2021年1月24日日曜日

誰のためにそうしているのか

 先日、授業中の、ちょっとしたニュアンスの伝わり方の行き違いを発見した。

それをするのは誰のためか、という話である。


漢字テストでは、丁寧に書くことを求め、指導している。

理由は、漢字テストが「漢字の字形が正しく書けるか」を調べ、不備に対しては今後の修正を求めるためのものだからである。


雑に書いてあるものだと、ここを〇か×かで煩悶することになる。

だから「丁寧に書く」を求めるのである。

(もはや「頼むから、お願い!」というのに近い。)


テストの〇つけという類のものは、実際やるとわかるが、これが結構難しい。

「これは〇かな、×かな」というものがかなりある。

その時は「基準」を頼りに判別することになる。


入試のような、公式のテストの採点の際に、誰が見ても〇になるように書くこと。

〇か×か迷うような判別が難しいものは、×にする。

そう伝え続けている。


中に「つまり厳しく見るのは自分たちのためだ」と捉えた子どももいる。

それは、間違っているという訳ではないのだが、実は少し違う。

あくまで、〇をつける側にとって判別・説明ができないという面があるからである。

だからその場合は×になるよ、というだけの話である。


「今だけおまけで〇」にもできるのだが、教える側がぶれると、同時に教わる子どもの側にもぶれが生じる。

そうすると、子どもも同じ失敗を繰り返し、こちらもまた迷うはめになる。

さらに「この前は〇だった」という不満はもちろん、「〇〇ちゃんは〇だった」という厄介な問題まで生じる。

これが入試だと「不正」として大きく取り上げられることは周知の事実である。

だから、〇か×かは、基準を設けてはっきりつける必要がある。


それが結果的には子どものためになるかもしれないが、あくまでこちらの仕事として必須のこととしてやっているまでである。

「おまけしてくれてでも、100点をくれた方が帰ってから怒られないから私のためになる」という子どもだっているだろう。

しかし、それは個人的な都合である。

そこに余計な配慮をすることは、教育的に見ても本質ではない。

(家がその状況なら、正直に見せない方がいいということを自然と学ぶ。それも生きる力である。)


実際「あなたのため」なんて大そうなことは、考えていない。

(後々に〇をつけたり担任したりする人のためになるかもしれない、とは考えている。)

単純に、それが基準のテストだから、そう書きなさいといっているだけである。


誰のために仕事をしているのか。

それは、自分のためである。

それが、結果的に後々人様のお役に立つことがあるかもしれない、という程度である。

それは常にあくまで「願い」であり、どう捉えられるかは、自分の範囲の外である。


自分の求めることを「誰かのため」などという勘違いをしないよう、自戒を込めて書いた。

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