以前、卒業式と髪型に関することが世間で話題になっていた。
本人の「出生ルーツ」にまつわるというあの話である。
学者や芸能人もコメントをしており、いわゆる「炎上」状態であった。
『不親切教師のススメ』第5章において、髪型や服装の問題についていくつか書いている。
これらの問題については、以前より関心事であり、今号はここについて補足的に書く。
先に断っておくが、件のニュースそのものについては、コメントできない。
なぜならば、どのような背景や前提条件、事実があったのかが、外部からさっぱりわからないからである。
ルールの有無も事前交渉の有無もそれまでの指導のやりとりの経緯や人間関係等、背景となる文脈が全くわからない。
見えない、知らない、わからないという情報不足の状況に対して、いずれかの善悪を公平に断じることは不可能である。
ニュースとは別に、学校における服装、髪型におけるルールや風習ということについて書く。
まず、服装や髪型においても、場のルールに従うというのは大前提である。
例えばスポーツの各種大会において、ユニフォームを着ないで試合に参加することは認められない。
ドレスコードのあるレストランにおいて、そこに引っかかる服装では入店拒否があり得る。
接客業等であれば、髪型が規定されている場合、それはアルバイトであっても守る義務が生じ、守れない場合減給や解雇につながる。
学校の場合も、それが正式に規定されている時には、児童生徒にはそれを守る義務が生じる。
ただ学校が他の組織と全く違うという特殊性は、児童生徒に対し懲戒を加えることができるが、罰を与えられないという一点にある。
特に義務教育においては、ルールを守らなくても、一般社会のように「除外」が認められることはまずない。
罰を与えられない以上、ルールを守るどうかは、児童生徒自身の自己決定に全てがかかっているといえる。
そして、そのルールが妥当であるかということへの検討も常に必要である。
問題があると思われるルールの改変や例外規定についても検討する必要がある。
時代の流れにおいてもはや不要になったルールというのもかなりある。
様々なことが旧くなってしまった現代の学校には、この検討こそが重要である。
ルールではない風習のようなものもあり、これもあだやおろそかにはできない。
例えば高校野球においては、長年にわたり坊主頭が「常識」として風習化していた。
(高野連は坊主頭をルールとしては規定していない。)
しかしここ最近の世界の潮流に沿って、少数派ではあるが坊主頭以外で出場する学校も出てきた。
そもそも坊主頭はルールではないので、大会運営上も一切構わないはずである。
それでも、依然として坊主頭が「正しい」という風潮はある。
坊主頭を部活動参加上のルールとしている学校やスポーツ少年団等も、恐らくかなりある。
その設定ルール自体が悪い訳では決してない。
各組織には、組織をよりよく維持していくためのルール設定の権限がある。
設定ルールに合理性があるなら、尚更である。
そこに文句があるなら、組織のメンバーが自らルールを変える運動をする必要があるというだけである。
かつて理由があってできたルールであり、下手に変えない方がいい場合もあり得るため、関係者同士でよくよく検討する必要がある。
学校においても同様である。
ルールにおいて「〇〇を認めない」と明示されていることに対しては、個人の勝手な判断で破ることは認められない。
個人的にその「○○」をどんなに良いことだと思っていても、である。
『不親切教師のススメ』P.143より引用する。(ブログ上での見やすさを考えて一部改行)
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(引用開始)
「木登り禁止」というルールがある学校は多い。公園にもある。
子どもの主体性の向上を目指す不親切教師としては、余計なことまでわざわざ禁止しない方向で考えるのだが、
学校ルールとして予め禁止されていることに対しては守る方向でよりよい指導を考えていく必要がある。
(引用終了)
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個人的には、運動機能の発達のために木登りはした方がいいと考えている。
しかし、安全第一の学校という組織においてそれは認められない。
木には蜂の巣が作られていることもあり、確かにそこに一定以上の危険性がある。
その合理性にもある程度以上納得しているため、そのルールを変えようとも思っていない。
(大規模校ほど子どもの数が多すぎて目が行き届かず、色々な子どもが在籍しているため、大きな事故の可能性が高まる。)
だから、ルールを守った上で、次善の策をとっていく。
例えば「教師が見ている場合のみ可」というような条件付きの場合のルール改変を交渉する。
あるいは、登り綱のような「運動機能の発達に貢献する」という目的に合致する、木登りに代わる別の手段をとる。
「ルールに従う」を基本にして、問題があると感じるなら「なくす」や「一部変える」といった交渉をする。
あるいは、ルール上で行える次善の手を打っていく。
こういったことを、教職員や児童生徒がそれぞれ主体性をもって行うようになっていくことが大切である。
卒業式の服装や髪型については、各校の判断に任されている。
例えば「出席に際し、なるべく華美な服装や髪型はお控えください」という学校からの便りを出す場合がある。
これは「禁止」というルールではなく「お願い」である。
破っても罰せられることはないが、できればこうして欲しいという緩やかなスタンスである。
ちなみに、なぜ「華美」を避けたいとわざわざ伝えるのか。
いくつかあるが、最も合理的な理由は、家庭間経済格差や経済負担に対する配慮であることが多い。
『不親切教師のススメ』で制服や体操服の合理性について書いたが、あれと同様である。
ルールやお願いには、単に学校の都合の場合もあるかもしれないが、そうでない場合もかなりある。
こういう風にすると、大方が華美な服装や髪型は避けて出席する。
一部敢えて華美にしてきたとしても、それは各家庭の判断であり、ルール上も問題なく、特にふれる必要はない。
家庭の方針によっては「ここ一番」に力を入れたい気持ちもよくわかる。
大体が守ってくれてさえいれば、大まかにはお便りの目的が達せられることになる。
全くお便りとして出さない場合を考えると、各ご家庭で「他のみんなはどの程度まで着飾るのか」とやきもきする可能性が出る。
ある程度緩やかに「スタンダード」を示したといえる。
一方これを「禁止」と明示する場合、そんなに穏健にはいかない。
学校側としては、公にルールとして示した以上、徹底的に守らせる必要が出る。
禁止事項に従えないやんごとなき事情があるのであれば、交渉に応じる必要も出る。
「ルール」として定めるというのは、それなりの覚悟が必要になるのである。
まとめると、ルールというのは強力な「正義の諸刃の剣」である。
設定されたからには、それを正義として守る必要と守らせる必要が出ることで、戦いや争いに発展する可能性を含む。
なぜならば、破ったことを放置しておけば、不当に破った側に実権を奪われる形になってしまうからである。
加えてもっと悪いことに、誠実に守った人間が組織に対し大きな不信感と反発心を抱くからである。
何が正義かわからないという状況は、組織を混沌に陥れる。
ルールというものは効果が大きい分、負担も大きい。
ルールの妥当性を常に吟味し続ける必要も出る。
学校教育とは畢竟、ルールの学習と言っても過言ではない。
ルールをどう考えるかは、教育をどう考えるかと直結しているといえる。
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