言葉について。
教室でなるべく使いたくないという言葉がある。
これは人によって異なると思う。
例えば、「好きな人同士」。
人間、好き嫌いはあって当然だし構わない。
しかし、わざわざ公表しなくてもいい。
大人同士でそんなこと言われたら、結構傷つくかもれない。
わざわざ仲間を好きとそれ以外と分けなくてもいい。
みんな仲良くしなくてもいいが、差別的である。
好きな人がいない場合だってあって当然である。
他の表現方法はいくらでもある。
あとは、マイノリティや弱い立場などの特定の人を差別する用語。
これは世界の人権意識の高まりと共に、少しずつ変わってきている。
学力や家庭の状況、経済状況、人種や性的マイノリティに対するものも含まれる。
本題として取り上げたいのは「強制」「やらせる」という言葉。
指導案に「~させる」はあり得るのだが、使う際にかなり抵抗感がある。
4月から次の質問をよくする学年の子どもたちが、かつてあった。
「それは強制ですか?」
作業や課題はもちろん、仲間の企画したイベントも、「~しよう」は全部「強制」という言葉の括り。
この用語を出されると、何だか重々しい感じになり、胸が苦しくなる。
課題や義務とも提案ともいえるし、強制といえば強制とも言えるのである。
必要なことを教える、あるいは課題を与える。
個々の相手が欲しいかどうかまではわからない。
そもそも学校に登校すること自体が、大人たちによる善意の強制である。
根本的原因は、行き過ぎた権利意識である。
人は当然のものとして与えられたものに、恩恵は感じない。
恐らく、世界の紛争地域や貧困地域の学校では出ない言葉である。
彼らにとっての「強制」とは、労働や兵役を指すかもしれない。
「ヤバい」だけで全てを表現することができるという。
インスタントな表現であり、言葉の機微を学ぶ教室には相応しくない言葉でもある。
どんな言葉でそれを表現するのか。
そこにその人間の観と教養が滲み出ると思われる。
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