本来ならば、今週はパラリンピックが開会されていたはずである。
今回は、競争の在り方に関して。
次の本から引用する。
『商売心得帖』 松下 幸之助 著 PHP文庫
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(引用開始)
すなわち、お互いが日々行う競争というものは、戦争のように相手を倒すためのものではなく、
共存共栄のための競争というか、ともに成長し発展していくためのものでなければならないと思うのです。
(引用終了)
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「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助の言である。
松下幸之助は、適正な競争や適正な利潤追求というものに対して、総じて肯定的である。
そこに私心による不正をはさむからおかしなことになる、という至極真っ当なことを、繰り返し訴えている。
共存共栄のための競争は、よい競争である。
オリパラなどスポーツの祭典は、そういうものでなくてはならない。
「科学的に考えて人類には不可能」と言われていた100m9秒台。
これが一人出た途端に、続いて9秒台の人間が世界中に出現した。
競争による共栄、成長、発展の一つの形である。
学校教育においても、競争を完全に排除することはできないし、そうすべきではない。
競争自体が悪いのではなく、競争にも質的な違いがある、ということである。
学校教育で、共存共栄につながらない競争がなされているのが問題なのである。
例えばそもそも、学校の受験はなぜ存在するのか。
各人の能力に応じた適正な教育をするためである。
そのための選別であり、善意の強制といえる。
受験があることで、教える側も、ある程度のレベル以上のものからスタートできる。
目指す方向が似た集団になることで、共存共栄のための適切な競争も生まれやすくなる。
いい意味でライバルと磨き合いやすい環境になる。
受験のない公立小中学校では、ここが揃っていないため、学力差が絡むような競争はうまく機能しない。
競争に依らない、バラバラな方向性に沿った教育が求められる。
公立で教える側は、その意味で、受験のある私立小中学校よりも難しい面があるともいえる。
ここを勘違いして、受験を戦争のような「相手を倒す競争」だと思い込んでいる人もいる。
これはそのまま、大人になってからの生活にも反映する。
お隣の子どもや旦那と比べる、というのは一昔前の時代の話。
今では世界が戦争の対象で、例えばSNSで人よりいい評価を得たい、という自己顕示欲に発展する。
受験は全て自分自身とのたたかいであり、他者がどうであろうが、自分の記録には本来関係ない。
オリンピックに出る陸上や水泳の選手と同じである。
意味があるのは、共存共栄のための競争相手としてであり、共にがんばっている仲間として奮起するためである。
学校において必要な競争。
それは、戦争のように、相手を倒すための競争ではない。
オリンピックのように、自分自身を仲間と磨き合い、共存共栄するための競争である。
オリンピック以上に、パラリンピックがより美しく見えるのは、そういう動機の人が多いからなのかもしれないとも思う。
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