2021年4月8日木曜日

「間違い」→「ニーズの違い」と理解する

前号の続き。

文化の違いと正解の違いについて。


働く側が職場に対して求めることも異なる。

ある人は、自由に創造的に働けることを求める。

ある人は、やることが予めきちんと手順まで決まっていることを求める。


規律がきちんとしていて、定時に帰れることを求める人もいる。

規律等はゆるくても、とにかく各自のペースでのんびり働けることを求める人もいる。


学校という場で考えると、この辺りの認識のズレが苦しみの根源になりやすい。

部活動問題など最もわかりやすいが、土日も積極的にやりたい人と、全くやりたくない人が混在する。


家庭と子どもの側からすると、土日も部活をやってくれることは嬉しい、助かるという声もある。

そして逆の声も、もちろんある。


育った文化が違えば、「正解」「正義」は異なる。

つまり、完全オーダーメイドの提供は無理である。


オーダーメイドとは、サッカーで例えるならば、とにかく自分が走り込んだところにボールを出せという要望になる。

私ではなく公の場である以上、どこか「適」と考えられる場を「落としどころ」としてある程度合わせる必要がある。


教室という場に絞ると、受ける側の要望と授業内容というのは、大抵の場合完全一致しない。

本当にそれを学びたくて授業を受けている学生がいるかと思えば、ただ履修単位が欲しいだけという人もいる。

小学校や中学校でもそれは同じで、本当に学ぶのが楽しい子どもと、ただ時間が過ぎ去るのを待つ子どもである。


どちらが正しい、間違っているという訳ではない。

ただ、ニーズが違うだけである。


さらにややこしいことに、教室ではこの両者だけではない。

教師の側には学校(さらには委員会や文科省)としての要望が乗っており、学生や児童・生徒の側には、保護者の要望も乗ってくる。

言うなれば「上からの要望」であり、これを無視することはできない。


だからそれぞれの教室内での「本当はこうしたい」が通用しない。

落としどころを探すのは、さらに難しいことになる。


そう考えると、やはり集団には目的や理念の共有が必要である。

関わる個人の全ての要望に配慮すると、解が出ない。

「ここが柱」ということがはっきりしていれば、とりあえず全員そこに立ち返って考えることができる。


学校であれば、学校の教育理念やルールである。

教室であれば、学級開きでの所信表明や学級目標、全員で共通理解して作ったルールである。


ここで目的や理念だけでなく、ルールを挙げたことに意味がある。

一定のルールがないと、集団の維持は不可能である。

先に述べたように、集団成員の各人の文化が全く違うからである。

共通理解事項として「集団としてのとりあえずの正解」を共通認識しておく必要がある。


認識違いやすれ違いは、ここの理解不足から生じる。

自分は相手を理解できていない、相手の正解が自分の不正解かもという前提に立つ必要がある。

「わかっているはず」「こうしてくれるはず」という自分本位の期待が、失望や怒りを引き起こす。

例えば本来自由な存在である子どもが、期待通りに動いてくれることなどまずない。


大人同士も然りである。

思うように相手が動いてくれている、黙ってくれているとしたら、自分を抑えて合わせてくれているだけかもしれない。


自分自身を振り返ってみても、合わせている面もあるが、周りに合わせてもらっていることだらけである。

いつでも「お互い様」という気持ちを忘れないようにしたい。 

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング