2020年10月2日金曜日

やり抜く力は根性か技術か

前号、評価の在り方について書いた。

そこに関連して、関心や意欲、態度といった心の面をどう評価するか、あるいは向上させるかという点について。


新学習指導要領の3つの柱は、以下の通りである。


「知識・技能」

「思考力・判断力・表現力等」

「学びに向かう力・人間性等」


一方で、ここにおける学習状況評価の3観点は次の通りである。


「知識・技能」

「思考・判断・表現」

「主体的に学習に取り組む態度」


学校での勤務経験のある人はご存知の通り、以前の4観点が3観点に整理されたわけである。


「技能」の観点が独立していたのが、知識と統合されたのは大きい。

知識なき技能、技能なき知識(「畳の上の水練」)というのは、存在自体がややこしい。

統合してみるべきものである。

その点、以前よりは評価がしやすくなったように見える。


さて、どれが一番、評価が難しいか。

言わずもがな「主体的に学習に取り組む態度」である。

これによって「学びに向かう力・人間性等」を育む方向にもっていくのである。


ちなみにここへの評価は、話をよく聞くとか挙手回数が多いとかノートをきちんと書くとか、そういう目に見える類のことではない。

学習の調整や試行錯誤等、学び方そのものを見るというのだから、その評価の難しさは他とは桁違いである。


さて、自分自身を振り返ってみてみる。

大人である自分は、学びに向かう力・人間性等が、十分に成熟しているだろうか。

あるいは、学生時代に「主体的に学習に取り組む態度」に「A」評定をつけられるだろうか。

ここに自信をもって答えられる人は、そういないのではないかと思う。


とにかくこの「学びに向かう力・人間性等」は、対象が広範なのである。

そして、「主体的に学習に取り組む態度」という観点だけでは、到底計りきれない力なのである。


それでも、部分的には測定ができる。

ここから、心理学の話。


何度か紹介しているが「マシュマロ・テスト」の話である。

将来の2個のマシュマロ獲得のために、目先の1個のマシュマロを我慢できた幼児は、将来的にも成功する。

ここには、れっきとした結果が出ている。


さて、これを「意志力(グリッド)」とみなすこともできる。

目標に向けて、やり抜く力である。

やり抜く力は、学びに向かう力・人間性の一つである。


しかし、違う観点もある。

マシュマロを食べなかった子どもは、対象から気を逸らす工夫が上手だった、という観点である。

余計なものから関心を逸らす「見ない技術」ともいえる。

これが高いと、余計なものを見なくなるので、それに誘惑自体をされなくなり、当然目標達成の確立は高まる。


「根性」と見るか「技術」と見るかの違いである。


「根性」でいくと、鍛えるのがなかなか難しそうである。

昔の部活動のように一切水分をとらずに運動し続けたり、滝に打たれたりするのを想像してしまう。

意志力を、筋肉のように文字通り「鍛える」のである。


「技術」と見ると、何とかなりそうな気がする。

知っているか知らないかという知識ベースで、明暗が分れるのが技術である。

(泳ぐということへの知識を科学的に解明しているから、技術となる。従って、新しい知識からは新しい技術も生まれる。)


マシュマロを食べない根性。

我慢の力である。

目標のために、甘い物、お酒、たばこといった嗜好品、あるいはショッピングや動画閲覧をはじめあらゆる娯楽にふけらない力である。

誘惑が多い現代の中においては、かなり辛い状況である。


マシュマロから気を逸らす技術。

マシュマロのこと自体を考えない技術である。

これがあると、誘惑されないので、目標に近づける。

何かしら工夫のしようがありそうである。


ちなみに、食べなかった子どもの多くは、この気を逸らす工夫をしていたという。

違うことをしたり、違うことを考えたりする。

生得的なのか後天的なのかどうかはわからないが、それが身に付いているのである。

(ちなみに食べてしまう子どもは、とにかくマシュマロを凝視している。見ていて可哀そうなぐらいである。)


現実的に考えて、社会で誘惑されないための一番の方法は、それから離れることである。

SNSを惰性で見ていれば、当然誘惑の機会は格段に増える。

目標に向けて集中することも難しく、気が休まることはないと思われる。


何事もやり抜ける人というのは、根性があるというより、余計なものにふれていない、選択肢がないと思われる。

何事もやり抜けないという人は、選択肢が多すぎるのではないかと思われる。

お寺の修行で山に籠るという論理的な理由には、こういう側面が強くありそうである。


集中を妨げるものが多くある中で、学習に集中するのは難しい。

もしも授業をしてその学び方を評価をするのであれば、その授業に集中できるような環境づくり自体が大切といえる。

ぼーっとネットを眺めてしまうのを許すような環境を作ってしまっては、一人一台タブレットも泣くというものである。


そして評価できるのは、あくまでその結果である。

学びを調整できている子どもは、そのやり方が身に付いているのである。

言われるがままにやるしかできない子どもは、そのやり方が身に付いているのである。

(これは多分後天的である。ある意味、学校教育や学習塾等の訓練の賜物である。)

タブレットは刃物と同様、使い手のリテラシー次第で善にも悪にもなり得る強力な手立てである。


人間性といわれているものすら、技術的な側面がありそうである。


評価できるかどうこうを考える以前に、どうやればその力がつくのかを考えるのが前提として大切である。

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