人格的に成熟してくると、「嫌い」と「感謝」が両立するようになる。
「嫌いだけど感謝している」ということが起きる。
ただ、その瞬間、特に子ども時代は、単に「嫌いだから嫌い」ということしか感じない。
大人になってもこれが感じられない人は、精神年齢が子どものままなのである。
正義と悪をはっきり区別しがちだと、そういう思考に陥りやすい。
「正義のヒーロー対悪の組織」のわかりやすい構図を、素直に受け取ってしまう訳である。
教師の立場として、ここは考えるべきところである。
「好かれたい」という思いが先行してあると、いい仕事ができなくなる。
結果的に好かれるのは結構なのだが、そこを目的にすると、いやらしく、卑屈な感じになる。
あくまでも目的は、いい仕事をすることである。
教師にとってのいい仕事とは、長期的な視点に立って子どもの成長に資するような仕事である。
例えば目先の受験テクニックは短期的には役立つが、長期的な視点で役に立つ類のものではない。
(だからといって不要だという訳でもない。)
私は子どもに漢字一つ教える際にも、そこに附随して他のことを教える。
例えば記憶のメカニズムや、ゴールにたどり着くための思考法、そもそも勉強とは最終的に何のためなのか、などという話である。
なぜかというと、長期的に見て役立つと考えるからである。
漢字の学習自体は、目先のこととして必要だが、もっと長い目で見て他のことを一緒に学んで欲しい訳である。
「今いるものだけさっさと教えて欲しい」というコンビニ的な発想の子どもには煩わしいかもしれないが、そういう子どもにこそ必要である。
そういう風にしていると、一定数には好かれるが、同様に一定数には嫌われる。
「めんどい」「口うるさい」「厳しい」と感じるためである。
それでもいい。
後のことを考えれば、将来的に「嫌いだったけど役に立った」となる日が来る可能性がある。
感謝されたいからする訳ではない。
大人になった時に、役立つと実感できれば、結果的にいい仕事をしたことになるからである。
いい仕事をしたということは、後世の世のため人のために一つ貢献したことになり、自分の生きた証の一つになる。
つまりは、自分自身に対しても、長期的な視点をもつことである。
今短期で楽な道を選ぶと、長期で見て苦しいことになる。
「好かれたい」という思いは、長期的に見て大抵マイナスにつながる。
(本当は行きたくない飲み会やカラオケに参加した時と同じである。その時無理に誘った上司や同僚も、後で恨まれるのである。)
自分自身の学生時代を振り返って、印象に残っている先生を思い返してみる。
一方は、好きだったし、たくさんの学びをくださり、感謝している先生。
文句なしに素晴らしい出会いである。
もう一方は、嫌だったけど、後々の人生に役立つことを叩きこんでくれた先生。
当時は悔しくて陰口も叩いていたが、結局今、確実に生きた学びになっていることを思うと、感謝である。
それ以外は、残念ながら、大して印象にないのである。
印象ランキングとしては
1位 好きな人
2位 嫌いな人
ランク外 どちらでもない人
という感じである。
どちらでもない人は、多くの人にとって実は「3位」ではなく、「ランク外」なのである。
なぜかというと、人間の記憶力には限界があり、刺激の弱いものは「覚えていないから」である。
これは、職場の人間関係や友人関係、恋愛関係、他のあらゆることに言える大原則である。
「好きだったけど学びがない」という人も、意外と存在しないというのも面白い。
そう考えると「好き」には、一定の妥当性がありそうである。
だからといって他人に無理に好かれようとすると、逆に「ランク外」の可能性が一気に高まるので要注意である。
『嫌われる勇気』という本がベストセラーになったが、納得である。
自分の信念をもって行動し、勇気をもって、嫌われる覚悟をもつこと。
軸を世のため人のためにすることで、教師としての自分が生きやすくなると考えた次第である。
2020年7月12日日曜日
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