先月末、お茶の水女子大名誉教授の外山滋比古氏が亡くなったというニュースが流れた。
偶然にもその時、ちょうど外山氏の次の著書を読んでいたところだった。
次の本である。
『「考える頭」のつくり方』外山滋比古 著 PHP文庫
https://honto.jp/netstore/pd-book_28830658.html
この本の内容が、前号までの「知識が大切」という話と一見真逆の論理を展開しているのである。
例えば次のような文章がある。
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(引用開始)
このようにして知識を増やしているうちに、考える頭はどんどん縮小していく。
教育を受けて知識が増えれば、思考力はよけいに落ちてくる。
これを「知的メタボリック症候群」と言うことができる。
(引用終了)
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また例えば、次のような著名な人の言葉を引用して紹介しているくだりがある。
「学術的根拠をもっているバカほど始末が悪いものはない」(菊池寛)
「世の中にはなんでも知っている馬鹿がいる」(内田百閒)
・・・ここまで読んで「なるほど、知識は不要なのだ」と考えたら、それは枝葉末節な見方であり、拙速である。
一方で、次のようにも書いている。
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(引用開始)
われわれの生活の中には、矛盾したこと、反対のことが、ごく普通に共存している。
(引用終了)
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知識の話においても、矛盾したことが、ごく普通に共存している。
つまり、著名な知識人達が「知識はいらない」と説得力をもって述べているのである。
知識はいるのかいらないのか。
このように二者択一的に考えると、問題は解決しない。
世の中には、矛盾が普通に存在するのである。
さて、結論から言うと、知識は必要である。
しかし、あるレベルを越えた時点から、それが逆にゴミのように邪魔なものになってくる。
それは、以前は自分にとって便利だったものが、今や不要になって無為にスペースを埋めているのと同様である。
しかし、ある人にとっては、今でもやはり有用な道具である。
そういうものである。
さて、どうしてこのような矛盾が起きるのかというと、一つは文脈の違いである。
前号に引き続き、ファッションで例えるなら、パリコレの服である。
パリコレでモデルが来ている服は、奇抜だがおしゃれでカッコいい。
しかしながら、それを外で何の文脈もなく一般の人が着ていたら、ただの奇特な人である。
また、周りと違うからおしゃれなのだが、周りと違いすぎるとおしゃれではなくなる。
おしゃれの矛盾である。
これは、場の文脈が違うからである。
コレクションのショーは、ブランドにおける主張の場であり、「舞台衣装」である。
普段遣い用の販売をねらったものではない。
とてもではないが通常では着ることが不可能なものも含まれる。
もっと身近な例だと、ジャニーズはかっこいいかもしれないが、あのステージ衣装で外を普通に歩いている人がいたら痛すぎる。
場の文脈同様、個人の文脈も違うのである。
どんな体型の人がどんな文化の下のどんな場で着ている服なのか、ということである。
「正解」はないかもしれないが、「最適解」と思われるものは、それによって全く変わってくる。
世に名を轟かせている大学の名誉教授の述べる「知識はいらない」という話を、一般の人にそのまま当てはめられるか。
まずもって、基準となる知識量のレベルが違う。
「多い」「少ない」の幅も全く違う。
「1」となる基準がどのレベルなのか、ということである。
年間1冊も本を読まない人の「今年はたくさん本を読んだ」と、年間1000冊読む人の「今年は本をあまり読まなかった」を比べる。
どちらがこの1年間で多く本を読んでいるかは、明白である。
それだけ膨大な知識をもった上で「知識はいらない」と言っており、これはこの文脈において恐らく真実である。
教師の学び方にもこれは当てはまる。
全く他に学ぼうとしない「我流」で完全にやっている人がいる。
この人は、少し外で学ぶのもいい。
一方で「セミナーマニア」とでもいうような、外にやたらに学びにいく人がいる。
この人は、内を見て目の前の子どもや同僚から学んだ方がいい。
言っていることが矛盾しているようで、実は単に個人の文脈の違いである。
「考える頭」が必要なのは、万人共通である。
ただ、材料たる知識が全くない頭で考えるということは難しい。
一方で、知識と常識に凝り固まった頭で考えるというのもまた難しい。
今日は長崎の原爆忌である。
この戦争について、どう考えるか。
どこか一方から得た偏った知識だけで物事を考えていないか。
あるいは、詳しく調べて知りすぎて、実は自分の考えをもてなくなっていないか。
自らの感性を研ぎ澄まし「考える頭」をもてるようにしたい。
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