2021年7月19日月曜日

学校と強制

 言葉について。


教室でなるべく使いたくないという言葉がある。

これは人によって異なると思う。


例えば、「好きな人同士」。

人間、好き嫌いはあって当然だし構わない。

しかし、わざわざ公表しなくてもいい。

大人同士でそんなこと言われたら、結構傷つくかもれない。


わざわざ仲間を好きとそれ以外と分けなくてもいい。

みんな仲良くしなくてもいいが、差別的である。

好きな人がいない場合だってあって当然である。

他の表現方法はいくらでもある。


あとは、マイノリティや弱い立場などの特定の人を差別する用語。

これは世界の人権意識の高まりと共に、少しずつ変わってきている。

学力や家庭の状況、経済状況、人種や性的マイノリティに対するものも含まれる。


本題として取り上げたいのは「強制」「やらせる」という言葉。

指導案に「~させる」はあり得るのだが、使う際にかなり抵抗感がある。


4月から次の質問をよくする学年の子どもたちが、かつてあった。

「それは強制ですか?」


作業や課題はもちろん、仲間の企画したイベントも、「~しよう」は全部「強制」という言葉の括り。

この用語を出されると、何だか重々しい感じになり、胸が苦しくなる。

課題や義務とも提案ともいえるし、強制といえば強制とも言えるのである。


必要なことを教える、あるいは課題を与える。

個々の相手が欲しいかどうかまではわからない。

そもそも学校に登校すること自体が、大人たちによる善意の強制である。


根本的原因は、行き過ぎた権利意識である。

人は当然のものとして与えられたものに、恩恵は感じない。


恐らく、世界の紛争地域や貧困地域の学校では出ない言葉である。

彼らにとっての「強制」とは、労働や兵役を指すかもしれない。


「ヤバい」だけで全てを表現することができるという。

インスタントな表現であり、言葉の機微を学ぶ教室には相応しくない言葉でもある。


どんな言葉でそれを表現するのか。

そこにその人間の観と教養が滲み出ると思われる。

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