2021年2月19日金曜日

フィンランドの教育改革と日本の教育改善

 次の動画から。


https://youtu.be/8cOsqYItCoI


アメリカの某有名監督がフィンランドの教育について紹介した動画である。

フィンランドの教育改革は、認めざるを得ない大成功である。


これを見て「やっぱり」という、嬉しさと、悔しさの両方がこみ上げてきた。

この読者の方の中にも、同じ思いの人は多いはずである。


嬉しさの方は、やっぱりこれなんだとわかったことである。

子どもたち、特に低学年の子どもには、遊びこそが学習であるということ。

木なんか勝手に登らせておけばよいこと。

詩や絵画、音楽といった芸術活動こそが人間を育てること。

決定権をもたせ、大人扱いすること。

問題意識をもち、自分で考え、自分の言葉で話し、書けるようにすること。

自分も他人も尊重することで、幸せに生きられること。

ずっと言ってきたことである。


悔しさの方は、やっぱり駄目だとわかったこと。

大量の宿題が有害であること。

そもそも授業の内容と時間が多すぎること。

定まった解を答える選択式テストの在り方が教育を根本的にダメにしていること。

全国統一テストが差別と教育格差を生むということ。

テストで点を取る訓練は教育ではないということ。

テスト訓練に特化したところが評価され大儲けする誤った仕組みになっていること。

教育と子どもが経済の食い物にされているという誤った構造。

ずっと言ってきたことである。


結局、何がだめでやめるべきかも、どうすればいいのかも、実はみんなわかりきっている。

問題は、今の方向で努力した先に本当に望む未来はないとわかっているのに、なぜ方向を変えられないのかである。


私はここを「一貫性の罠」という面で考えている。

要するに、変わらないことで筋を通すことが清く正しいという考え方の落とし穴である。

ずっと主張してきたことを、誠実な人ほど、今更変えられないということである。

それは「裏切り」になるのではないかという恐れである。


何かを変えようとすると、既得権益のある人にひどく抵抗されるのは目に見えている。

今の地位を与えてくれている集団から逆賊扱いを受けるのは必至である。


だから、既に高い地位のある人に、改革を求めるのは道理的に無理がある。

実際に近代日本史における諸改革は、反乱や外力によるものばかりである。

今の日本の教育の基礎が、当時の諸外国にとって都合の良い形に整えられたものであることは紛れもない史実である。


本当は、すぐにでも変わった方がいいのである。

以前使っていたものが今は合わないということの方が自然である。


二槽式の洗濯機の登場は昭和において革命的なほどに便利な製品だったに違いない。

しかし、今は乾燥機もついた全自動のものがあり、一般的には使われない。

何なら、いつの時代まで川へ行って洗濯板で洗うつもりなのかということである。


大きな団体であれば難しいが、個人であれば、すぐにでも変わることができる。

私自身、正直、言ってることもやっていることも、ころころ変わる。

これにはかなり自覚的である。


かつて燃えていた、熱心にやっていたことを、次の年にはパタリとやらなくなることがしょっちゅうある。

もっと極端な場合、価値観が以前と真逆になっていることもある。

かつて「勝つ」とか「できる」とかを非常に重視していた時代もあったが、今はどちらでもよいと思っている。

(やろうと思えばすぐにでもやれる。しかし、もうやりたくない。)


やり方に一貫性があるかといえば、はっきり言って、ない。

ある程度の一貫性があるのは、志の面だけである。

「学校は子どもが良くなるためにある」「教育を良くすることが社会を良くする」というような信念ついては、一切変わっていない。


逆に、今年度のようにやり方を変えざるを得ない場面でも、大きな抵抗感はない。

そういう時代なのだから、そういう風に自分の考え方とやり方を変えようというだけである。

何もなくても毎年変えようとするのだから、周囲からも変わろうという力が働いて、助かるぐらいである。


日本の教育の在り方は、根本的に変わるべき時である。

改善や改変を工夫している時ではなく、改革の時である。

タブレットの導入、少人数学級の導入等々の教育施策は、方法レベルの改善ではあるが、改革ではない。

どんな素晴らしい改善方法をとろうが、その先にあるのが結局点取り競争なのであれば、元の木阿弥である。

この学校教育の修了の先に、人間としての幸せがあるかどうかである。


話が大きくなりすぎたが、まずは個々の意識改革からである。

教育の現状に対し、それぞれが疑問に思い、まず「これは変なんじゃないか?」と声を上げていかないと変わらない。

この点は、職員会議や学級会と同じである。


そして、子どもたち自身に改革の意識はあるか。

これからの時代、今目の前にいる子どもたちが時代の担い手、主役になるのである。

その主人公たる意識、主体性があるか。

子どもたちが今の学校の常識というぬるま湯に当然のようにつかっているようでは、未来は危うい。


今の学校に文句があるなら、一緒に変えよう。

みんなが良くなることを望んでいるのだから、みんなで一緒に変えようとすればいい話である。

フィンランドができたのだから、日本にだってできないはずがない。


私は自分のできる位置から、できることをやる。

子どもが近くにいるのだから、子どもと一緒にやっていく。

仲間がいるのだから、仲間と一緒にやっていく。


小さくてもいいから、近くからさざ波を起こしていく。

さざ波同士が同じ方向に向かえば、大きなうねりが生まれる。

誰が読むかもわかっていないメルマガやブログを発行し続けている理由も、全てはそこである。


まずは、今、ここ、自分からである。

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