先月、国語の授業中にした話。
国語のテストではよく
「この時、主人公の○○はどのような気持ちだったでしょうか。」
という問題が出る。
この問題自体には、本来「正解」はない。
登場人物の「正解」たる気持ちなど、わかるわけがない。
できることとしたら、出題者が用意した選択肢の中から「妥当」と思われるものを選ぶことだけである。
あるいは、記述中から気持ちを推察できる箇所を抜き出すだけである。
これは実際に作家の方が述べていることでもある。
国語の有名な教材となったその作品のテストと模範解答を見て「私はこんなこと一切考えてません」とのこと。
作者はあくまでその作品の登場人物の生みの親であり、作品中の登場人物そのものではない。
その生みだした人でさえ、その登場人物の気持ちはわからないという。
まして赤の他人がわかろうはずはないのである。
これは、ひねくれて言っている訳ではない。
「正解存在主義」への警笛である。
このトレーニングを繰り返す内に、物事には必ず誰かが用意した正解があるという前提をもつ。
ただし、この種のテストは、論理性を鍛えるのには役立つ。
例えば「目にいっぱいに涙を浮かべて」という記述が直前にあった場合、感情の揺れを考えるのが論理的な回答である。
「清々しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み」とあれば、前向きになっていると考えるのが論理的な回答である。
要は、テストでは文章中の記述を根拠とした論理的な思考力を問うているに過ぎない。
登場人物の気持ちを論理的に推察せよという問題である。
ただこれが、実際の人間を相手にした時に、それがそのまま適用できる訳ではない。
話している最中に相手が目に涙を浮かべていても、それは感情が揺れているからとは限らない。
単にあくびをしたという生理的現象によるものかもしれない。
花粉症などのアレルギー性によるものかもしれない。
あるいは、「あなたの話を真剣に聞いてます」というための演技かもしれない。
そんなこと、本人しかわからない。
人間の感情表現は、とてつもなく複雑である。
「嬉しい」と言ったから喜んでいるのだ、という単純なものではない。
相手を慮って、苦手なものを「好き」と言うときもある。
「大嫌い」が本当は大好きの意味の時もある。
どんな言葉をかけてもむっつり黙っている人が心から喜んでいる時もある。
怒鳴っているのと泣いているのは表現の違いだけで気持ちは同根であり、それが何を示すのかはわからない。
気持ちに対してできるのはあくまで「推察」であり、本当の気持ちは、本人しかわからないものである。
実際の人生には、用意された正解はない。
「みんなが納得する論理的に妥当な解」なら説明がつきやすいというだけの話である。
大学入学共通テストも、「きっちり説明のつく解」を厳選したもののはずである。
このテストが誰かの作った妥当な解を推察するものである以上、小学校教育もこれに準じるものにならざるを得ない。
そうなると、国語の授業で教えるべきは、感情論ではなく、あくまで論理性である。
文学作品などでは、本人なりの感情的な作品鑑賞の余地を残す。
論理的に解釈するにしても、どう受け止めるかは、本人次第というところである。
どんなに名作であっても、その人に「刺さる」かどうかは、本人次第である。
国語の授業で子どもに「正解」を聞かれて悩む人が多いときくので、書いた。
0 件のコメント:
コメントを投稿