ここ最近、研修等でクラス会議について話すことがまた多くなってきた。
自治的学級づくりは長らくの中心テーマなので、当然といえば当然である。
クラス会議は、円になって行われる。
これは「距離の平等」=「全員の立場の平等」を象徴している。
フラットな関係である。
また、輪番で発言するというのも基本的なルールである。
つまり「発言機会の平等」が保障されている。
「発言に対して否定をしない」というのも基本ルールである。
(自分の学級では、反対ではなく「心配」という表現で発言するように指導している。)
つまり、立場によらない自由な発言が保障されているということである。
これらは、問題解決能力が高く、幸せで生産的な組織の諸条件でもある。
(参考:『予測不能の時代:データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ 』 矢野和夫著 草思社)
つまり、クラス会議で設定されている基本ルールは、組織論から言ってもかなり合理的なルールといえる。
元々がアドラー心理学の「共同体感覚」を育むことが目的となっていることからも、納得である。
この逆をいけば、クラスとしてあまり良いものにならないといえる。
1 子どもの中に立場の上下がある
2 発言権に偏りがある
3 意見が否定される
ちなみに誤解なきよう一応付け加えるが「否定しない」というのは、授業で誤答もそのまま「いいね!」と認めるということではない。
1+1=3という子どもがもしいたとしたら、その意見自体は受け止めるが、そこは確実に修正指導が必要である。
そうではなくて、「自分はこうしたらいい思う」というアイデアを出したこと自体が否定されないということである。
それが「最適解」ではなくとも、一つの大切な意見として認められるということである。
非生産的で全員が幸福でない組織にありがちなのが
「まだ若造の分際で」「わかっていないなぁ」「また変なことを言って」という態度をとる人間の存在である。
こういう雰囲気、空気があると、確実に非生産的な組織になる。
これは、子ども集団も同じである。
(「全員が」とわざわざ付け加えたのは、そこでマウントを取れている人間は幸せでいい組織だと思い込んでいるからである。)
つまり、その大原則を外さないクラス会議を続けていくことで、クラスは確実に良くなっていく。
難しいのが、その基本ルールの徹底である。
放っておくと、すぐに発言が偏る、否定的な言動をとるといった事態が起きる。
それまでそれを「当然」と考えてきた子どもに指導するのは、なかなかの困難が生じる。(対大人ではもっと困難である。)
そこへの指導を、いかに介入を少なく、かつルールを担保していくかが、学級担任の仕事になる。
クラス会議は、やってみること。
それに尽きる。
できるかできないかではなく、クラスを幸せな問題解決集団に育てるために、やる。
一番多い「どうしたらいいですか」という質問への誠実な回答は、それだけである。
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