2021年2月5日金曜日

当事者意識をもって動く

 前号では「多様性を受けとめる教室」について書いた。


実際、子どもの多様性が教室で受けとめられているか。

そうでないとしたら、なぜなのか。


小学校の入学時点で考えてみる。

「小1プロブレム」と言われるように、小学校に適応できないということが問題になっている。


この「問題」は、子どもの問題なのか、学校側の問題なのかという視点である。

多様性を受けとめる教室の視点であれば、確実に学校の側の問題と捉えるべきである。

それが「当事者意識」というものである。


当事者意識がなければ、他者の解決すべき問題として扱うことになる。

小学校に適応できないのは子どもと保護者の問題であり、学校の問題ではなくなる。

その意識では当然、工夫をしなくなり、解決の道はなくなる。


「学校が悪い」と言う場合、今度は我々職員の側の当事者意識が問われる。

もし学校の責任だと考えた場合、自分は「当事者」ではなくなる。

ずっと上までいくと、文科省の責任だと考えた時、自分にできることがなくなる。

これが一番、楽である。


人間は基本的に楽をしたいから、楽な思考を選択してしまう。

周りが悪いから、仕方がないのだという考え方である。


これでいくと、「小1プロブレム」は「私には解決不可能」ということになり、被害者は子どもである。

当事者意識の欠落につながる。

この「当事者意識」という言葉自体に、自分が当事者ではないという暗黙の線を引いてしまうのが難しいところである。


真の当事者意識をもって考えた時、自分に何ができるかである。

多様性を受けとめる教室を作りたいなら、一年生が入ってくる時点で既に作っていないと難しい。

「自分は基本、高学年担任だから」と低学年の教室に無関心でいると、その子どもたちはあっという間に高学年になる。


1年生は、多様性を受けとめる素地をもっている。

色んなことを、あまり区別しない。

男女の意識も0ではないが、高学年に比べかなり希薄である。

多様性を受けとめる教室づくりのためには、この時期が最大のチャンスである。


問題の本質は、男女の意識差どうこうではない。

全てにおいて、一人ずつが違って当たり前という意識の醸成が目的である。


些細な「当たり前」への見直しが必要である。

男女で色分けされた引き出し。

黙って座ってお行儀よくひたすらきくという入学式(あるいは卒業式)の在り方。

背の順という並び方。

教室前方に向かって配置された机。(今は感染症対策で仕方ないが。)

男子のトイレだけが全て個室ではなく小便器が存在することの意義と弊害。

学校内のちょっとした段差の数々。

・・・・


一人一人が違うという観点から見ると、常識としての問題が、山のように見つかる。

どれもこれもオーダーメイドは無理かもしれない。

そうであるなら、全員にとって「これなら無理なく使える」というものに調整していく必要がある。

(トイレ問題など、男女共に全部個室にしてしまえば済む話である。

腹痛を無駄に我慢する全ての男子にとっても助かる。)

その上で、それでも対応が難しいものには、オーダーメイド対応である。


この問題を発見するには、こちらの常識的な視点では難しい。

子どもに教えてもらうことが一番である。

残念ながら、一年生は言語化があまり得意でない子どもが多い。

少し上の学年の子に「一年生の時、何が嫌だった?」「不便だった?」と聞くと、わかるものもある。


いずれにしろ、子どもがそれを言える環境にあるかどうかである。

これは、大人の側がそういう意見を自由に言える環境にないと難しい。

その環境づくりさえも、自分の「当事者意識」にかかっている。

正直なところ、そこに絶望している人も少なくないように思えるし、学校現場は、そういう現状である。


そうであるから、無理なく、小さく、できるところから。

1年間の終わり間際である今は、実は教室の仕組みを含めて色々と変えるチャンスである。

(変えてうまくいかなくても一度区切りがつく。)


当事者意識をもつためのスタートは、責任を重く感じることよりも、今小さなできることを始めることからかもしれない。

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