「食べ物を好き嫌いしてはいけません。」
子どもの頃、そういうことを言われて育ってきた人も結構多いのではないかと思う。
これは食べ物に始まり、他のことにも適用される。
しかし、人間というのは、本来好き嫌いがあって然るべきものである。
嫌いなものを無理に好きと言うようになるのは、それはそれで危ない。
実際は、好きと嫌いの間に「どちらともいえない」というものが無数に存在する。
大好きから大嫌いまでの間は、無限のスペクトラムである。
好き嫌いはあってもいい。(というより、あって当然である。)
しかし、好きなものだけを相手して嫌いなものを一切受け付けない、というのは、対応の幅を狭める。
(注:アレルギーは好悪とは全くの別問題なので、ここでは考えない。)
例えば「給食の牛乳は苦手だから飲めない」というのは構わない。
もう、過去に何度も何度も飲んだ上で判断したのだから、間違いなく嫌いなのである。
しかし、それを乳製品全般を一切受け付けない、となるとチャンスを逃す。
乳製品を用いたある料理を「美味しい」と感じるはずが、口に入れないのでわからない。
それは「食わず嫌い」である。
つまり「こういう場合もあるかもしれない」という姿勢が大切である。
極端にいうと、自分がおいしいと感じる牛乳が世の中にあるのかもしれない。
このように考えていくと、「好き嫌いがはっきりしている」というのは、実は「好き嫌いが正確に把握できている」ということである。
そういう人は、実はかなり少ない。
つまり、好きと嫌いとを決めつけない態度をもっているということである。
子どもの「野菜嫌い」などはほとんどがここの判断ミスである。
トマト一つとったって、千差万別である。
水っぽくて味がしないトマトもあれば、信じられないほど甘くて濃厚なトマトもある。
農薬を使って大量生産された野菜があれば、無農薬の有機栽培で育った野菜もある。
「トマト」「きゅうり」「キャベツ」という同じラベルが貼ってあるだけで、全くの別物ということである。
要は、カテゴリー分けが雑になると、好悪の判断も正しくできないということである。
「〇〇の類は受け付けない」は、チャンスを逃すということである。
これは、特に人間関係にも適用される。
「こういうタイプは苦手」と決めつけると、そういう色眼鏡で相手を見てしまう可能性が高い。
実はそうではないのに、苦手な部分の証拠探しをしてしまう。
過去の嫌な経験から「〇〇全般が嫌い」となってしまう人もいるが、もったいないことである。
教師がこの姿勢をもっていると、大変都合が悪い。
好悪関係なく、様々な人間を相手にすることを求められる。
一般の商売と違い「当店に相応しくないお客様はお断りして結構」ということもできない。
全員を伸ばすことが職務上の使命である以上、個人的な好悪は関係ない。
つまり、教師になる人というのは、好き嫌いがあってもいいのだけれど、相手の良い点を見つけられる能力が求められる。
どんな人にも必ず良い点があるということを、嘘偽りなく心から信じられることが求められる。
だから「○○にいいところなんてない」という姿勢の人には、お断り願いたい職業なのである。
この○○に入るものは、特に大変な性質にこそである。
人間、必ず欠点があるので、そこにばかり注目されても、苦しいだけである。
一般的には欠点と言われることすらも受け容れて、良いところを見つける。
好悪を越えて、そのような姿勢がある教師は、輝いて見えるのではないかと思える次第である。
2020年7月30日木曜日
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