい。
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