他学級の参観でも何でもそうだが、学級の状態をはかるのにわかりやすい指標がある。
あいさつ。
歌。
掃除。
この3つである。
共通していることは何か。
それは、他者貢献の視点である。
あいさつは、自分のためではない。
元々、敵味方が入り混じる社会で、相手に警戒心を抱かせないために作られたものである。
「私はあなたの敵ではありません」ということを示すためのものである。
つまり、相手のためである。
それが巡り巡って、結果的に自分のためになるというだけである。
あいさつがまともにできない。
なぜなのか。
性格が悪いから。
そんな訳がない。
要は、そういう習慣になっていないからである。
あいさつをしなくても困らない、教えてもらえない環境にいるからである。
実は、掃除と歌と同様に、多くは集団の状態に規定される。
周りがどういう雰囲気、空気なのかが、ここに反映されるのである。
当たり前レベルが低いと、どれもやらない。(やれない。)
あいさつできない。
歌えない。
掃除しない。
ダメな状態の学級がもつ「3ない」である。
この3つができなくて「いい学級」と主張することは、事実上無理である。
これら3つができないのは、自分軸で生きているからである。
自分さえよければいい。
そして、逆に自分がはみ出てはいけない。
危険だからである。
最もつまらない、下らない集団である。
だからといって、あいさつ運動などであいさつを「させて」もダメである。
自然とやれる、やらないと気持ち悪いという状態を作らないといけない。
環境である。
あいさつが当たり前という雰囲気、常識づくりである。
どうやってその環境を作るのか。
それは、人である。
どんな集団にも、優れた人物というのはいる。
誰に対しても笑顔で接し、相手を慮り、自分は大変な役を進んで引き受ける。
このタイプの人物は、集団の状態に関係なく、あいさつもできるし、歌も歌えるし、掃除も真面目に楽しくやれる。
そういう人物(子ども)をまずは見抜き、認め、そこから広げていくことが大切である。
逆に、声が大きく自己主張が強い人物に先に注目してしまうと、自分軸の集団が進む。
(こちらの方が目立つので引っ張られやすく、流されやすい人は要注意である。)
こちらのタイプの人が本当に生きるのは、集団が自分軸でなくなってから、更に殻を破る段階になってからなのである。
周囲を思い遣って、譲ったり黙ったりを子どもが自分でコントロールできる状態を優先していく方が、集団としては確実に伸びる。
担任の仕事としては、まずは安全・安心を作って、互いを思い遣れる環境づくりからである。
あいさつ、歌がまともにできないのは、声を出すのが安心ではないからである。
ここから変えていく必要がある。
掃除がまともにできないのは、自分軸だからである。
無欲の他者貢献の気持ちよさを、学習していく必要がある。
あいさつができるようにしたい。
しかし「AさせたいからAの指導」では、だめである。
本質的に何を指導すべきか。
まずは、安全・安心という状態を、担任自身が集団へ担保する。
そこからすべてはスタートである。
2020年7月4日土曜日
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