2020年8月13日木曜日

不易と流行は往還で成り立つ

 

先日、サークルで師の野口芳宏先生から「不易と流行」というお話があった。


不易と流行は、対義語である。


不易とは、根本・本質・原点に当たるもの。

流行は、その時代において流れ行くもの。


しかしながら、これら二つは両立する。

不易を大事にしながら、流行を取り入れていくということは可能である。


同じように「温故知新」という言葉があるが、これも意味するところは同様である。


ここからは私見。


不易とは普遍的価値であり、左右されないもの。

一方で流行とは、時代の求める必然性をもつものである。


この必然性が大切で、単なる流れ行くものでは意味がないということである。


流行の後にそれが不易になる、ということもある。

その価値は、流れて行かず、押し留まったというようなものである。


逆に「ある時期にはとても大切なことだったが、今はそうではなくなった」ということはたくさんある。

それは、真の不易ではなかったということである。


教育で考える。


例えば今年から始まったプログラミング教育は、現在の見方では「流行」である。

しかしながら、時代の裁きを受け続ける中で、不易としての地位を確立しないとは言い切れない。


(一般に誤解されがちだが、全員がプログラミング言語を用いてプログラミングができるようにする、というための教育ではない。

プログラミングの時に必要となるような、論理的思考を身に付けさせるための教育である。

プログラミング言語を用いてロボットを作れるエンジニアを育成することを目的とした教育ではない。

それは、学校で数学を教えるのが数学者を育てるためではないのと同様である。)


もっと根本的に、教育の不易の価値は何なのか。

これはやはり、よい人間になるように教え、育てることである。


野口先生も仰っていたが「教えてはいけない」というのは、昨今の流行である。

流行は、時代の求める必然性を備えているとはいえ、根本的に正しいとは限らない。


実際は、教えずして育つことはない。

educationの語源通り、子どもの内から引き出すための働きかけも、広義には教えるという行為である。

その上で「育つ」のが行為の主体である教わる側、子どもである。


「教える」が問題なのではない。

子どもが「育つ」という主体性を奪おうとするから、それが間違いなのである。

植物に例えると、思うように大きくならないから「育て」と強制して茎をひっぱり、枯らすような行為である。


教えるという行為は、それとは全く違う。

その種から何が出るかはわからないけれども、土を作り、水をあげ、日光が当たるように周りの環境を整える行為である。

そして個体によっては、他の一般的なものが好む環境を好まないものもあり、そこがとても難しいのである。


また計画的に作る作物とは違い、作為的にこちらが望むものが出てくるかどうかはわからない。

種のもつ生命力を信じて、水をあげるだけである。

一見「育てている」ようで、あくまで、「育つ」の主体は、その種自身なのである。

我々にできることは「教える」に当たる、環境整備の部分だけである。


言葉に踊らされないことである。

「教えてはいけない」という流行に惑わされて、本質を外さないこと。

逆に「教えるのだ」と意気込んで、育ちまでをも奪おうとしないこと。

流行の必要な部分を取り入れて、よりよい不易を確立することである。


不易と流行というのは、常に両者の往還で成立するものである。

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