2020年8月1日土曜日

他力本願の真意

私は、楽器の演奏の類をほとんどできない。
しかし「生演奏」というものに割と価値を置く人間である。
外食でもピアノやジャズの生演奏付き、とかきくと、結構テンションが上がる。

さて、当たり前だが、子どもたちにはそれぞれ誕生日がある。
誕生日が来ると、そこでハッピーバースデーを歌うのが常である。

今年度、隣接学年にギターを弾ける同僚がいる。
職員室にギターが置いてあったので「ハッピーバースデーとか弾ける?」
と尋ねたら「できますよ。」とのこと。
(この質問自体がもはや愚問である。)

「空いている時とか可能な限り」ということを条件に、お願いして、弾いてもらうことにした。
子どもは大喜びである。

お誕生日会が開かれても呼んで弾いてもらう。
そんなに呼ばれて本人は迷惑かもしれないと思いつつ、今は喜んで手伝ってくれているように思う。
(ちなみに、子どもたちが1~2年生の頃の担任の一人でもあり、子どもたちは大歓迎である。
大好評なので、同学年の全学級でお誕生日会の度に依頼させてもらった。)

繰り返すが、私自身は全く弾けないのである。
完璧に「他力本願」である。

人によってはお願いすることを「図々しい」「申し訳ない」ということで、避ける傾向がある。

私は、逆である。
相手が得意な分野と思ったら、積極的にお願いする。
逆に、周りの多くの人が苦手、避けたいことで自分が貢献できるところは、積極的に貢献する。
これは、大人に対してばかりでなく、子どもに対しても同様である。

それが、人が活きて生きる道であると考えている。
自分の能力が活かせるというのは、喜びである。
せっかく自分の得意なものがあっても、求める人が周りにいなければ、宝の持ち腐れである。

だから、教室でも、例えば「算数が苦手な人がいたら有難い」というような話をする。
自分が得意ならば、相手の役に立てるチャンスが訪れるからである。
(教師という職業の存在価値そのものでもある。)

この大原則が、国語や図工や体育等全ての教科で、また掃除や歌や飾りつけや、あらゆることに適用される。
得意の相互提供で、自分の能力のフル活用である。
「助けて!」と「任せて!」が溢れる教室にすることである。

「助けてもらってばかりでは不得意な分野が伸びないのでは」というかもしれないが、それは違う。
助けてもらうことによって、苦手なことも何とかできるようになるのである。
更に、相手への感謝の気持ちと、自分自身も何かでお返ししたいという他者貢献の気持ちが育まれる。
相互リスペクトの関係である。

害悪があるのは、できることもきちんとやらせないような誤った教育である。
それは雨の日の登校に子どもが「濡れるから嫌」「面倒」というだけで、車で親が送り迎えするような行為である。
学校なら、不真面目に話を聞かないでいて、たった今言ったことを質問してくる子どもに、教師がいちいちもう一度説明してあげるような行為である。
そういうだめな態度を放置せず、「自分の足で歩く」「話を聞く」ということを、堂々と教育すべきである。

また「意識すればすぐできる」ことと「努力を重ねてできる」ことは別である。

例えば「雨の日に歩いて学校に辿り着く」は別に努力を重ねずともできることである。
「話を聞く」とか「姿勢を正す」も基本はその時の意識だけの問題である。

一方で「ピアノでショパンの曲が演奏できる」とか「本の原稿を書ける」とかいうことは、意識だけで成り立つものではない。
努力の積み重ねによるものである。
努力の積み重ねの上に、高い技能は身に付いていく。

専門的な技能が必要なものは、人に頼るのも手である。
「外注」というのは、ネットで繋がっている今の世の会社の常套手段である。
どちらかというと、その外注先が信頼を置ける相手であるか見極められることが、今の世では重要である。
(そして受ける側は、そのPRの仕方が重要である。周りが知らないと、頼めない。)

自分が磨くべき技能を見極め、集団や社会に貢献できるようにしたい。

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