2020年7月10日金曜日

要望をやたらにのまない

前号で、クレームが有難いことを書いた。

しかし、これを勘違いしてはいけない。
理不尽なクレーム、単なるわがままや全ての要望を無条件に受け容れる、ということでは決してない。

教師であれば、常に「どの対応が子どもの長期的な成長のためになるか」を柱に考えればよい。
もう少し大きい視点で言うと、つまり「これは世のため人のためになるか」ということである。

学校でよくありそうな例を挙げる。

「〇〇さんと隣にしないでくれ」という要望を受けたとする。
理由は「うちの子が意地悪されるから」とか「〇年生の時にトラブルがあった」とか色々ある。
(実は単に親同士が仲が悪いだけということもある。)

一番だめな対応は、よく理由もわからないが、言われたままにそのまま要望を受け入れて対応すること。
これで、「何でもとりあえず言えばきく」ということを相手側に学習させることになる。
「この保護者は面倒だから」とか「一人ぐらい例外があっても」と思うと、甘い。
以前にも紹介した「恩恵は権利に変わる」の言葉の通り、特別な対応が、いつの間にか権利化して当然のこととされる。

今は、ラインなどのSNSで、一気に広がる。
裁判の事例と同じで、一つの要望が通ったら、他も通さなければ筋が通らないのである。
特別な事情があって、本当にそれが必要な子どもに対しての特別対応であれば、そのような偽りの噂が広がることもない。

時々「この学校はわがままな親が多い」という教員の嘆きの声をきくが、実は学校がそれを育てていることが多々ある。
保護者と教師で上下関係を作ってしまうからだめなのである。
本来この両者は、共に子どもの成長を願う「同志」「仲間」の関係である。(だからこそ「PTA」と称す。)
確実に子どものためにならないと判断したら、こちらの意思と意図をはっきりと伝えるべきである。
それは、相手の年が上であろうが下であろうが、保護者であろうが同僚であろうが上司であろうが、同様である。

ただ実際の場合、それはほとんどの人ができないと思う。
大抵は、「いざとなったら自らがたたかうことも辞さない」という覚悟と気合いと気概がない。
きっと「学校が」「管理職が・・・」「学年が・・・」などと言って逃げるだろう。
確かに、組織が腰抜けなのかもしれない。
しかしそれでできないなら、つまり、その組織に属する本人も腰抜けの仲間なのである。

子どものため、世のため人のためを考える。
これに尽きる。
それ以外に、教師の存在価値はない。

席が〇〇さんと隣になったら、我が子が困るのだろう。
それはわかる。
しかし、いつまでそれを続けるつもりなのか。
いつ、我が子が成長するための挑戦をさせるつもりなのか。

もっと言うと「クラスを・・・」などという要望も珍しくない。
気持ちはわからないでもないが、果たしてそれが本当に我が子にとっていいことなのか、ということである。
いつまで責任をもって逃げ切れらせてあげられるのかということである。
人生の基本が「逃げ」と「庇護」でいいのかということである。
(時に必要になることも、重々承知である。だから、理由を深く探るべしということである。)

そもそも、社会に出て、自分と合う人ばかりの職場に入る、などという状況が、どこにあるのか。
超意地悪な同僚や先輩、腰抜け上司に仕えることなど、ざらである。
そことたたかえるだけの力、あるいはひらりとかわす力をつけないで、本当にこの社会でやっていけるのか。
職場でも親が守ってあげるつもりなのだろうか。
そんな親のすねかじりの「スネ夫的」な性質の子どもを育てあげて、本人が充実した人生を送れるのか、大いに疑問である。

実はその傾向を育てているのが、学校教育である。
保護者批判のように聞こえるかもしれないが、違う。
これははっきりと、学校批判であり、教師批判である。
教育の専門家は、学校の教師なのである。
現在の教師の国家公務員化の案は追い風だが、それよりもまず教師の側の気概なくして、その地位向上もあり得ない。

一時期「NOと言えない日本人」などと揶揄された頃があった。
今の実感として「NOと言えない学校」からして問題がある。

これら全ての間違いの根源は、自分軸の考えである。
自分が面倒だから、自分を守りたいからNOと言うのではない。
子どものため、世のため人のためにならないから、NOと言う。
逆にそうでなければ、前号のクレームの話同様、すぐに受け容れて迅速に対応すべきである。

子どもため、世のため人のため。
何かを要望された時は、ここを軸に考えると間違いがないように思われる。

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