今日は、終戦記念日である。
1982年に定められた正式名称は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」。
追悼と平和を祈る日である。
ちなみに8月15日は、正確には天皇が日本の降伏を国民に玉音放送で発表した日である。
国連に通告したのは前日の8月14日であり、日本政府が正式に調印したのは9月2日である。
一方、旧ソ連(現ロシア)における対日戦勝記念日は調印翌日の9月3日となっている。
すなわち、旧ソ連からすれば、それ以前は「戦争中」というみなしである。
よって、8月末から9月頭にかけて旧ソ連が北方領土に進出したことは、戦争中のことであり問題ない、というのがロシアの側の主張である。
ここに日ソ中立条約の一方的な破棄も絡んで、実にややこしいことになっている。
北方領土も竹島も尖閣諸島も、近隣諸国との国防面から見て最重要地であるため、話もおいそれとはいかない。
歴史をまともに学ばずに大人になり、「離れた島の一つや二つぐらい」という考えの日本人がいるが、とんでもない。
そういうことは、自衛的に十分国防ができる力があってこそいえる。
日本がアメリカの傘下にある上、今の緊迫した世界情勢の中では、とてもではないが、どうでもいいといえない。
教育メルマガとしてここで言いたいことは、これらは教育がすべて、ということである。
国をどのようにしたいか、というのは、教育をどのようにするかということとイコールである。
これを負の方向に利用したのが、戦争中の学校教育であり、国民教育であったといえる。
恐ろしいことに「国民全員が戦争に向かう教育」も「異国人差別教育」も可能ということである。
絶対に教育の方向を誤ってはならない。
話を今に戻して考える。
今の教育を続けていれば、文科省が示す、目指す人間が育成され、国際社会の中で活躍する日本人として巣立っていけそうか。
文科省が示す人間像自体に、誤りはないように思える。
例えば「学びに向かう力、人間性」を育むという方向性は、変化の激しいこれからの時代にぴたりと合っているといえる。
現在の問題は、理念よりも実際の具体の方である。
素晴らしい理念に対し、実際の現場でやっていることが、かけ離れている(というより真逆)というのが現実問題である。
今の、大学受験合格をゴールとした、定められた正解を予想して当てていくような教育をしていて、この力がつくのか。
人と違うことを恥じたり馬鹿にしたり疎外したりするのを促すような教育をしていて、国際社会でやっていけるのか。
みんなが揃って同じことをしていて、この先の社会で役立つ見通しがあるのか。
(軍隊教育にはこれが大いに必要である。一糸乱れぬ揃った動き、上官の命令に常に忠実に従う教育が必要である。個の尊重はいらない。)
素直ということと、無思考ということは、全く違う。
素直さとは、人間として伸びていく上での最重要の資質である。
それは、正しいことを正しいと判断して忠実に従い、誤っていることは自ら正しい方向に修正できることでもある。
素直であるということは、特定の信念に凝り固まっていないということである。
だから、多様性を受け入れられる。
いじめは、多様性への不寛容が最も端的に表れている現象である。
「みんな他と違っていい」となれば、基本的にいじめは起きない。
いじめが人類の文化始まって以来なくなっていないのは、我がナワバリを守り、異質を排除する本能に負け続けてきた動物的な結果であると思う。
とどのつまり、いじめとは、支配の一形態である。
多様性を認め、自分中心の考え方をせず、思いやりと助け合いが当たり前なら、起きないはずの権力争いである。
戦争中の他を攻撃しようという時勢には、いじめ思想はちょうどよいのかもしれないが、今求められているものとは真逆である。
教育の具体を、根本から変えていく。
個の多様性を認め、他とゆるやかにつながりながら、社会に貢献する力と、人間性を育む教育。
現場レベルでできればいいのだが、実際、無理があるように見える。
一部のインターナショナルスクールなどでは実現している様子だが、未だ広まるには至らない。
ゴールの大学受験、その先の就職競争という概念が変わらない限り、少なくとも公立の現場での変化は求められない。
それでも、市井の人である私たちにだって、できることはあるはずである。
平和を祈念する日の今号を、平和の人、宮沢賢治の言葉で締めくくる。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
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