過去に何度か書いている、一流について考えるシリーズ。
当代一流の教師を考える。
人によって思い浮かぶ人は異なるだろう。
私なら、師の野口芳宏先生を考える。
小学校の先生で有名な人は各地にいるが、それらの方々の話からも野口芳宏先生の名前はよく出る。
数十年の長きに渡って人々に認められているという証である。
今を輝く時代の寵児のような人を考えるよりも、間違いがないように思われる。
一流を考える時には一流以外の行動と比較して考えるとわかる。
一流は他とは全く異なる思考回路をもち、異なる行動をとる。
何度も紹介しているが、孔子の言葉、
「君子もとより窮す 小人窮すればここに濫る」
などは、まさにこれを言い表している。
困って乱れてしまっては、普通である。
たとえ困っても乱れないのが、君子、即ち超一流である。
どういう行動様式をとるのかを知ることで、一流の思考に近づけるのではないかと考える次第である。
木更津技法研サークルで、メンバーが侃々諤々の議論を交わす。
そしてああでもないこうでもないと、糸が絡まったようになる。
最後に師の言葉が入るのがだが、これが正に快刀乱麻を断つといった様相である。
例えばかつて、食育とはどうあるべきかという議論がなされた。
食べ残すことへの是非、栄養学、様々な意見が飛び交った。
そこへの見解は「食育は、感謝教育。」この一言で決着がついた。
我が身一つも、授かりものである。
与えられたすべてへの感謝の心をもつことが、食育の本質である。
サークルでは、結構悩みのような愚痴のような話も出る。
しかし、大抵の場合、その悩み自体が枝葉末節である。
「それは間違っている」と言われて、姿勢を正す。
(表現としてはやんわり伝えてくださるが、言葉に芯が感じられるため、しっかりと伝わる。)
本質を見据えた時、自分のなすべきことは、それが子どもを伸ばすことになるかという一点のみである。
相手が誰であろうが、どんな状況であろうが、その本質さえぶれなければ、なすべきことははっきりする。
少なくとも、子どもが悪い、親が悪い、同僚が上司が環境が悪いと言っている間は、一流たり得ない。
(一流ではないからこそ悩むのだから、そこを責めるのも酷である。通常、愚痴ることも必要である。)
ところで、今子どもの学習の後れや課題云々で議論が飛び交う。
野口先生のご自宅に飾ってある次の書の言葉は、ここに光が差すように思えるので紹介する。
特に子どもたちに贈りたい言葉である。
陽光に高低なし 花枝自ずから伸びる
春の温かな日差しは高低関係なく平等に降り注ぐ。
花枝はそれに向かって自ら伸びる。
しかし、植物の側は光を浴びるべく伸びるものもあれば伸びないものもある。
そういう意味の書である。
少なくとも、真っ暗ではなく、光は注いでいる。
受け取るかどうかは、自分で決めて良いのである。
ただ、常に光は降り注いでいるのだから、いつでも伸びることはできるということである。
日本というこの恵まれた環境に生まれてきたのだから、チャンスを生かさない手はないと思う。
最後は、結局自分次第なのだという強い意志をもって生きて欲しい。
一流の思考を身に付ける。
自分が一流でないと自覚しているならば、一流の人に近づくことが一番の近道である。
2020年7月2日木曜日
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