教師が発問をする。
それに子どもが一生懸命答える。
それを周りが聞いている。
また教師が何か返す。
また一人が答える。
このやり方は、野球に例えると、「ノック」に似ている。
コーチが打つのを待つ。
捕るのは常に一人。
9人が一人ずつ捕る間、コーチは9回打つことになる。
最も活動量と時間が多いのは、圧倒的に、コーチである。
野球の練習の場合、これは守備に特化した練習の一部だから、これでいい。
しかし、授業の基本が毎度この方式では、まずい。
そもそも、35人いる学級だと、35回中34回を見ている形になる。
(つまりは、聞く力が最も必要になる。)
そうではなくて、授業は行う方も受ける方も、試合のイメージで臨むべきである。
守備側だとしたら、球が誰に飛んでくるかわからない緊張感。
バッターの打力やランナーの走力に応じて、ポジショニングも考えて常に微調整する。
自分のところに飛んでこなくても、次の、そのまた次をも考えて動く。
仲間がキャッチをミスするかもしれないし、中継にもカバーにも入らないといけない。
守備という一見「受け身」ながら、能動的かつ主体的に動くことが求められる。
授業でも、この姿勢が必要である。
子どもは授業を「受ける」のだが、そこに求められるのは主体性である。
常に自分がゲームの命運を左右しているという意識。
どんな強い球が飛んできても見事に捌いてみせるという気概。
仲間のフォローアップも常に考えている。
チーム全体への自分の貢献を常に考えることで、結果的に自分自身が誰よりも成長していく。
こういう選手が伸びないという可能性を考える方が難しい。
現実は、真逆の様相を呈していないだろうか。
自分は数合わせにいるだけで、勝負に影響はないという完全に受け身の姿勢。
自分のところに球が飛んでくることはないだろうと、ぼーっとしている。
だから、当たり前に捕れるはずの球が飛んで来ても捕れない。
仲間に飛んでいったらラッキー。
ミスしても当然フォローはない。(ひどいとそのミスを馬鹿にしたり罵倒したりする。)
自分だけが良ければいいという考えで、チームへの貢献など頭の片隅にもない。
この選手が伸びる可能性は、まずない。
これが、小学校段階だけでも年間200日近くあって、かつ6年間続くのである。
両者に差がつかない方がおかしい。
教師の立場で言うと、どんな授業をしているかである。
ノック型の授業では、効果は35分の1か子どもによってはそれ以下である。
試合型の授業にしていく必要がある。
子どもの立場で言うと、どんな姿勢で授業を受けているかである。
自分がゲームの命運を左右するという意識で臨んでいない限り、例え教師が試合型の授業をしても、伸びない。
授業は、教師の環境設定と、子ども同士の相互作用によって効果が決まる。
こちらの授業改革も必要だが、同時に子どもの意識改革も必用である。
2020年7月25日土曜日
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