2021年1月16日土曜日

叱れば一部に嫌われるのは必至

 前号の「厳しい先生、甘い先生」の話と関連した話。


叱らないことで信頼を失うという話を書いた。

認めるべきを認め、叱るべきを叱ることで、信頼が生まれることも書いた。


これを読んで、希望を抱いてくれる人がいたのなら嬉しい。

しかしながら、ここによるデメリットというか、覚悟が必要となるということを今号では付け加えたい。

商品説明ではないが、予め問題点を示すことで「こんなはずじゃなかった」を防ぐことも、提供する側の義務である。


結論から言うと、確実に嫌われる覚悟が必要になるということである。

厳しい先生は一部の子どもや親の絶大な信頼獲得と引き換えに、反対の一部の子どもや親にかなり嫌われるし、場合によっては恨まれる。

多分、これが嫌だから、多くの人が叱れないといっているのだろうということは、容易に推測できるが。


荒れた世の中を考える。

例えば戦時中や戦後のような、権力と暴力が世を支配するような状態である。

法が通っておらず、盗みを始め各種犯罪を取り締まるものもない世界である。

日本もかつて経験しているし、今でも世界中に現実としてたくさんある世界である。


治安機関の機能していない無法地帯では、悪のやりたい放題である。

暴力でもって子どもや女性などの力の弱い立場の人を、自分の道具のように扱う者がいる。

荒れているからこそ、暴利を貪って儲けられている一部の者たちがいる。


ここを正し平和をもたらそうとする力の持ち主は、これら「混沌の受益者」にとって、邪魔で有害な存在である。

乱れた世に革命を起こそうという人物や政治家がそういった組織に敵視されるのも、至極当然の流れである。

犯罪者にとって正義を司る警察や裁判官は、最も厄介な存在の一つである。


成功した暁にも、ずっと残党に狙われる。

歴史上でも、世の中を大きく変えて救った英雄は、かなりの確立で残党に暗殺されている。

居場所を失ったかつての受益者たちに、恨み続けられるからである。


つまり、ある正しさをもたらすと、かなりの確立で一部に恨まれるということである。

その正当性なぞ関係ない。

弱い者をいじめたり恐喝したりして憂さ晴らしや小遣い稼ぎを楽しんでいた生徒からは、真面目な熱血教師は邪魔な存在である。

弱きを助けて、強きをくじくのは、くじかれる側からすれば、邪魔者以外の何者でもない。


前号で大学生と教授の関係を書いたが、ここも同様である。

出席しなくても安直に単位だけくれる教授は、恨まれることは絶対にない。(一部の真面目な学生に軽蔑されるかもしれないが。)

一方で、厳しい教授は、単位取得こそ苦労するが、必要な力がつく可能性が高い。

膨大な量の本を読んだりレポートを書いたりするのは、外的モチベーションがないと難しい。

他律的自律である。


しかしながら、後者の教授は(結構多くの)学生に陰口を叩かれること必至である。

こちらの学生に学問をしたいとか力をつけたいとかのニーズはなく、単に卒業に必要な単位を欲しいだけだからである。

力をつけるための「壁」になったら、確実に嫌がられる。


また、叱るべきを叱るということを繰り返していれば、失敗も起きる。

叱る場面における勘違いやすれ違いも、その分たくさん起きるからである。

本当はこうだったのにこちらが理解していなかった、ということには、確実に出くわす。


成功率99.9%でも、0.1%の失敗を思いきり突かれる。

(政治家や有名人を見ていても明らかなことである。たった一つの失敗を大々的にあげつらわれる。)

ただしこれは、ある意味仕方ない。

プロの仕事であると考えるならば、当然の報いである。

例えるなら、ある商品を購入して故障のクレームが来たお客様に対し「1000台中1台が故障していただけです」が通らないのと同じである。


特に、前年度までに人間関係が荒れているなど、叱らざるを得ないような行為が多い学級であれば、叱る頻度も高くなる。

そうなれば、その中に失敗も含まれてくる。

誤解が生じるのは人間関係の常であり、頻度が高くなればそれも生じやすい。

あらゆる仕事に共通のことで、困難な状況を与えられたら、それを改革したり克服したりするのに痛みや苦しみはつきものである。


そう考えると、失敗しない最大のコツは、「何もしないこと」である。

つまり、悪い行為や苦しんでいる救うべき子どもに対しても「見ざる聞かざる言わざる」である。

犬も歩けば棒に当たるし、猿も木から落ちることもあるからである。

真面目にやれば、嫌われたり恨まれたりすること必至である。


叱るべきを叱るをやっていれば、そういう目に遭うことは、残念ながら免れない。

作用反作用の法則の通り、絶大な支持を得るということは、それ相応のアンチも生むということである。


要は「どう生きたいか」だけの問題である。


教師生活は見ざる聞かざる言わざるで過ごしていても、実は何ら問題はない。

きちんと給与も定額で支払われるし、立場も身分も保障される。

安全に過ごすには、それに越したことはない。


ただそれは仕事をしているといえるのか、生きているといえるのだろうか、と疑問に抱くのなら、動くしかない。

その代わり、先に述べたような理不尽とも思える代償を引き受ける覚悟が必要である。


最初から最後まで完璧な人というのはいない。

子どもを通して、教師も成長するものである。

傷付くことを恐れて逃げていたら、成長はない。

(一方で、それでも安全がいい、という人生の選択肢は、あると思う。)


思えば、私自身もたくさん失敗をしてきた。

きっと気付かないところで、自覚しているよりもはるかにたくさんの失敗をしている。

自分としては正当であっても、受け取る側が不服であれば、それはやはり「失敗」のカウントである。

見えている失敗が0.1%で、見えていない方が99.9%かもしれない。

そうであるならば、知らないところでたくさんの人に恨まれ、嫌われていると考えるのが当然である。


しかしながら、私は自分の仕事で救えた人も見てきている。

子ども、大人問わず、希望を与えられたという感謝を頂く例もあるのである。

それもやはり、自分の信念に沿って従って生きてきた結果だと思う。


良い結果も悪い結果も受け取る。

その覚悟があるのであれば、やはり叱るべきは叱る。

そうでないならば、安全に余計なことを言わずに生きることをおすすめする。

信念を貫き通すことよりも、病気にならないことの方がまずは大切である。


私自身は、ぶつかりながら転げ回りながらも、泥臭く自分の信じる道を進む生き方を選んでいきたい。

そういう役割も一定数必要と考える次第である。

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